2024年8月11日「成長させてくださったのは神」
2024年8月11日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:詩編15編1-5節、ヨハネによる福音書7章40-52節、コリントの信徒への手紙一2章11節‐3章9節
南海トラフ地震臨時情報(巨大地震注意)の発表
先週8日の夕方、宮崎県日南市で最大震度6弱を観測する地震が発生しました。この地震を受けて、気象庁は南海トラフ地震臨時情報(巨大地震注意)を発表しました。南海トラフ地震の臨時情報が発表されるのは今回が初めてのことで、多くの方々がこの数日、懸念や強い不安を覚えつつ過ごしておられることと思います。9日の夜には神奈川県で震度5弱の地震もありました。こちらの地震は南海トラフとの関連はないということですが、やはり巨大地震への不安は尽きません。
この度の宮崎県の地震によって被災された方々の上に神さまのお支えを祈ると共に、私たちも地震への備えを改めて確認してゆきたいと思います。地震はいつ起こるか私たちには知り得ませんが、一人ひとりの命と安全が守られますよう切に願うものです。
広島・長崎への原爆投下、釜石への艦砲射撃、旧満州へのソ連侵攻から79年
先週の8月6日、アメリカによる広島への原爆投下から79年を迎えました。8月9日、長崎への原爆投下から79年を迎えました。日本全国で、世界中で、原爆によって亡くなられた方々への鎮魂の祈りと、核廃絶への祈りがささげられました。
鈴木史朗長崎市長の長崎平和宣言には次の言葉がありました。《核兵器廃絶は、国際社会が目指す持続可能な開発目標(SDGs)の前提ともいえる「人類が生き残るための絶対条件」なのです》(長崎市websiteより。https://www.city.nagasaki.lg.jp/heiwa/3070000/307100/p036984.html)。核兵器廃絶に向けて、ご一緒に祈りを合わせてゆきたいと思います。
長崎に原爆が投下された8月9日と同日、岩手県では釜石がアメリカ・イギリス両海軍による艦砲射撃を受け、街は焼け野原となりました。7月14日の艦砲射撃に続く2回目の艦砲射撃でした。
また同日の9日、中国の旧満州(現在の中国東北部)ではソ連軍が侵攻を始め、そこに住んでいた多くの日本人が難民状態となりました。財産も住まいも失われ、多くの人々の命が奪われました。日本へ帰還(引き揚げ)をする過程においても、多くの方々の命が失われました。
花巻教会の会員であり2017年に99歳で天に召された三田照子さんは当時満州におられ、戦争によって多くの人々の命が簡単に消えてゆく光景を目の当たりにされました。その後、照子さんは満州からの引き揚げの経験の語り部として、戦争の悲惨さと平和の尊さを伝える活動に尽力されました。
99歳の白寿に寄せて、三田照子さんが花巻教会の会報に寄せてくださった文章の締めくくりの言葉を改めて引用したいと思います。《平和な世界を作る為に我らは神に遣わされ、愛されて生きている。神は試練ばかりではなく更に良き道を備えてくれる。夫が逝って50年、99歳の誕生日を迎え、生きることの尊さを深く感じる日々である。/私共は、何があっても戦争だけはしてはならない。戦争程、全ての人を不幸にし、悲しませるものはない》(三田照子さん「白寿(99歳)まで生かされて」、『花巻教会だより 第5号』所収、2016年11月)。
花巻空襲
長崎に原爆が投下され、釜石に艦砲射撃がなされ、旧満州でソ連が侵攻を始めた8月9日の翌日、私たちが住む花巻でもアメリカ軍による空襲がありました。
岩手の戦争被害を記録する活動を続けておられる加藤昭雄さんの著書『花巻が燃えた日』(熊谷印刷出版部、1999年)によりますと、この8月10日の花巻空襲による死者は少なくとも47名、身元の分からない人々を加えると60名近く、あるいはそれ以上にのぼるのではないかということです(同、20頁)。最も被害を受けた場所の一つが花巻駅前で、駅前地区だけでも少なくとも32名の命が奪われました。負傷者も多数、建物等も大きな被害を受けました。駅のロータリーには現在、「やすらぎの像」が建てられています(1995年、花巻空襲50周年を記念して建立)。
またこの花巻空襲によって、教会が隣接する上町・双葉町・豊沢町一帯には大火災が発生しました。この大火災によって673戸の建物が焼失したとのことです(同、19頁)。これは当時の花巻町全戸数の約5分の1に相当します。《燃えに任せた焼け跡はまさに焼け野原と呼ぶにふさわしく、家々は柱も残らないほどに焼け落ち、黒焦げになった土蔵だけが点々と残っていた》(同、217頁)。
