2024年7月28日「主の食卓を囲み」

2024728日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:詩編782339節、ヨハネによる福音書64159節、コリントの信徒への手紙一112329

「主の食卓を囲み」

 

 

秋田県と山形県で記録的な大雨

 

先週の木曜日から秋田県と山形県で記録的な大雨となり、各地で大きな被害が発生しています。本日もまた雨が続くとのことですが、これ以上被害が拡大しないよう、お一人おひとりの安全が守られますよう、ご一緒に祈りを合わせたいと思います。酒田市にあります妻の実家は浸水の被害等はなく、いまのところ大丈夫です。ご心配くださった皆さん、ありがとうございました。

 

秋田地区の教会の皆さんも、今のところ被害はないとのことです。本荘教会も会堂と教会員の皆さんの無事が確認されています。一方、山形県では、教会員の皆さんのご自宅にも被害が生じているとのことです。酒田市の酒田教会と酒田暁星教会は会堂の被害はないとのことですが、本日予定されていた酒田教会の平澤道男先生の就任式は参加者の皆さんの安全を考慮して延期となりました。729日(月)~30日(火)に酒田教会を会場に予定されていた東北伝道協力会の夏のセミナーも対面での開催は中止、講師の小友聡先生のご講演をオンラインで配信することとなりました。

 

今後も全国で、大雨による影響が懸念されます。この度の豪雨によって被災した方々の上に神さまからのお支えを祈ると共に、私たちもそれぞれ、防災への備えをしてゆきたいと思います。

 

 

 

61回奥羽教区全体修養会

 

 先週の724日(水)~25日(木)、つなぎ温泉ホテル大観を会場に第61回奥羽教区全体修養会が開催されました。花巻教会からは菊池則子さん、菊池瑞穂さん、鈴木摩耶子さん、私が参加しました。前回開催されたのが2018年、コロナ下を経て、6年ぶりの開催となりました。各地区より100名を超える参加者がありました。昨年の教区教会婦人会連合の修養会に引き続き、対面で、皆さんと顔と顔を合わせ同じ時を過ごすことができ、心より感謝でした。長い時間をかけてご準備くださった北西地区の実行委員会の皆さまにも感謝いたします。

 

今回の修養会は外部からの講師は招かず、各地区より主題に基づいた発題をいただき、それを受けての全体協議を行うというプログラムでした。北東地区からは奥中山教会の長尾邦弘先生、岩手地区からは江刺教会の掛江隆史先生、秋田地区からは脇本教会の中西絵津子先生、北西地区からは黒石教会の伊丹秀子先生が発題をしてくださいました。また、1日目の夜の部では和田献一さんを講師にお招きし、部落問題についての学びの時(主題:『マイノリティの権利宣言と制度的差別――部落差別から学ぶ――』)を持ちました。

 

 

 

「沖へ漕ぎ出そう――わたしたちにとっての沖とは?――」

 

今年の修養会の主題は「沖へ漕ぎ出そう――わたしたちにとっての沖とは?――」。奥羽教区が今年度より新しく定めた第7期長期宣教基本方針を受けての主題です。

 

7期奥羽教区長期宣教基本方針2024年~2033年)の主題は「主と共に沖へ漕ぎ出そう」。聖句として、ルカによる福音書54節《沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい》を選んでいます。この教区の長期宣教基本方針を受けて、では、「わたしたちにとっての沖とは?」を考えるのが今回の全体修養会の趣旨でした。

長期宣教基本方針の本文の一部を引用いたします。《沖へ漕ぎ出すよう弟子たちの背中を押された主が、わたしたちと共にいてくださることを信じて、神と人とに仕える教会の使命を果たしていきたい》。この方針に基づき、教区では今年度より新しい取り組みも始められています。《目標1 共に歩むための新しい繋がりを生み出す体制を整える》、具合的には《教区内のすべての教会・伝道所がオンラインで繋がる》等です。

 

皆さんもぜひ、「私たちにとっての沖」「自分にとっての沖」とは何か、じっくりと考えていただければと思います。私たちにとって未知なる領域に、また新しいイエスさまからのご委託があるかもしれません。

 

 

 

私にとっての「沖」 ~論文の出版

 

