2024年12月8日「神のまことと正義」

2024128日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:マタイによる福音書135358節、ローマの信徒への手紙162527節、イザヤ書591220

神のまことと正義

 

 

アドベント第2主日礼拝

 

 先週の121日(日)より、アドベント(待降節)の中を歩んでいます。アドベントはイエス・キリストの誕生を待ち望み、そのための準備をする期間です。アドベントはクリスマスの前日の24日まで続きます。本日はアドベント第2主日礼拝をおささげしています。

 

 講壇の前に飾っているリースは、アドベントクランツと言います。教会ではアドベントの時期に、クランツに立てられたろうそくに、毎週1本ずつ火をともしてゆく慣習があります。本日はアドベント第2週ということで、2本のろうそくに火をともしました。次週の第3週目には3本、第4週目には4本すべてのろうそくに火がともります。毎週1本ずつろうそくに火がともってゆく様子を見ることを通して、クリスマスがすぐそこまで近づいてきていることを実感することができます。

 

先ほどご一緒に、讃美歌242番『主を待ち望むアドヴェント』を歌いました(詞:Maria Ferschl、曲:Heinrich Rohr、日本基督教団讃美歌委員会編『讃美歌21』所収、日本基督教団出版局、1997年)。歌詞の中で、ろうそくに1本ずつ火をともしてゆく様子が謳われていましたね。今日はアドベント第2週ということで、2番まで歌いました。2番《主を待ち望むアドヴェント、第二のろうそく ともそう。主がなされたそのように、互いに助けよう。/主の民よ、喜べ。主は近い》。イエス・キリストがなされたように、私たちも互いに助け合う姿勢を持つべきことが謳われています。アドベントのこの時、共に心の目を覚まし、神さまのため、隣人のため、自分にできることを行ってゆきたいと思います。

 

 

 

人権週間

 

教会の暦では現在アドベントですが、124日から10日まで、私たちの住む日本では「人権週間」と定められています。明後日1210日は、世界人権宣言が採択された1948年、国際連合第3回総会において採択)ことを記念する「人権デー(Human Rights Day)」です。日本では毎年、人権デーを最終日とする124日から10日までを人権週間と定め、各地で啓発活動を行っています(参照:総務省websitehttps://www.moj.go.jp/JINKEN/jinken03.html

 

改めて、「人権」とは、どのような意味を持つ言葉でしょうか。人権とは、「人間が、人間らしく生きてゆく権利」のことですね。英語ではHuman Rights(複数形)。私たちが人間らしく、自由に、喜びをもって生きてゆくための具体的な諸権利です。この人権という概念は突然生まれたものではなく、これまで長い時間をかけ、多くの人々の努力によって守り育まれてきたものです。また、人権という考え方が守り育まれてゆく過程において、聖書が重要な役割を果たしてきた側面があります。

 

 

 

人権の4つのポイント

 

人権には、大きく、4つの大切なポイントがあります。一つ目の大切なポイントは、人権は「生まれながらの権利である」ということです(=人権の固有性)。人として命を与えられたその瞬間から、私たちは人間らしく生きる権利を有しています。まだ赤ん坊だから、小さな子どもだから人権はない、ということには決してならないわけですね。

二つ目の大切なポイントは、人権は「すべての人に、等しく与えられている」ということです(=人権の普遍性・平等性)。人種、国籍、性別、性的志向、心と体の状態、年齢、職業等にかかわらず、すべての人に、平等に与えられている。そこに例外はありません。

三つ目のポイントは、人権を「侵害することはゆるされない」ということです(=人権の不可侵性)。すべての人に、生まれながらに与えられている人間らしく生きる権利を、私たちは互いに侵害しあってはならない。

現実には、私たちが生きている社会においては様々な人権侵害が生じています。人種差別、民族差別、性差別、子どもや高齢者への差別、職業差別、障がい者差別、部落差別、在日外国人差別……。近年は差別の他に、ハラスメントや性暴力もはっきりとした人権侵害として取り上げられるようになりました。

いまこの瞬間も多くの人が、人権侵害によって傷つき苦しんでいます。しかし本来、人権を侵害することはゆるされないことである、そのことを私たちは改めて心に刻むことが大切であると思います。本来ゆるされないことが、いまも世界中で起こり続けている。だからこそ私たちは人権侵害の現実に向かい合い、少しでも私たちの周囲から人権侵害を減らすことができるよう、努力をしてゆくことが求められています。

四つ目のポイントは、「それぞれの権利に優劣はない」という点です(=人権の不可分性・相互依存性)。一つひとつの権利に、優劣はありません。もちろん、役割分担として、自分は特にこの問題に深く関わる、ということはあるでしょう。と同時に、個々の権利は相互に関連しており、根底ではつながっていることを忘れないことも重要でありましょう。冒頭で述べましたように、人権とは、「人間が、人間らしく生きてゆく権利」であるからです。ある問題に誠実に取り組むことが、別の問題で苦しむ人を手助けすることにもつながってゆきます。

 

 

 

尊厳について ~《ひとりひとりがかけがえのない人間》

 

 先ほど、明後日1210日は、世界人権宣言が採択されたことを記念する「人権デー(Human Rights Day)」であることを述べました。いま挙げた4つのポイントは、世界人権宣言の第1条でもはっきりと文言化されています。《第一条 すべての人間は、生れながら自由で、尊厳と権利について平等である。人間は、理性と良心を授けられており、同胞の精神をもって互に行動しなくてはならない》(『人権宣言集』、岩波文庫、1957年、403頁)。先月、詩人の谷川俊太郎さんが92歳で天に召されましたが、谷川さんはこの第1条を次のように分かりやすく翻訳してくださっています。《第一条   みんな仲間だ: わたしたちはみな、生まれながらにして自由です。ひとりひとりがかけがえのない人間であり、その値打ちも同じです。だからたがいによく考え、助け合わねばなりません》谷川俊太郎・アムネスティ日本訳、アムネスティ日本websiteより、https://www.amnesty.or.jp/lp/udhr/?gad_source=1&gclid=EAIaIQobChMI1PC90MaUigMVXdUWBR1bkwFkEAAYASAAEgIU8vD_BwE

