2024年6月9日「初めから聞いていたこと」
2024年6月9日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:詩編16編7-11節、ヨハネによる福音書3章22-36節、ヨハネの手紙一2章22-29節
ガザ地区で戦闘開始から8カ月
パレスチナのガザ地区でイスラエル軍とイスラム組織ハマスの戦闘が開始されてから、一昨日7日で8カ月が経ちました。停戦と人質解放に向けた交渉が難航する中、6日にはイスラエル軍がガザ地区中部の国連パレスチナ難民救済事業機関が運営する学校を空爆。子どもと女性をあわせて23人を含む40人が亡くなりました。皆さんも胸が引き裂かれる想いで、日々のガザでの報道に接しておられることと思います。
ガザ地区では食糧不足や医療の不足も深刻です。子どもたち、多くの人々が、命の危機にさらされ続けています。イスラエル軍が行っているのは、パレスチナの人々に対する虐殺であり、決してゆるされないものです。停戦に向けた話し合いが進められ、一刻も早くこの戦争が停戦へと至り、これ以上かけがえのない命が傷つけられ、失われることがないよう切に願います。
イエス・キリストの故郷ガリラヤ、現在のガリラヤ
ガザ地区での戦争をはじめ、紛争・戦争が絶えないパレスチナ。このパレスチナは、イエス・キリストが生まれ育った地でもあります。イエス・キリストがその生涯を送ったパレスチナ、福音書の舞台であるパレスチナ。そのパレスチナで、悲惨な戦争が行われ続けていることも、大変心が痛むことです。
スクリーンに映しているのは、現在のパレスチナの地図です。黄色で塗っているのがイスラエルの領土、朱色で塗っているのがパレスチナ自治区の領土――ヨルダン川西岸地区、そしてガザ地区――です。
パレスチナ北部にはガリラヤ湖という湖があります。スクリーンに映しているのが、ガリラヤ湖を上空から映した写真です。楽器のハープ(竪琴)のような、美しいかたちをした湖ですね。このガリラヤ瑚の西側には当時、ガリラヤと呼ばれる地方がありました。このガリラヤが、イエス・キリストの故郷です。
現在、ガリラヤ地域はイスラエル国の領土となっています。ガリラヤ地域はもともとは、長きに渡りアラブ・パレスチナ人の居住地域でした。1948年にイスラエルが建国され、第一次中東戦争が始まってから、この地域はイスラエル軍によって占領され、強制的にイスラエル国の領土とされた経緯があります。そのように強制的にイスラエルの領土とされた地域はガリラヤだけではありません。多くの土地がイスラエルの領土とされ、現在、パレスチナの自治区としてかろうじて残されているのが、ヨルダン川西岸地区とガザ地区です。
ガリラヤ地域にもともと住んでいたパレスチナ人の多くは強制的に移住させられ、難民生活を強いられることとなりましたが、中にはガリラヤに残り続けた人々もいました。ガリラヤ地域に残った人々は否応なしに、イスラエル国籍をもつイスラエル国民にさせられました。ヨルダン川西岸地区やガザ地区とは違い、ガリラヤはもはやパレスチナの領土ではないものとされているからです。ガリラヤには現在も、パレスチナ人として生きてきた歴史も誇りも否定され、しかしパレスチナ人であることの不当な差別を受けながら暮らしている大勢のパレスチナの人々がいます。その人々の多くはイスラム教徒ですが、中にはユダヤ教徒、キリスト教徒もいらっしゃいます。
歴史的人物としてのイエス・キリスト
イエス・キリストの故郷ガリラヤについて、また、現在のガリラヤについて少しお話ししました。イエスさまが育ったのは、ガリラヤ地方のナザレという村です。イエスさまは生前、ナザレのイエスと呼ばれていました。
皆さんもよくご存じのように、父の名はヨセフ、母の名はマリアです。父ヨセフは木工大工の仕事をしており、職人でした。イエスさまも少年時代、父親の仕事を手伝っていたと想像できます。
当時、ガリラヤに生きる人々は何重もの税を課されていました。エルサレム神殿に対する税、ローマ皇帝に対する税、ヘロデ王朝に対する税などです。ローマ皇帝に対する税を納める必要があったのは、当時のイスラエルはローマ帝国の支配下に置かれていたからです。そのような何重もの重い税が課される中で、多くの人々が困難な生活を強いられていました。イエスさまも幼い頃より、生活の大変さ、生きることの苦しみに間近に接していらっしゃったことと思います。
