2024年6月23日「キリストはわたしたちの平和」
2024年6月23日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:詩編126編1-6節、ヨハネによる福音書4章27-42節、エフェソの信徒への手紙2章11-22節
沖縄慰霊の日
本日6月23日は沖縄慰霊の日です。沖縄戦で亡くなった方々を追悼する日、平和への祈りをあわせる日です。戦争の終結から、今年で79年が経ちました。
皆さんもご存じの通り、沖縄戦は太平洋戦争末期の1945年3月末に始まり、激烈な地上戦の末、6月23日にその組織的戦闘が終結しました。この戦闘により、当時の沖縄の人口の4人に1人にあたる約12万人の方々の命が失われました。日本とアメリカの軍人を合わせると、亡くなった方の数は20万人以上に上ると言われます。
《命(ぬち)どぅ宝》という言葉があります。沖縄で「命こそ宝」という意味の言葉です。沖縄の戦争の記憶を受け継ぐとともに、「命こそ宝」であることをいまこそご一緒に心に刻みたいと思います。
また、敗戦から79年を経た現在も、沖縄に米軍基地の約70パーセントが集中している状況があります。基地問題は他ならぬ、県外に住む私たちが考えるべき課題です。私たち自身の問題として米軍基地問題について、ご一緒に考えてゆきたいと思います。
ホーリネス教会への弾圧を覚えて
先日、大船渡教会を会場に開催された地区の教師会で、牧師の村谷正人先生よりホーリネスの伝統を持つ教会(日本基督教団ホーリネスの群)は6月の第4週を「ホーリネス弾圧を覚える礼拝(弾圧記念礼拝)」としていることを伺いました。ホーリネス教会弾圧とは、1942年6月26日以降、ホーリネス系の教会(日本基督教団 旧6部・9部)の牧師が一斉に検挙された出来事のことを言います。
ホーリネス教会への弾圧を受けて、日本基督教団はホーリネス系の教会・教会員・牧師を守ることをせず、むしろホーリネス系の牧師たちに辞任を強要し、事実上教師籍をはく奪しました。私たちが属している日本基督教団はその時、ホーリネスの教会・教会員・牧師を見捨てるという過ちを犯しました。
今年の2月11日に開催された岩手地区「信教の自由を守る」2.11集会では、舘坂橋教会の村上義治先生が「ホーリネス弾圧事件を巡って その時代背景と今日の宣教課題」と題して、戦時中のホーリネス教会弾圧についてお話しくださいました。弾圧から80年が経過しましたが、この弾圧がホーリネス教会の皆さまにとっていかに大きな痛みとなったか、そしていまも痛みであり続けているか、村上先生のお話を通して深く実感いたしました。
岩手地区では、土沢教会もホーリネスの教会です。弾圧を受け教会が閉鎖に追いやられていた間、土沢教会の方々は花巻教会の礼拝に出席されていたと伺っています。このホーリネス教会弾圧も、忘れてはならない出来事として、ご一緒に記憶し続けてゆきたいと思います。
平和 ~一人ひとりが大切にされること
冒頭でお読みしたエフェソの信徒への手紙2章の中に、《実に、キリストはわたしたちの平和であります》という言葉がありました。改めて、「平和」ということについて考えてみましょう。
「平和」の反対語としては、一般に、「戦争」を思い浮かべることが多いのではないでしょうか。「戦争がない状態」、それが平和であるということができるでしょう。ロシアとウクライナの戦争、ガザ地区でのイスラエルとハマスの戦争がいまだ停戦に至ることなく、継続されています。一刻も早く、停戦へと至るように、これ以上、かけがえのない命が傷つけられ、失われることがないよう切に願うものです。
また、国と国との間に戦闘行為が生じていない場合でも、平和ではない状態というのは生じ得るものです。たとえば、私たちの生きる社会に格差や貧困が生じているとしたら。それは平和ではない状態だということになります。環境が破壊され、生態系が壊されている状態も、平和ではない状態だと言えます。あるいは、身近なところで、私たち自身が対立していたり、互いに傷つけあったりしてしまっているとしたら、そこでもやはり平和は失われてしまっているということになるでしょう。その意味で、平和とは、「戦争がないこと」を意味するのみならず、「一人ひとりが大切にされること」を指すのだと受け止めることができます。
私たちの生きる社会には現在、さまざまなところで、平和ではない状況が生じています。たとえば、冒頭に述べた沖縄の米軍基地問題。原発と放射能の問題。環境問題。薬害の問題。カルト問題。格差や貧困の問題。差別問題。いじめやハラスメントの問題……。私たちの社会にはさまざまなところで、平和ではない状況があります。これら平和ではない状況は、一人ひとりが大切にされていないことから生じているのだということもできるでしょう。そして、一人ひとりが大切にされないことの最たるものが、戦争です。戦争ほど、人を大切にすることができない状況へと私たちを追いやるものはありません。
イエス・キリストのメッセージ ~神の目から見て、一人ひとりがかけがえなく貴い
イエス・キリストが私たちに伝えてくださっているメッセージがあります。それは、「神さまの目から見て、私たち一人ひとりの存在がかけがえなく貴い」ということです。神さまの目から見て、一人ひとりが、かけがえなく大切であるということをイエス・キリストは伝えてくださっています。
「かけがえがない」という言葉は私たちも普段の生活の中で使うことがありますね。「かけがえがない」とは、「替わりがきかない」ということです。私たち一人ひとりはかけがえがない存在=替わりがきかない存在である。だからこそ、大切な存在であるのです。