火災によって焼失した家屋の一つに、宮沢賢治さんの生家がありました。弟の清六さんが前もってお兄さんが遺した原稿を防空壕に移していたおかげで、賢治さんの原稿は焼失を免れたとのことです(宮沢清六「燻製された原稿」、『兄のトランク』所収、ちくま文庫、1991年、171頁)。
花巻教会は空襲による直接的な被害はなかったようですが、教会の記念誌には「教会堂の筋向いに爆弾が落ちて会堂の窓ガラスがめちゃめちゃになった」との証言が残されています(中村陸郎さん「戦争中の教会」、花巻教会『いづみ 創立70周年記念号』所収、8頁)。
4年前、花巻空襲を実際に経験した方々のお話を聞く機会がありました。朝日新聞岩手版の戦後75年特集として、花巻空襲についての取材が花巻教会を会場として行われ、私も立ち会わせていただいたのです。当時花巻高等女学校の4年生だったお二人の方の証言を通して、花巻空襲がどのようなものだったかを伺う機会が与えられました。
現在のまなび学園のところに、当時女学校がありました。空襲警報が鳴ると、生徒たちは急いで杉林に逃げ込んだそうです。生徒たちがいる杉林は機銃掃射を受けましたが、幸い皆無事でした。しかし間もなく、周囲で負傷したたくさんの人々が戸板に乗せられて運ばれてきたとのことです。記事の一部を引用いたします。《元教員の瓜生祐子さん(90)は女学校の4年生だった。学校で軍服の縫製をしていたところ、空襲警報が鳴った。生徒約300人が逃げ込んだ杉林は機銃掃射を受けた。周辺では何人もの負傷者が戸板に乗せられて運ばれた。「市街は火の海。戦場そのものでした」》(朝日新聞、2020年7月14日、24面)。
広島・長崎の原爆に比べると、花巻空襲は規模は小さなものであるかもしれません。けれども、原子爆弾も空襲も、非人道的な無差別殺戮であることは変わりなく、かけがえのない命とその生活が突然の暴力によって奪われ、深く傷つけられたことも同じです。引用した記事の中で、加藤昭雄さんは次のようにおっしゃっていました。(岩手での戦争被害について)《攻撃の規模は小さくても、そこには亡くなった人や被害にあった人がいる》、《身近な出来事ととらえるためには、地域で何があったのかを残すことは大切。教訓を伝えないと、また戦争への道を歩む可能性がある》。
戦争の加害・被害の記憶
原爆も空襲も、市民を無差別に殺戮するものである――赤ん坊や子どもたちをも――ことは同じ。かけがえのない個々人の命と生活を奪うことも同じ。私たちが住むこの日本はかつての戦争においてその甚大なる被害受け、また、他国に対して甚大なる被害を与えました。私たちが受け継ぐべき戦争の記憶は被害の記憶であると同時に、加害の記憶でもあります。
日中戦争において、日本軍は中国に対して無差別爆撃を行いました。その中で最大の爆撃は、重慶市街地を標的とした重慶爆撃(1938~1941年)です。この重慶爆撃は、《「戦政略爆撃」なる名称を公式に掲げて実施された最初の意図的・組織的・継続的な空中爆撃》であったと言われています(前田哲男『新訂版 戦略爆撃の思想 ゲルニカ、重慶、広島』、凱風社、2006年、25頁)。
この日本軍による中国への無差別爆撃が、その後、アメリカが日本へ無差別爆撃を行う際の正当化の根拠を与えることにつながっていきました(参照:吉田敏浩『反空爆の思想』、NHKブックス、2006年、158頁、171‐174頁)。歴史的には、アメリカ軍による日本への無差別爆撃、広島と長崎への原爆投下より前に、日本軍による中国への無差別爆撃があったことになります。
この歴史的事実を踏まえ、吉田敏浩さんは『反空爆の思想』という著書で次のように述べています。《このように、かつて日本人は空爆の加害者になり、そして被害者にもなった歴史を持っている。空襲体験者は自ら受けた被害の痛みと悲しみを通じて、他国の空爆被害者の痛みと悲しみを推し量ることができるはずだ。中国で日本がおこなった空爆という加害の史実も、中国の被害者の身になって考えてみることで直視できるだろう。/空襲を体験していない者も、中国での日本による空爆と日本でのアメリカによる空爆が引き起こした惨禍の史実を知ることで、国や民族や宗教の違いを超えた空爆被害者の痛みと悲しみの共通性に目を開かされるのではないか》(同、173、174頁)。
《剣を鞘に納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる》