イエスさまの生涯を謳った讃美歌『馬槽(まぶね)の中に』(280番)は次の1節で始まります。《馬槽のなかに うぶごえあげ、/木工の家に ひととなりて、/貧しきうれい、生くるなやみ、/つぶさになめし、この人を見よ》(日本基督教団讃美歌委員会編『讃美歌21』所収、1997年、日本基督教団出版局)。馬槽とは、羊や牛のえさ箱(飼い葉桶)のことです。貧しい家畜小屋の飼い葉桶の中で産声を上げたイエスさまは、大工の家で成長し、生活の大変さ、貧しさ、生きることの悩みをつぶさに見、経験したことが謳われています。
イエス・キリストは実在した、歴史的人物です。神話上の人物であるのではなく、単なる物語上の登場人物であるのでもありません。およそ2000年前のパレスチナで、一人の人間として生きていた方です。神と隣人への愛に生き、神の国の福音を宣べ伝え、そしてそのご生涯の最期に十字架刑によって亡くなられた方です。ナザレのイエスがお生まれになったのは紀元前4~6年頃、十字架刑によって亡くなられたのは紀元30年頃であると考えられています。
歴史的人物であるナザレのイエス。このイエスを通して、神さまのまったき救いの業が現わされた。このイエスこそ神の子、救い主であると私たちキリスト教会は信じ続けてきました。
《初めから聞いていたこと》
メッセージの冒頭で、ヨハネの手紙一2章22-29節をお読みしました。その中に、《初めから聞いていたことを、心にとどめなさい》という言葉がありました。《初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう。/これこそ、御子がわたしたちに約束された約束、永遠の命です》(24、25節)。
ここでの《初めから聞いていたこと》とは、イエス・キリストは神の子であると同時に、一人の人間としてこの地上を生きた存在であるという信仰理解のことを指しています。
イエス・キリストがこの世界に来てくださったことは幻ではない。イエスさま確かに、私たちと同じ肉体をもった一人の人間としてお生まれになり、パレスチナの地において、その生涯を送られた。そのことは、わたしたちがこの手で触れ、確認した、確かな事実である。手紙の冒頭で、ヨハネはこのように記しています。1章1節《初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について》。
ここでの《命の言》とは、一人の人間として生きたイエス・キリスト御自身のこと、その生涯のことを指しています。この手紙を書いた著者自身――当時としてはかなり高齢であったと考えられます――、もしかしたら子どもの頃、イエスさまに抱きしめてもらった経験があったのかもしれません。
なぜヨハネの手紙の著者はここで、《初めから聞いていたことを、心にとどめなさい》と注意を促しているのでしょうか。イエスさまが一人の人間であったことを何度も確認しているのでしょうか。それは、当時のヨハネの教会が直面していた状況が関わっています。
ヨハネの手紙一が書かれたのは紀元100~110年頃です。イエス・キリストが十字架刑で亡くなられたのが紀元30年頃。それから70~80年が経過しています。生前のイエスさまのことを知っていた第1世代はいなくなり、そのことを伝え聞いていた第2世代もほとんどいなくなり、第3世代が中心となっている年代です。教会に集うほぼ全員が、生前のイエスさまのことを直接は知らない人々です。世代が替わるに従って、どうしてもイエスさまが一人の人間として生きておられたことの実感は薄れていってしまうものでしょう。世代が第3世代に入れ替わった頃、イエス・キリストは「仮の姿でこの世界に現れた」のだとする考え方が生じるようになりました。神の子キリストは仮の姿でこの世界に来られたのだとし、人間としての肉体をもってこの世界に来たことを否定する考え方です。このような考え方を、少し難しい言葉で「仮現論」と言います。