「沖へ漕ぎ出そう――わたしたちにとっての沖とは?――」の主題を受けて、私にとっての「沖」についても、少しお話をしたいと思います。私が現在取り組んでいる新しい試みの一つは、論文の出版です。以前もご案内いたしましたが、現在、本の出版に向けての準備を進めています。タイトルは『違いがありつつ、ひとつ――試論「十全のイエス・キリスト」へ』。キリスト教出版社のヨベルより10月に発売の予定です。花巻教会に赴任した2013年から本格的に執筆に取り組みはじめ、昨年の2023年にようやく完成しました。内容は二部構成となっており、第一部では四福音書について、第二部では聖餐について論じています。

 

 

 

違いがありつつ、ひとつ

 

 第一部で論じている四福音書とは、新約聖書の四つの福音書のことです。新約聖書にはマタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書、ヨハネによる福音書が収められています。これらの四つの福音書がそれぞれ異なった視点を持っていることはよく知られている通りです。四つの福音書にはそれぞれ固有の視点があり、相違があります。そしてそれらの相違をそのままに保存しているのが、私たちが現在手にしている聖書の特徴です。

 

聖書が体現する多様性と包摂性。私なりに表現すると、それは、「違いがありつつ、ひとつ」である在り方です。違いを排してひとつになるのではなく、違いを通してひとつになる在り方を聖書は伝えています。固有性(かけがえのなさ)を持った存在として在りつつ、互いに補い合い、活かし合うという在り方です。その「違いがありつつ、ひとつ」である在り方は、新約聖書の四福音書において最も良く体現されています。論文の第一部では「四福音書の相違と相互補完性」について、私としての仮説を提示しています。

 

聖書に内在する「違いがありつつ、ひとつ」である在り方を改めて提示してゆくことは、キリスト教会のみならず、私たちが生きる社会においても重要な指針となり得るものと考えています。

 

続く第二部では、今日の聖餐論議を取り上げています。伝統的な聖餐論と開かれた聖餐論という、対照的な二つの聖餐論を考察し、その「相違と相互補完性」について論じています。

 

伝統的な聖餐論とは、古代教会以来の伝統的な信仰の枠組みに依拠する聖餐理解のことを言います。この伝統的な聖餐理解の特質は、「イエス・キリストへの信仰を前提としている」点です。伝統的な聖餐論は「洗礼を受けた者のみが聖餐に与ることができる」点を共通の理解としています。

対して、20世紀の後半から言語化され始めた比較的新しい聖餐論が「開かれた聖餐論」です。この新しい聖餐理解の特質は、「イエス・キリストへの信仰は必ずしも前提とされない」点です。「未受洗者にも聖餐は『開かれている』」(洗礼は陪餐の条件とはならない)という新しい理解を持つのがこの聖餐理解です。

 

私たち花巻教会が属する日本基督教団では、開かれた聖餐を巡って、教団内に対立と分断が生じている現状があります。開かれた聖餐の意義を認める立場と、開かれた聖餐は決して認められないという立場に大きく二分されてしまっているのです。しかし、伝統的な聖餐理解と開かれた聖餐理解は本来、対立し合う関係にはない。それぞれの固有の役割を通して、互いに補完し合う関係にあるというのが、第二部で提示したい仮説です。対立と分断がつづく中、この度の論文が日本基督教団が対話を始めてゆくことに少しでも寄与できることを願っています。

 

また本が出版されたましたら、皆さんとも改めて四福音書について、聖餐についての理解をご一緒に深めてゆきたいと思います。

 

 

 

聖餐とは

 

 改めて、聖餐について説明をしておきたいと思います。聖餐とは、キリスト教の礼拝の中心に位置付けられてきた共同の食事のことを言います。式の中で提供されるのは、パンとぶどう酒(ぶどう液)です。この聖餐は、キリスト教徒となる儀式である洗礼と共に、この2000年間、キリスト教において大切に受け継がれてきました。プロテスタント教会は洗礼と聖餐の二つを聖礼典(サクラメント) と呼んでいます。花巻教会では毎月第1週の日曜日の礼拝の中で聖餐式を行っています。

 

 

 

聖餐の根拠 ~「主の晩餐」

 

この聖餐の根拠とされている聖書の言葉は幾つかありますが、伝統的に重んじられてきた箇所の一つが、本日の聖書箇所である新約聖書・コリントの信徒への手紙一112329節です。

改めて2326節をお読みいたします。《わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、/感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。/また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。/だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです》。

 