一人ひとりの存在は、かけがえがないものである。替わりがきかないものである。私自身も、私の周りにいる一人ひとりも、すべての人が、替わりがきかない存在である。このことを私たちがしっかりと心に刻み込むところから、少しずつ、平和が創り出されてゆくのではないでしょうか。
イエスさまはおっしゃいました、《平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる》(マタイによる福音書5章9節)。私たちはそれぞれ、平和を実現する使命をイエス・キリストから与えられています。
平和の福音
本日の聖書箇所であるエフェソの信徒への手紙2章を改めてお読みいたします。
《実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、/規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、/十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。/キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました》(2章14-17節)。
ここでは、イエス・キリストが《敵意という隔ての壁を取り壊し》(16節)てくださったと語られています。そうして私たちに《平和の福音》(17節)を告げ知らせて下さったのだ、と。私たち一人ひとりに、イエス・キリストが成し遂げて下さったこの《平和の福音》を伝えてゆく役割が与えられていることを心に留めたいと思います。
敵意という隔ての壁
本日の聖書箇所では、平和を実現する上で、《隔ての壁》となるものが《敵意》と表現されています。確かに、敵意は人と人とを遠ざけ、また人と人との間に対立を呼び起こします。私たちが《平和の福音》を告げ知らせてゆくためには、この敵意といかに向き合ってゆくかが重要であることを思います。
敵意は私たちの内にも外にもあります。他ならぬ私たちの内に、敵意は存在することがあるでしょう。自分と異なる相手、または自分の意に沿わない相手を「敵」として憎んでしまう感情です。
その感情が生じること自体を否定する必要はないでしょう。私たちが生きてゆく上で否定的な感情が生じてしまうのはある意味、当然のことです。そのような想いや感情自体は否定されるべきものではありません。私たちの心は誰からも拘束されるべきものではなく、自由です。
重要であるのは、そのような敵意が生じたときに、そのまま無自覚に敵意の中に自らを投じてしまうのか、それとも立ち止まって冷静に自分の心の内を見つめてみるか、でありましょう。
気を付けたいことは、私たちの敵意の中に含まれている「相手の存在を否定しようとする想い」です。私たちは誰かに敵意を抱くとき、その人が「いないほうがいい」「いなくなってしまえばいい」と思ってしまうことがあります。そのとき、私たちは、相手の存在そのものを否定してしまっていることになります。この敵意こそが、平和の実現を妨げる障壁となってしまうのではないでしょうか。先ほど述べましたように、平和は、すべての人がかけがえのない、替わりがきかない存在であるという認識から創り出されてゆくと思うからです。
どうしても自分とは合わない、という人はいるでしょう。感情的に好きになれない人もいるでしょう。その感情自体を否定する必要はありません。私たちに求められているのは、その相手の存在までは否定しない、という姿勢です。相手を実際に軽んじたり、排除したりするということは決してしない。その具体的な姿勢が求められています。
イエス・キリストのお姿に立ち還り
ある人のことが「嫌いだ」という感情と、その人もまた「神の目に大切な存在だ」という認識は、両立し得るものだと思います。私たちは日々立ち止まり、このことを自分の内で両立させてゆくことが求められているのではないでしょうか。もちろん、それはなかなか簡単にできることではないかもしれません。時に時間がかかることもあるでしょう。だからこそ、私たちはイエス・キリストのお姿に立ち還る必要があります。
イエスさまにも生前、立場や考えの異なる人々がいました。イエスさまはそれらの人々に対し、「おかしい」と思うところは率直に指摘なさいました。とりわけ、一方的な物差しをもって人に優劣をつける考え方に対しては厳しく批判をなさいました。イエスさまは常に、神の目に一人ひとりが大切な存在であるという視点に立って言葉を発し、行動されていたからです。
けれども、イエスさまはそれら考えの異なる人々に対して敵意を抱くことはありませんでした。相手を思うゆえに厳しい姿勢で臨むことはあっても、考えが合わない人々を敵視し憎むことはなさらなかった。なぜなら、ご自分とは考え方が異なる人々もまた、イエスさまの目に貴く、大切な存在であったからです。
キリストはわたしたちの平和
本日の聖書箇所はイエス・キリストを《新しい人》(15節)と呼んでいます。この《新しい人》の内には、一切の敵意はありません。あるのは、愛です。一人ひとりの存在をかけがえのないものとして重んじてくださる、神さまの愛です。イエスさまはこの神さまの愛を、身をもって現してくださいました。ご自分の生き方を通して、十字架にかけられたご自分の体を通して、敵意という隔ての壁を取り壊し、まことの平和を実現してくださいました。
この《新しい人》の体には、一人ひとりの存在が刻み込まれています。わたしも、あなたも、すべての人の存在が、神の目に価高く貴い存在として刻みつけられています。決して失われてはならない、かけがえのない存在として、一つに結ばれています。この《新しい人》において、まことの平和は実現されています。
聖書は語ります、《実に、キリストはわたしたちの平和であります》――。どうぞいま、キリストの平和の福音に私たちの心を開きたいと思います。