いまウクライナで、ガザ地区で、戦争が続いています。ガザでは日夜、空爆が行われ、無関係の市民――その多くが子どもや女性――が傷つけられ、その命が失われています。ロシアとウクライナ、ハマスとイスラエルのそれぞれが自分たちの「正しさ」を主張していますが、他者のかけがえのない命と生活を奪う戦争を行っている限り、そこに「正しさ」も「正義」も、決して存在し得ません。戦争は、いざ始まってしまえば、どちらか一方が「正しい」ということはあり得ません。これまでの戦争の歴史を鑑みても、どちらか一方が「正しい」戦争はあり得なかったことが分かります。そもそも、「正しい」戦争(聖戦)は存在しないし、正義の戦争も存在しない。戦争をすること自体が間違っているからです。一人ひとりの生命と尊厳を守ろうとする姿勢においてこそ、神さまの公正と正義が立ち現れることを、本日はご一緒に心に留めたいと思います。一刻も早く、これらの戦争が停戦へと至りますよう祈ります。
同じヘブライ語聖書(旧約聖書)の信仰を共にするイスラエルの一部の指導者たちが神の公正と正義を見失っていることは、非常に辛く悲しいことです。イスラエルがガザで行っていることは、パレスチナの人々に対する虐殺です。イスラエルが、パレスチナの人々に対する虐殺を即刻停止するよう強く求めます。
《そこで、イエスは言われた。「剣を鞘(さや)に納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」》(マタイによる福音書26章52節)。
今週の15日、私たちは敗戦の日を迎えます。私たちが住むこの日本の戦争の記憶――加害・被害の記憶――を受け継ぎつつ、個々人のかけがえのない命と生活を奪う戦争を断固拒否する決意を新たにしたいと思います。また、自分自身を絶対的に「正しい」としてしまうことの危険性、自身を相対化することの重要性も常に心に留めておきたいと思います。
成長させてくださったのは神
メッセージの冒頭でコリントの信徒への手紙一2章11節‐3章9節をお読みしました。本日の聖書箇所では、コリントの教会において、イエス・キリストへの信仰理解の相違によって、人々の間に分断が生じてしまっていたことが記されています。《ある人が「わたしはパウロにつく」と言い、他の人が「わたしはアポロに」などと言っている》(3章4節)。当時、コリント教会の指導者的立場にあった人物として、パウロと、もう一人アポロという人がいました。教会のメンバーの間でいつしか「パウロ派」「アポロ派」というように、分断が生じる事態になってしまっていた。それぞれが、自分たちの信仰理解こそ「正しい」として、ゆずることができない状況があったようです。
パウロはそのような現状を憂い、次のように訴えます。《アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。/わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です》(5、6節)。パウロは苗を植えた、そして次にアポロは水を注いだ。これはどちらかの仕事の方が優れているということではなく、どちらも必要な役割であったことをパウロは述べています。そして、成長させてくださったのは、他ならぬ神さまである。大切なことは、自分たちの働きを用いて、教会を成長させてくださった神さまに心を向けること。その神さまの恵みを思い起こすように、とパウロは促しています。
この神さまの大いなる恵みの前では、私たちはどちらか一方のみが絶対的に「正しい」ということはないし、一方のみが完全無欠であるということもありません。私たちはそれぞれ、神さまの前では弱さをもった、限りある、相対的な存在です。と同時に、神さまの目に貴く、かけがえのない、代替不可能な存在です。神さまの目に、誰一人、決して失われてはならない存在です。不当な暴力によって、決して失われてはならない存在なのです。
その私たち一人ひとりに、聖霊なる神さまによってなくてはならない固有の役割が与えられています。そうしてそれらの大切な役割を通して互いに補い合っているのです。違いがありつつ、ひとつに結び合わされているというのが、神さまの目から見た私たちのまことの関係性です。
神さまの目から見た一人ひとりのかけがえのなさと、聖霊のお働きによる相互の役割の補完性に、いま私たちの心を向けたいと思います。どうぞ私たちがこの真理への認識を深め、分断と対立を乗り越え、一人ひとりがまことに大切にされる社会を共に形づくってゆくことができますように願います。