2024年3月10日「ナルドの香油」

2024310日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:詩編2112節、コリントの信徒への手紙二11522節、ヨハネによる福音書1218

ナルドの香油

 

 

東日本大震災と原発事故から13

 

 明日311日、私たちは東日本大震災と原発事故から13年を迎えます。皆さんも改めて震災当時のことを思い起こしていらっしゃることと思います。この3月に入ってから真冬に逆戻りしたかのような寒さとなり、断続的に雪も降り続けています。13年前の震災当日も、雪が舞うような寒い日であったと伺っています。

 

本日は午後2時半から、大船渡教会と奥羽キリスト教センターチャペルを会場として、奥羽教区主催・東日本大震災13年を覚えての礼拝を行います。YouTubeでライブ配信もしますので、ご都合の宜しい方はぜひご参加ください。東日本大震災と原発事故を覚え、ご一緒に祈りを合わせたいと思います。

 

 

 

ALPS処理水の海洋放出の問題

 

震災から13年が経ちましたが、いまも多くの方が困難の中、深い悲しみや痛みの中にいます。原発事故による甚大なる影響と被害は、いまも現在進行形で続いています。

 

今年は11日に能登半島地震が発生しました。甚大なる被害が日々報じられる中で、13年前の震災当時のことを思い起こすことも多かったことと思います。この度の能登半島地震では、志賀原発において、一歩間違えれば大事故にもつながり得た重大なトラブルが発生しました。至るところに活断層があるこの日本において、原発が存在していること、稼働していることが、いかに恐ろしいことであるかを改めて思い知らされています。13年前に起こった東京電力福島第一原子力発電所の事故を、私たちは決して、二度と繰り返してはなりません。

そのためにも、私たちは放射能がいかに私たちの命と生態系に深刻なる影響をもたらし得るものであるかを思い起こし、学び続けていかなくてはならないでしょう。

 

原発事故が起こって以来、この13年間、私たちの社会において、「原発事故による健康への影響はない」との見方が大きな影響力を持ち続けてきました。この度の原発事故による放射線の健康被害は「ない」ものとする立場、あるいは「極めて軽微」なものとして被ばくを容認する立場が、社会において強い力を持ち続けてきたのです。また、放射能への不安を口すると、「復興を妨げる」「福島への差別を助長する」「風評被害を助長する」として批判される状況が続きました。

 

そのような状況の延長線上に、たとえば現在の福島第一原発のALPS処理水(トリチウムなど様々な放射性物質を含んだままの汚染水)の海洋放出の問題があります。地元福島の漁業関係者をはじめ、国内外の多くの人々の反対を押し切るかたちで、ALPS処理水の海洋放出が続けられています。処理水に含まれる様々な放射性物質が、私たちの健康や生態系にどのような影響を与えるのかはっきりと分からず、安全性がいまだ確認されていないにも関わらず。健康への影響は「ない」と一方的に断定し、それを押し切る形で、放出が続けられています。2023年度はすでに4回の放出がなされ、合計で約31200トンの処理水が放出された(される予定)のとことです。

これから先何十年も、様々な放射性物質を含んだままの処理水の海洋放出(海洋投棄)を続けることを、私たちの社会は容認していて良いのでしょうか。それは、未来の世代への責任を放棄することに他ならないのではないでしょうか。これからの時代を生きる子どもたちをこれ以上、無用な被ばくにさらさないこと。このことは、私たち社会全体の責務であると思います。

 

 

 

311子ども甲状腺がん裁判

 

そのような状況にある私たちの社会にとって、一昨年の2022年から大切な裁判が行われています。「311子ども甲状腺がん裁判」です。原発事故による放射線被ばくの影響で甲状腺がんになったとして、当時子ども(幼稚園から高校生)であった7名の若者が、東電に対して損害賠償を求めています。原発事故による放射線被ばくの健康被害を訴える集団訴訟が起こされたのはこれが初めてのことです。マスメディアで取り上げられることは少ないですが、私たちの社会にとって、非常に重要な裁判です。先週の36日に第9回口頭弁論が開かれました。次回の第10回口頭弁論は612日に行われる予定とのことです。