ヨハネの教会でも、イエスさまが一人の人間であったことに重きを置く立場と、イエスさまが一人の人間であったことにはもはや重きを置かない立場に分かれていたようです。ヨハネの手紙の著者はもちろん、前者の立場を堅持しようとしています。結果、ヨハネの教会の中に分断と対立が生じていたようです。対立の末、後者のグループは教会を出て行ってしまいました。ヨハネの手紙の著者は出て行ってしまった人々のことを《偽り者》《反キリスト(キリストと敵対する者)》(22節)と呼んで厳しく批判しています。もしもイエスが仮の姿でこの世界に現れたに過ぎないのだとすれば、イエスさまのご受難と十字架をはじめとする救いの出来事も仮のものとなり、意味のないものとなると考えるからです。いずれにしましても、同じ教会に属していた人々のことをそう呼ばざるを得ないまでの状況に追い込まれたことは、残念なこと、悲しいことです。
生まれ出ようとするものを守るための厳しさ
ヨハネの手紙の著者はなぜこれほど厳しい言葉を紡ぎ出さねばならなかったのでしょうか。そこには、ヨハネの手紙が記された時期が深く関係しています。
ヨハネの手紙が書かれた時期というのは、キリスト教が生まれ出たばかり、もしくはキリスト教がこれから本格的に生まれ出ようとしている時期でした。ヨハネは自らの生死を懸けて、産声を上げたばかりのキリスト教の「固有性」を守ろうとしていたのです。
ヨハネたちが厳しい態度をもって守ろうとしていたキリスト教の固有性、それが、歴史的人物であるナザレのイエスを通して、神さまのまったき救いの業が現わされたという信仰です。また別の視点から言い換えますと、イエス・キリストは、「神が肉体をもって、人となられた」存在であるという信仰理解です。神が肉体をもって人となられた(ヨハネによる福音書1章14節)――キリスト教は伝統的に少し難しい言葉でこれを「受肉」と呼んでいます。キリスト教の根幹にある信仰理解です。
第1世代、第2世代の人々から受け継いできたこの信仰に堅くとどまるよう、ヨハネは教会の人々に呼びかけています。そうしてこの信仰とは異なることを信じる人々を《反キリスト》と呼び、徹底的に批判しています。
ヨハネのあまりに厳しすぎる言葉は、現代の私たちからするともはや文字通りには受け止めることのできないものかもしれません。しかし一方で、ヨハネたちのこの厳しさがなければ、キリスト教はその後の歴史において存続することはできなかったであろうと思います。キリスト教の固有性を守ろうとする信仰の先達たちの懸命なる努力がなければ、いまキリスト教そのものが存在していなかったのではないでしょうか。ヨハネの手紙における「厳しさ」とは、生まれ出ようとするものを守るための厳しさであったのだと受け止めることができます。
それぞれの内に信実なるものがあり、それぞれがかけがえのない役割を担っていること
ただし、いまを生きる私たちは、もはやそのような厳しい姿勢をもって互いに対立し合う必要はありません。これからの時代を生きる私たちは、かつての厳しさとは異なる姿勢をもって、互いの信仰理解を受け止め合ってゆくことが求められています。
生まれ出ようとするものを守るために、かつて全否定してしまったもの。それらのものと、再びつながりを回復する作業をしてゆくことが、これから求められているのだと私は受け止めています。ヨハネの手紙で言いますと、《反キリスト》と呼んで、斥けてしまった人々。その人々とも再び出会う作業をしてゆくことが必要でありましょう。その人々は、本当は一体、どのようなことを考えていたのか。どのようなことを大切にしようとしていたのか。いまなら、私たちは理解をしてゆくことができるのではないでしょうか。かつて《反キリスト》と呼ばれていた人々も、やはりわたしたちの同志であり、同じキリストに結ばれている仲間であったはずです。
いまを生きる私たちは自分の立場のみが「正しい」ものとして固執するのではなく、それぞれの内に信実なるものがあり、それぞれがかけがえのない役割を担っていることを心に留めることが求められています。いまガザ地区で起っていることも、ウクライナで起っていることも、自分たちのみが「正しい」とし自らを絶対化することから引き起こされている惨禍なのではないでしょうか。生前のイエスさまがいま、パレスチナの現状を見ると、何とおっしゃるでしょうか。
《初めから聞いていたこと》を心に留めつつ、いま新たに、神さまが私たちにお語りになっていることに共に私たちの心を開きたいと思います。