2024年5月26日「弁護者なる真理の霊」

2024526日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:イザヤ書401217節、ヨハネによる福音書14817節、テモテへの手紙一61116

弁護者なる真理の霊

 

 

 

聖霊降臨節第2主日・三位一体主日

 

  先週はご一緒にペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝をおささげしました。ペンテコステはイエス・キリストが復活して天に挙げられた後、弟子たちの上に聖霊が降ったことを記念する日です。このペンテコステ以降、教会の暦は聖霊降臨節に入ります。本日は聖霊降臨節第2主日礼拝をおささげしています。

 

キリスト教は伝統的に、この聖霊なる神さまを、天の神さま、イエス・キリストと共に信仰の対象としてきました。神さまはお一人であると同時に、「父・子・聖霊」の三つの顔がある。少し難しい言葉では「三位一体(さんみいったい)」と呼ばれます。本日の聖霊降臨節第2主日礼拝は、三位一体を記念する三位一体主日にあたります。

 

 先ほどご一緒に讃美歌351番『聖なる聖なる』を歌いました(詞:Reginald Herber、曲:John B. Dykes。日本基督教団讃美歌委員会編『讃美歌21 交読詩編付き』所収、日本基督教団出版局、1997年)。三位一体を主題とする代表的な賛美歌の一つです。

1番の歌詞には《三つにいまして ひとりなる》という言葉がありました。神さまは「父・子・聖霊」の三つに区別されると同時に、ただ一人のお方であると謳われています。三位一体なる神を賛美する曲として、世界中で歌い継がれている曲です。

 

 また、私たちが礼拝の最初に歌う「頌栄」でも、三位一体なる神さまが謳われています。頌栄は「神の栄光をたたえる歌」という意味です。たとえば、本日ご一緒に礼拝のはじめに歌った頌栄27番「父・子・聖霊の」の歌詞を見てみましょう。《父・子・聖霊のひとりの主よ、栄えと力はただ主にあれ、とこしえまで。アーメン》(曲:Thomas Hastings、同所収)。《父・子・聖霊のひとりの主よ》と三位一体の神が謳われていますね。三位一体なる神さまに栄光がありますようにとたたえる歌が頌栄です。キリスト教は礼拝の最初あるいは最後にこの頌栄をもって三位一体の神を賛美する伝統があります。この頌栄からも、キリスト教がいかに三位一体の神さまへの信仰を大切にしてきたかを感じ取ることができますね。

 

 

 

こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。……

 

 さて、先ほど本日の聖書箇所の一つであるヨハネによる福音書14817節を読んでいただきました。はじめの9節に、次のイエス・キリストの言葉がありました。《フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。……》。

 

 フィリポの「私たちに御父をお示しください(父なる神を見せてください)」という願いに対し、イエスさまはそうお答えになり、改めて、真理についてお話くださいました。「イエスさまを見た者は、父なる神を見ている」というのが、イエスさまが伝えてくださっていた真理でした。

ただし、弟子たちはその時は、それらの真理をはっきりと理解をすることができていませんでした。おそらくイエスさまが自分たちに対して極めて大切なことを語ってくださっていることは感じつつも、その意味を理解することはできなかったのです。別の箇所には、イエスさまが《何を話しておられるのか分からない》と戸惑う弟子たちの姿も記されています1618節)

 

弟子たちがイエスさまの言葉の意味を真に理解できるようになるのは、後のこと――イエスさまが十字架におかかりになり、復活し、そして弟子たちのもとに聖霊が遣わされてからのことでした。

 

 

 

時間が経ってから、その言葉の意味が分かるようになる経験

 

 福音書を読みますと、弟子たちは生前のイエスさまと一緒にいたときは、その教えを必ずしも理解することができていなかったことが分かります。イエスさまが復活され天に昇られてから、少しずつ、その言葉の意味が理解できるようになっていったのです。「ああ、あの時、先生がおっしゃっていたのは、こういう意味だったのだ」、「ああ、あの時の先生の振る舞いにはこういうメッセージが込められていたのだ」……と。

 

私たちも聖書の言葉を読むとき、それにつながる経験をすることがあるのではないでしょうか。私たちは聖書を読むとき、「何が書いてあるのか分からない」と戸惑うことがよくあります。大事なことが書かれていることは何となく分かるけれども、その意味するところははっきりとは分からない。

けれども、時間が経ってから、その言葉の意味が分かるようになる経験をすることがあります。以前は分からなかった言葉がはっきりと理解できるようになる。深く腑に落ちるようになる。その聖書の言葉が自分の心に深く染み渡ってゆく経験をすることがあります。

その瞬間が訪れるまで、時には、何年も、何十年も時間がかかることもあるでしょう。またその後も、その言葉の意味をさらに新しく発見し続けることもあるでしょう。

 

私も牧師の仕事をしていますが、聖書の中にはどのように受け止めたらよいか分からない言葉が多く、戸惑うことの連続です。自分はまだ聖書の言葉を一部分しか理解できていないことを実感しています。いまだ分からないことがたくさんありますが、これから少しずつ、聖書の言葉の意味をより良くより深く理解することができるようにと願っています。

 

 

 