 

放射線被ばくの健康被害が認められ、原告の皆さんをはじめ、甲状腺がん患者の方々に確かな補償がなされ、その尊厳が回復されることを願っています。またそして、私たちの社会が、放射能による健康への影響は「ない」ものとして被ばくを容認する姿勢を改め、その危険性および被害の実態を受け止め、一人ひとりの生命と尊厳をまことに大切にする在り方へと立ち帰ってゆくことができますようにと願うものです。そのために、私たちそれぞれが、自分にできることを行ってゆけますよう祈ります。私たちが自分の都合や損得を第一とするのではなく、一人ひとりの生命と尊厳を第一とする在り方を実践し、実現してゆくことができますように。

 

 

 

ナルドの香油を注ぐ

 

冒頭でヨハネによる福音書1218節をお読みしました。マリアという女性がイエス・キリストの足に高価なナルドの香油を注いだことで知られている場面です。改めて、ご一緒に本日の聖書箇所を振り返ってみたいと思います。

 

その日、過ぎ越し祭という祭りが行われる6日前、イエス・キリストはベタニアに向かわれました。ベタニアはエルサレムの近くにある村で、そこにマルタ、マリア、その兄弟ラザロが住んでいました。ラザロはイエスさまが死者の中からよみがえらせたことで知られている人物です(ヨハネによる福音書11章)。イエスさまはこのマルタ、マリア、ラザロきょうだいととても親しくされていたようです。その晩もこのきょうだいの家に留まり、食卓を共にされました。

 

姉のマルタは食事の準備と給仕をし、弟ラザロはイエスさまと共に食事の席についていました。すると、その場にいた弟子たちがびっくりするようなことが起こりました。妹のマリアが高価なナルドの香油を持ってきて、イエスさまの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐったのです。家は香油の香りでいっぱいになりました(ヨハネによる福音書1213節)

ナルドの香油は、甘松という植物の根から抽出されたヒマラヤ原産の油です。当時のパレスチナでは非常に高価なものであったそうで、続いて記されるユダの言葉では300デナリオンもの値打ちがあるとされています。300デナリオンは、当時の日雇い労働者のほぼ1年分の賃金に相当する値段です。《弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。/「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」45節)

 

当時、香油を客人の足に注ぐという風習はなかったようで、マリアが取った行動は特別なものであったことが分かります。これまで誰もしたことがないことを、マリアはイエスさまに対して行いました。非常に高価な、もしかしたら自分の全財産に相当するかもしれないナルドの香油を、イエスさまのために献げたのです。

 

なぜマリアはこのような行動を取ったのか。ヨハネ福音書は、マリア側からの理由や動機付けは記していません。直感的に、イエスさまに死の危険が迫っていることを予感していたのでしょうか。イエスさまの微笑みの向こうに、イエスさまの深い悲しみを感じ取ったのでしょうか。それは理屈ではなく、突き詰めてゆくと、マリア自身も「そうせずにはいられなかったから」としか言えなかったかもしれません。愛する人が苦しんでいる様子を見て、その人のもとへ走り出さずにはいられないように――。一つ言えることは、マリアがイエスさまへの愛ゆえに、その行動を起こしたということです。イエスさまを愛するゆえに「そうせずにはいられなかったから」、マリアはナルドの香油をイエスさまの足に塗り、自分の髪で拭ったのでありましょう。

 

マリアの振る舞いに対する弟子たちの反応は冷ややかなもの、あるいは厳しいものでした。会計係を任されていたユダは前述した通り、「なぜこの香油を300デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」とマリアを批判しました。

確かに、貧しい人びとを支援することは大切なことです。しかし、ユダがここで本当に貧しい人々のことを思ってそう言ったのかというと、そうではないのかもしれません。高価な香油を無駄にしてもったいないという想いが強かったのかもしれません。ヨハネ福音書はユダがこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではないと記しています。《彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである6節)

 

イエスさまは憤慨するユダたちを諭して、次のようにお語りになりました。《この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。/貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない78節)。イエスさまはマリアの行動を深い感謝をもって受け止め、そして高く評価してくださったことが分かります。