 

 注目してみたいのは、谷川さんが訳してくださった《ひとりひとりがかけがえのない人間》という表現です。英文では、「dignity(尊厳)」にあたる部分です。谷川さんは、私たち一人ひとりが尊厳をもっていることを、《ひとりひとりがかけがえのない人間》と言い直していらっしゃるのですね。

 尊厳とは、言い換えると、「かけがえのなさ」のこと。私たち一人ひとりが尊厳をもっているということは、私たち一人ひとりがかけがえのない存在であるということです。この「私」の替わりになる存在はいない。だからこそ、私たちは一人ひとり、大切な存在であるのです。

 

 人権と尊厳は、似ている言葉ですね。尊厳は、人権の根拠となるものであると受け止めることができるでしょう。私たち一人ひとりが、かけがえのない存在であるからこそ、その尊厳が護られるための具体的な諸権利として人権があるのだと理解することができます。

 

 

 

神さまの目から見た人間の「かけがえのなさ」

 

 聖書が私たちに語るのは、神さまの目から見た人間の「かけがえのなさ」です。聖書は、神さまの目から見て、一人ひとりが、価高く、貴い存在である(イザヤ書434節)ことを語っています。私たち一人ひとりは、かけがえのない存在として、尊厳をもった存在として、神さまに創られた。だからこそ大切な存在なのです。これが、聖書が語る真理です。

 

「かけがえのなさ」の反対語は、「替わりがきく」でありしょう。私たちの間から真理が見失われてしまったとき、人は替わりがきく存在とされてしまいます。尊厳が軽んじられ、替わりがきく存在にされてしまうのです。

 

 

 

神のまことと正義

 

冒頭で、旧約聖書(ヘブライ語聖書)のイザヤ書の言葉をお読みしました。本日の聖書箇所であるイザヤ書591220節では、人々の間からこの《まこと(真理)》が見失われている状況が率直に記されています。

……こうして、正義は退き、恵みの業は遠くに立つ。まことは広場でよろめき/正しいことは通ることもできない。/まことは失われ、悪を避ける者も奪い去られる。主は正義の行われていないことを見られた。それは主の御目に悪と映った1415節)

 神の《まこと(真理)》が失われていることと併せて、神の《正義》が見失われている現実も語られています。

 

神さまの《正義》とは何でしょうか。それは、「尊厳がないがしろにされることを、神さまは決しておゆるしにならない」ということであると、本日はご一緒に受け止めたいと思います。人々の生命と尊厳が軽んじられている現実があるのならば、神さまはその現実を決して見過ごしにはなさらない。イザヤをはじめとする預言者たちはその神の正義に基づいて、不正義と悪がはびこる現状を厳しく指摘しました。そしてその結果として、この先、破局的な未来が訪れることを訴えました。

 

預言者たちが生きていた時代にはいまだ「尊厳」や「人権」という言葉はありませんでしたが、預言者たちはいまの私たちの言葉で言うと、尊厳がないがしろにされ、人権が侵害されている状況を厳しく批判していたのだと言えます。人権についての大切な三つ目のポイントは、人権を「侵害することはゆるされない」でしたね。すべての人に、生まれながらに与えられている人間らしく生きる権利を、私たちは互いに侵害しあってはならないのです。

個々人に与えられている生まれながらの諸権利は、神ご自身が与えてくださっているものだと預言者たちは受け止めていたのでしょう。私たち人間がそう考えている、というだけではなく、神ご自身が与えてくださっているものだと受け止めていた。だからこそ、私たちは、他者が人間らしく生きる権利を、神によって与えられたものとして尊重し合ってゆかねばならない。またそして、その権利を侵害することは、神ご自身に対する反抗に他ならない――。預言者たちのこのような考え方は、その後、はるか未来に「人権」という考え方が守り育まれてゆく過程で重要な役割を果たしてゆくこととなったと私は受け止めています。

 

 

 

イエス・キリスト ~まことの光

 

 本日は人権週間に合わせて、人権についてお話しました。また、人権の根拠となる尊厳についてお話しました。尊厳とは、かけがえのなさのこと。聖書は神の目から見た人間のかけがえのなさを語っていることをお話ししました。

 神の目から見て、一人ひとりがかけがえのない存在であること。これが、聖書が伝える真理です。そして神さまは、その尊厳がないがしろにされることを、決しておゆるしにならない。これが、聖書が伝える神の正義です。

 

この神の《まことと正義》が見失われている状況は、私たちの近くに遠くに、様々なところで見受けられます。尊厳が軽んじられ、人権が侵害されている現実が至るところにあります。私たち自身、神さまの《まことと正義》を見失ってしまうこともあるかもしれません。自分の周りを暗闇が取り囲んでいるように感じてしまうこともあるかもしれません。

 

そのような現実を生きる私たちのもとに光をもたらすため、神さまの《まことと正義》をこの地にもたらすために来て下さった方、その方がイエス・キリストです。聖書は言います、《その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである(ヨハネによる福音書19節)

 

このまことの光は、暗闇の中に確かにともされています。暗闇の中に輝く光、決して消えることない光として。アドベントのこの時、神さまの《まことと正義》に立ち帰り、暗闇の中に輝くキリストの光を仰ぎ見つつ、ご一緒に歩んでゆきたいと願います。