2024年2月11日「命のパン」

2024211日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:申命記816節、フィリピの信徒への手紙41020節、ヨハネによる福音書6115

命のパン

 

 

 

信教の自由を守る日 ~ホーリネス教会への弾圧を覚えて

 

 本日211日は、私たちが属する日本キリスト教団では「信教の自由を守る日」としています。昨日は下ノ橋教会を会場として、岩手地区「信教の自由を守る」2.11集会を開催しました。講師は村上義治先生(舘坂橋教会)、「ホーリネス弾圧事件を巡って その時代背景と今日の宣教課題」と題して、戦時中のホーリネス教会弾圧についてお話しくださいました。ホーリネス教会弾圧とは、19426月以降、ホーリネス系の教会(日本基督教団 旧6部・9部)の牧師が一斉に検挙された出来事のことを言います(検挙された内で、7名が殉死されています)。

 

村上先生は日本のホーリネス教会の歴史と併せ、当時日本がどのような時代であったかを丁寧にお話しくださいました。たとえば、治安維持法と宗教団体法の成立について。宗教団体法は、諸宗教を合同させ、国家の管理下に置くことを目的とした法です19394月に成立・公布)。キリスト教だけではなく、神道系宗教(ただし神社は除く)や仏教その他の諸宗教もその対象とされました。この宗教団体法の成立を受けて、1941624日、34のプロテスタント諸教派が合同することによって日本基督教団が成立しました。そしてその翌年の1942626日から434月にかけて起こったのが、ホーリネス系教会への弾圧でした。村上先生は弾圧の証言として、殉死した二人の牧師、小出朋治先生と啓蔵先生についてお話しくださいました。

ホーリネス教会への弾圧を受けて、日本基督教団はホーリネス系の教会・教会員・牧師を守ることをせず、むしろホーリネス系の牧師たちに辞任を強要し、事実上教師籍をはく奪しました。教団の対応がいかに非情なものであったか、お話を聞きながら、それを改めて実感いたしました(弾圧からおよそ40年後、1986年の第24回教団総会の会期中、『旧六部、九部、教師及び家族、教会に謝罪する会』が催されました)。また、村上先生が牧する舘坂橋教会が経験した困難について、そしていまを生きる私たちが問われている宣教の課題についてもお話しくださいました。

 

弾圧から80年が経過しましたが、このホーリネス教会への弾圧がいかにホーリネス教会の皆さまにとって大きな痛みとなったか、そしていまも痛みであり続けているか、村上先生のお話を通して深く実感いたしました。岩手地区では、土沢教会もホーリネスの教会です。弾圧を受け教会が閉鎖に追いやられていた間、土沢教会の方々は花巻教会の礼拝に出席されていたと伺っています。

 

ホーリネス教会をはじめとする宗教団体に対して、かつて国家による弾圧がなされたこと、その歴史的事実を私たちは記憶し続けてゆかねばなりません。信教の自由を守る日である今日、皆さんとも改めてホーリネス弾圧事件について想いを馳せたいと思います。また、その過程において私たちが属する日本基督教団が、ホーリネスの教会・教会員・牧師を見捨てるという過ちを犯したことも、忘れてはならないことです。

村上先生が作成くださったご講演のレジュメを玄関のところに置いていますので、ぜひ手に取ってご覧ください。

 

 

 

5000人への供食

 

先ほどご一緒に、讃美歌198番『二ひきのさかなと』を歌いました。

《二ひきのさかなと 五つのパンを、

 イェスさましゅくして わけました。/

 おとなもこどもも なかよくすわり

 みんなでいっぱい たべました。……》(讃美歌21198番『二ひきのさかなと』12番)

 

イエス・キリストが五つのパンと二匹の魚を用いて大勢の人々の空腹を満たした奇跡を歌にしたものです。冒頭にお読みしたヨハネによる福音書6115節もこの奇跡について記しています。この場面は「5000人への供食」とも呼ばれます。ただし五千人というのは男性の数ですので10節)、女性と子どもを含めるとそこにいた人はもっと多かったことになります。

 

この供食の場面は、マタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書、ヨハネによる福音書の4つの福音書すべてに記されています。大まかな内容は同じですが、細部には相違があり、また福音書によって、どこに強調点を置くかが異なっています。

 ヨハネによる福音書バージョンの特徴の一つは、イエスさまが直接、人々にパンと魚を分け与えている点です。11節《さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた》。集まっていた人々は皆、イエスさまからご自身から直接、パンと魚を受け取ったのですね。そうして、皆が満腹しました。

他の3つの福音書では、イエスさまが裂いたパンを配るのは、弟子たちの仕事です。イエスさまからパンを受け取った弟子たちは、集まっていた人々に配ります。

 

 このように、ヨハネによる福音書と他の3つの福音書では相違があるわけですが、どちらか一方が正しいということではありません。それぞれ、重点の置き所が異なっているのです。それぞれが、大切なことを私たちに伝えてくれているのですね。