 

 

 

《わたしの葬りの日のために》

 

 イエスさまの言葉の中に、《わたしの葬りの日のために》という語がありました。ここでの《葬りの日》とは、イエスさまがこの後、十字架刑によって殺され埋葬される出来事を指し示しています。パレスチナでは当時、亡くなった人の体に香油を塗る(塗油)習慣がありました。マリアは知らずしらず、その葬りの儀を前もって自分に執り行ってくれたのだとイエスは受け止めてくださり、感謝をしてくださったのです。マルコによる福音書では、《はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう》とのイエスさまからの最大限の賛辞と感謝の言葉が書き留められています(マルコによる福音書149節)

 

 

 

十字架上のイエスさまこそ「キリスト、救い主」

 

 マリアの油注ぎは、もう一つの大切なメッセージを私たちに伝えています。それは、十字架上のイエスさまこそ、私たちの「キリスト、救い主」であるということです。「キリスト」はヘブライ語では「メシア」と言い、もともとは「油注がれた者」を意味する言葉です。マリアはイエスさまに油を注ぐことを通して、イエスさまこそがまことの「キリスト、救い主」であることを世界に対して証ししたのです。

 

油注ぎは通常は頭に対してなされるものですが(マルコによる福音書、マタイによる福音書のバージョンでは頭に香油が注がれます)、ヨハネ福音書においてはイエスさまの足に油が塗られます。これはマリア自身の謙虚さを表すものであると共に、イエスさまの十字架を指し示しているものであるでしょう。イエスさまは神の子であるにも関わらず、低きに降り、その最も低きところの十字架において、神さまの愛を現してくださいました。ヨハネ福音書はこの十字架こそがイエス・キリストの王座であると受け止めていることが分かります。体の一番低いところにある足は、そのイエスさまの十字架を象徴するものです。ヨハネ福音書は、最後の晩餐においてイエスさまご自身が身を低くし、弟子たちの足を洗って下さったことを証ししています13章)

 

 

 

ナルドの香油 ~マリアが示した無償の愛

 

 以上、本日の聖書箇所をご一緒に振り返りました。マリアが愛ゆえに起こした行動を、イエスさまは感謝をもって受け止め、そしてそこに神さまから私たちへの大切なメッセージを汲み取ってくださいました。マリアの振る舞いは、周囲の弟子たちからすると常識はずれであり、高価な香油を「無駄遣いした」としか思えなかったかもしれません。イエスさまの足に香油を注いだマリアと、そのマリアの姿を批判的に見ていた弟子たち。この時のマリアと弟子たちの振る舞いの違いは、何から生じているものであるのでしょうか。

 

 この時、マリアがイエスさまに対して示したのは、無償の愛でした。マリアがささげたナルドの香油は、このマリアの無償の愛を象徴するものであると本日はご一緒に受け止めたいと思います。壺から溢れ出るナルドの香油は、マリア自身から溢れ出た無償の愛を表わしています。損得ではなく、見返りを求めず、マリアはイエスさまに自分の愛のすべてを注ぎました。

対して、一部の弟子たちはこの時、損得によって判断してしまっていたのかもしれません。自分たちの都合や損得を第一としてしまっていた。そうしてイエスさまへの愛を一時的に見失ってしまっていたのかもしれません。この弟子たちの姿は、私たち自身の日頃の姿を映し出しているものとして受け止めることもできるでしょう。

 

 

 

自分自身のナルドの香油を注ぐ ~イエスさまの愛を受けて

 

イエスさまはそのような私たちに対して、そのご生涯を通して、そして十字架上において、無償の愛を注いでくださいました。神の愛を現してくださいました。いまも十字架におかかりになったお姿で、私たちに無償の愛を与え続けてくださっています。どうぞいま、このイエスさまの愛に私たちの心を開きたいと思います。

 

そしてこのイエスさまの愛を受け、この愛に満たされ、私たちもまた、隣り人に対して愛を注いでゆくことができますように。神さまの目に貴い一人ひとりの生命と尊厳がまことに大切にされるために、自分自身のナルドの香油を精一杯注ぎ出してゆくことができますようにと願います。