《真の経験は遅れてやってくる》

 

聖書学者の大貫隆先生が記した『聖書の読み方』という本があります。岩波新書で出ている聖書の入門書です(岩波新書、2010年)。この本が面白いのは、「聖書の読みづらさ」から話を始めているところです。聖書は読みづらい本、分かりづらい本であることを踏まえた上で、初めて聖書を手に取る人に向けて、その読み方を提案してくださっています。

 

大貫隆先生自身、知識欲に燃えていた大学生の時、聖書全体を通読しようとして、そのおそろしいまでの読みづらさに仰天したそうです。《大学在学中の夏休みを一回か二回費やして、全体を通読することに挑んでみたが、読後感はまるでちんぷんかんぷん、まとまったイメージはまったく結べなかった。道筋がまったく見えない混沌の只中に置き去りにされて、ほとんど茫然自失であった。その後現在まで、当然ながら聖書以外にも大小の書物の読書体験はいろいろある。しかし、読後にあの時以上の方向喪失を覚えたことはない》(同、1頁)。しかしその体験が一つのきっかけとなって、その後聖書を専門的に研究する道に進まれたということです。

 

大貫隆先生はこの本の中で、《真の経験は遅れてやってくる》ということを強調しておられます。《真の経験は遅れてやってくる。それを慌てず静かに待つことが重要である》(同、17頁)。聖書を読む上で、この姿勢が非常に重要であることを述べています。《即答を求めない。真の経験は遅れてやってくる》(同、146頁)

大貫先生自身、それまで何度読んでもさっぱり意味が分からなかった聖書の言葉が、日常生活のふとした瞬間に、思いもかけぬ仕方で「わかった」と思えた経験があるそうです。皆さんもそういう経験を様々にもっていらっしゃることと思います。ある時突然、聖書の言葉が腑に落ち、何か自分の心の深いところが変えられ、人生や世界の捉え方そのものが変えられるという経験です。

 

《人間は出来事そのものの渦中にいる時は、いま目の前で起きていること、自分が体験していることの本当の意味は了解し切れないものである。少し時間が経過して、つまり「遅れて」、その体験について物語り始める時、あらためて言葉で「作り直す」時、その時こそ、それは真の意味の経験になる。真の経験は遅れてやってくる》(同、147頁)

 

 それは、先ほど述べましたように、イエスさまの弟子たちもそうであったのではないでしょうか。弟子たちにおいても、「真の経験は遅れてやってきた」のです。また、聖書の物語自体が、経験したことの意味を「遅れて」理解する中で、時間をかけて紡がれていったものであることを大貫先生は述べています。

 

私たちの社会では近年、結果や答えをすぐに求める傾向が強くなってきているように思います。スマホで検索すると確かに、何でもすぐに情報が与えられます。「問い」に対してすぐに「答え」が与えられるような気がしてきてしまいます。そのような中にあって、《即答を求めない》姿勢、《真の経験は遅れてやってくる》ことを信じ、忍耐して待つという姿勢を改めて思い起こすことが求められているのではないでしょうか。

 

分かりづらい聖書の言葉の前に踏みとどまり続けること。自分の違和感をむしろ大切にすること。時に休みながらも、自身の問いに向かい合い続けることが大切であると思います。

 

 

 

弁護者なる真理の霊

 

今年に入ってから、ご一緒にヨハネによる福音書のみ言葉を読み続けてきました。ヨハネによる福音書においても、《真の経験は遅れてやってくる》ことが述べられています。イエスさまが生きておられたとき、その教えを弟子たちは理解することができませんでしたが、後に、はっきりと理解することができるようになります。そしてそのことを成し遂げてくださる方が、聖霊です。ヨハネによる福音書では、この聖霊なる神さまは《弁護者》《真理の霊》とも呼ばれます。

わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。/この方は、真理の霊である1617節)

 

弟子たちに真理を悟らせてくださる方、それが、これから遣わされる聖霊であるとヨハネ福音書は述べています。その聖霊なる神さまのお働きを通して、弟子たちは生前のイエスさまの言動を真に理解することができるようになり、その救いの御業を十全に経験することができるようになってゆくのです。

 

ヨハネ福音書には次のイエスさまの言葉も記されています。《言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。/しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。……161213節)

 

教会には、私たちが聖書の言葉の意味を理解できるのは聖霊の働きによるという信仰があります。私たちの力ではなく、私たちを超えた力によって、真理について悟る瞬間が与えられるのだ、と。

聖霊なる神さまへの信頼と希望があるからこそ、私たちは聖書の「分かりづらさ」にとどまり続けることができる。自分自身の人生の問いにとどまり続ける勇気が与えられるのだ、ということができるでしょう。

 

私たちの目の前には、すぐには解決策が見つからないような、様々な難しい問題があります。「なぜ……」と問いたくなる悲しい出来事もたくさんあります。

たとえいまはまだ分からなくても、すぐに答えは見つからなくても、聖霊なる神さまの導きを信頼し、希望をもって、目の前の一つひとつの事柄に向かい合ってゆきたいと願います。

 

どうぞ弁護者なる真理の霊が、私たち一人ひとりにその力と勇気を与えてくださいますように。