 マタイ・マルコ・ルカによる福音書には、《あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい(マタイによる福音書1416節)というイエスさまから弟子たちへの言葉が記されています。イエスさまが分け与えて下さるパンを人々に届けるのは弟子たちの仕事。イエスさまと人々とをつなぐ役割が弟子たちに託されていることが分かります。

対して、ヨハネによる福音書では、イエスさまが直接、人々にパンを分け与えてくださいます。弟子たちの仕事は、人々が満腹した後に、残ったパン屑を集めるというものでした。12節《人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた》。ヨハネ福音書では、イエスさまの存在が前面に打ち出されていることが分かります。弟子たちが残ったパン屑を集めると、十二の籠がいっぱいになるほどでした。

 

 

 

「しるし」 ~《命のパン》であるイエスさまご自身を指し示すものとして

 

 本日の奇跡は、ヨハネ福音書では「しるし」と呼ばれます。14節《そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った》。ヨハネによる福音書の特徴は、奇跡を「しるし」と呼んでいるところです。しるしとは、何かを指し示すものですね。奇跡そのものよりも、その奇跡的な出来事が指し示している事柄がより重要である、とヨハネ福音書の著者ヨハネは考えているようです。

では、本日の5000人への供食の奇跡は、何のしるしであったのでしょうか。

本日の聖書箇所の続きに、次の言葉があります。《わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない35節)。ヨハネによる福音書においては、イエスさまはご自分が《命のパン》であると語られます。イエスさまのもとに来る人は決して飢えることがなく、イエスさまを信じる人は決して渇くことがない、と。

本日の5000人の供食の出来事は、《命のパン》であるイエスさまご自身を指し示す「しるし」であったのだとご一緒に受け止めたいと思います。イエスさまのもとに来る人は決して飢えることがなく、イエスさまを信じる人は決して渇くことはない。そのことを、本日の物語は指し示しているのだと受け止めたいと思います。

 ヨハネ福音書においてイエスさまが直接、人々にパンを分け与えていることは、このことと関係しているのではないでしょうか。イエスさまこそが、私たちの心と体と、そして魂の飢え渇きを癒す《命のパン》だからです。

 

 

 

十字架の上で、ご自身の体を一つのパンとして

 

 またそして、イエスさまが《命のパン》であることは、イエスさまの十字架において完全なかたちで示されています。イエスさまはご生涯の最期に、十字架の上で、ご自身の体を一つのパンとして、私たちに分け与えてくださいました。イエスさまのもとに集まった一人ひとりをかけがえのない存在として愛し、ご自身の命を分け与えてくださいました。私たちのために裂かれたこの一つの《命のパン》から、神さまの大いなる恵みは溢れ出ています。神さまの愛と命が溢れ出ています。私たちはいま、この愛と命に生かされ、満たされ、育まれ続けています。

 

ヨハネによる福音書には次の言葉があります。《神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じるものが一人も滅びないで、永遠の命を得るためである316節)。神さまはその独り子をお与えになったほどに、私たちを愛してくださった。そしてそれは私たちが永遠の命を得るためである。神の愛と永遠の命という大切な言葉がこの一文の中には含まれています。この短い一文の中に聖書全体のメッセージが凝縮されていると言う人もいます。

この316節の言葉は、十字架におかかりになっているイエスさまのお姿を念頭に置いて記されています。この十字架のキリストから、神さまの愛と命が溢れ出ていることをヨハネ福音書は証しています。それは他ならぬ、私たち一人ひとりのために、それは他ならぬ、あなたのために――。

 

 

 

私たち一人ひとりに託されている役割とは

 

 イエスさまは5000人への供食の「しるし」を示されてから、弟子たちにおっしゃいました。《少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい》。残ったパン屑を籠に集めるのが弟子たちの仕事でした。これは12弟子の仕事であると同時に、いまを生きる私たち一人ひとりの仕事でもあると言えるでしょう。イエスさまから溢れ出る愛と命を、《少しも無駄にならないように》受け取り、それを私たちの内に守り育み、そしてその愛と命を人々に伝えてゆくという仕事です。イエスさまの愛と命を伝える役割が、私たち一人ひとりに託されているのだと本日はご一緒に受け止めたいと思います。

 

 讃美歌198番『二ひきのさかなと』の3番と4番はこのように歌います。

《さいごにのこった さかなとパンは、

 十二のかごから あふれます。/

 せいしょのことばを しんじるひとに、

 主イェスのちからが あふれます》。

 

 

 本日はメッセージの前半では、信教の自由を守る日に際して、ホーリネス教会への弾圧についての村上義治先生のご講演を紹介しました。イエスさまの愛と命を受けた私たちは、いま何ができるか。いま、何をすべきか。神さまの目に価高く貴い一人ひとりのために、何ができるか。イエスさまの愛と命にとどまる中で、自分にできることを祈り求めてゆきたいと思います。