ここで語られているのは、有名な「主の晩餐(最後の晩餐)」の場面です。イエス・キリストは逮捕される直前、弟子たちと最後の食事を共にしました。その主の晩餐におけるイエスさまの言葉と振る舞いが、伝統的に聖餐の根拠とされてきました。私たち花巻教会が用いている日本基督教団の聖餐式の式文においても、この言葉が、イエス・キリストご自身による制定の言葉として引用されています。

 

 

 

聖餐の根拠 ~「イエスの食卓」

 

聖餐の根拠とされている聖書の言葉は、他にもあります。その一つが、イエスさまが日常的に行っていた会食(愛餐)の場面です。福音書は、イエスさまが当時の社会において「罪人」とされ差別されていた人々と食卓を共にしてくださったことを記しています。以後、この会食のことを「イエスの食卓」と形容したいと思います。

 

先ほど、日本基督教団では、聖餐理解の相違によって対立と分断が生じていることを述べました。聖餐理解の相違は、根拠とする聖書箇所の相違にも現われています。伝統的な聖餐理解に立つ方々は前者の「主の晩餐」の記事をその根拠とし、開かれた聖餐理解に立つ方々は後者の「イエスの食卓(愛餐)」の記事をその第一の根拠とする傾向があります。

同じ食卓でも、主の晩餐とイエスの食卓とではずいぶんとその内実に違いがあることが分かります。前者は宗教的な儀式の要素が強く、後者は日常的な愛餐の要素が強いと言えます。

 

 

 

二つの異なる聖餐理解 ~「違いがありつつ、ひとつ」である関係性

 

主の晩餐の強調点は、間近に迫る十字架とその死を指し示すことにあります。すなわち、十字架におかかりになったキリストを指し示すことが、主の晩餐の記事が目指すところです。言い換えますと、信仰告白のキリストを指し示すことです。

対してイエスの食卓は、人々を分け隔てなく、無条件に、食卓へと招いた生前のイエスさまの姿を指し示すことに強調点を置いています。生前のイエス――その言葉と振る舞い――を指し示すことが、イエスの食卓が目指すところです。

皆さんは、どちらの食卓が身近に感じるでしょうか。どちらの食卓が、ご自身の心に思い描いているイエスさまの像に近いでしょうか。

 

本日ご一緒に心に留めたいのは、そのどちらも、大切なイエス・キリストのお姿であるということです。伝統的な聖餐理解が指し示すイエスさま(=信仰告白のキリスト)も大切であるし、開かれた聖餐理解が指し示すイエスさま(=生前のイエス)も大切。いずれも、お一人なるイエスさまのかけがえのない一側面を指し示しているものです。二つの異なる聖餐理解はそれぞれの固有の役割を通して、互いに補完し合っています。「違いがありつつ、ひとつ」である関係性にあるのです。

 

 

 

《主の食卓を囲み》 ~再び一致を

 

キリスト教会において、聖餐は元来、教会に一致をもたらすものであるとされてきました。日本基督教団の聖餐式の式文には《この恵みのしるしは、わたしたちすべてを主において一つにします》(日本基督教団 口語式文『聖餐式』改訂版)との一文があります。また、賛美歌『主の食卓を囲み』では《主の食卓を囲み、いのちのパンをいただき、救いのさかずきを飲み、主にあってわれらはひとつ》と謳われています(新垣壬敏作詞・作曲。日本基督教団讃美歌委員会編『讃美歌21』、日本基督教団出版局、1997年、81番)。しかし、これまでのキリスト教の歴史において、聖餐は一致をもたらすのではなく、むしろ分離を引き起こす要因となってきました。聖餐理解の内実に、大きな違いが生じてしまったからです。

 

私たちはいまこそ、聖餐を通して、再び一致を目指す時にあるのではないでしょうか。違いを排してひとつになるのではなく、違いを通してひとつになる在り方によって。私たちは他ならぬ聖餐を通して、再びひとつになってゆくことができます。

 

本日は、現在出版の準備中の論文についてもご紹介しました。論文の出版は私にとって新しい試みであり、私にとっての「沖」ですが、「違いがありつつ、ひとつ」なる在り方の実現は、私たち日本基督教団および日本のキリスト教会にとっても、これからの目指すべき共通の「沖」であると受け止めています。《主の食卓を囲み》、主において、主と共に、教会の一致と和解を目指して、ご一緒に沖へと漕ぎ出してゆきたいと願っています。