2024年9月15日「私たちの心の内に」
2024年9月15日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:詩編103編14-22節、ヨハネによる福音書10章22-30節、エフェソの信徒への手紙3章14-21節
内住のキリスト
メッセージの冒頭で、本日の聖書箇所であるエフェソの信徒への手紙3章14-22節をお読みしました。その中に、次の言葉がありました。《信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ》――。私たちの心の内にキリストが住んでくださるようにとの祈りの言葉です。
16、17節をお読みいたします。《どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、/信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように》。
「内住(ないじゅう)のキリスト」という言葉があります。「内に住む」と書いて内住です。内住のキリストとは、その言葉の通り、私たちの内に住んでくださるキリストのことを指しています。あまり聞きなれない呼称だと感じる方もいらっしゃるかもしれません。確かに、内住のキリストについては、新約聖書の中においても多く語られているわけではありません。本日のエフェソの信徒への手紙3章は、この内住のキリストについてはっきりと語っているものとして、聖書の中でも貴重な箇所であると受け止めています(他にヨハネによる福音書17章20-26節、ガラテヤの信徒への手紙2章19-20節など)。
私たちの「内に」
皆さんは普段、イエス・キリストをどこにいらっしゃる方としてイメージしてらっしゃるでしょうか。自分の「外に」いらっしゃる方として受け止めていることが多いかもしれません。
イエス・キリストは2000年前、パレスチナの地に、一人の人間としてお生まれになりました。歴史的な人物として生き(=生前のイエス)、そのご生涯の最後に、十字架刑に処せられました(=十字架のキリスト)。聖書はその後、キリストが復活し(=復活のキリスト)、天に昇られた(=昇天のキリスト)ことを語っています。そして、終わりの時に再びこの世界に来てくださる(=再臨のキリスト)ことを語っています。これらの聖書が証しする神の子・救い主なるイエス・キリストは常に、私たちの「外に」おられる存在ですよね。
と同時に、聖書はさらに、私たちの「内に」おられるキリストについても語っています。私たちの存在の内に、復活されたキリストが住んでおられるという視点です。語られている箇所は少ないですが、この内住のキリストも、聖書が語るかけがえのないイエス・キリストの一側面です。
内住のキリストは、これまではいわゆる神秘主義的なキリスト理解として、傍流的な位置付けとされてきましたが、これからの時代、よりはっきりと言語化されてゆくのではないかと私は受け止めています。
賛美歌「私たちの心の内に」
先ほどご一緒に賛美歌「私たちの心の内に」を歌いました。エフェソの信徒への手紙3章14-22節を私がパラフレーズ(該当する聖書の言葉の音節を整え、賛美歌として歌えるようにすること)をし、飯靖子先生が曲をつけてくださったものです。雑誌『礼拝と音楽』(日本キリスト教団出版局)の「聖書の歌をうたう」という連載で作った1曲です。最新号(202号)に収録されています。内住のキリストを謳った賛美歌がこれから増えてゆけばよいと思い、パラフレーズを試みました。
改めて、賛美歌「私たちの心の内に」の歌詞をお読みいたします。
1,
キリスト・イェスよ
私たちの 心の内に 住んでください
あなたの道を
私たちが 愛に根ざして 歩むために
この1番の歌詞では、冒頭で、内住のキリストへの祈りを記しています。《キリスト・イェスよ 私たちの 心の内に 住んでください》。後半では、私たちがキリストのその愛に根ざして歩むことができるようにと謳っています。《あなたの道を 私たちが 愛に根ざして 歩むために》。
キリストが私たちの内に住んでくださることと密接に結びついているのが、私たちが愛に根ざして歩むことです。キリストが私たちの内におられるということは、他ならぬ、神の愛が私たちの内にあるということを意味していると受け止めることができるでしょう。
エフェソの信徒への手紙3章16、17節《どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、/信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように》。
2番の歌詞をお読みいたします。
2,
キリスト・イェスよ
私たちと すべての人に 見せてください
あなたの愛が
いかに広く 長くて高く 深いものか
歌詞の2番では、そのキリストの愛が《いかに広く 長くて高く 深いものか》について謳っています(エフェソの信徒への手紙3章18、19節)。
3,
キリスト・イェスよ
私たちを あなたの内に 置いてください
あなたの愛は
すべてを超え 神の栄光は とこしえまで
アーメン
最後の3番では、そのキリストの愛の内に私たちが置かれることを祈っています。そして、神さまへの頌栄をもって、終わります(エフェソの信徒への手紙3章20、21節)。
キリストが私たちの内におられる、と同時に、私たちはキリストの内にいる。キリストの愛が私たちの内にある、と同時に、私たちはキリストの愛の内にいる――。そのどちらも、聖書が語る真理です。本日のメッセージでは、普段あまり語られることが少ないかもしれない、キリストが「私たちの内におられる」という側面についてお話をしています。
キリストの愛に根ざして歩む
先ほど、キリストが私たちの内に住んでくださることと、私たちが愛に根ざして歩むことが密接に結びついていると述べました。キリストが私たちの内におられるということは、他ならぬ、神の愛が私たちの内にあるということ。
私たちは普段、愛に根ざして歩むことが難しく思えることが多々あります。私たちの内にあるのは愛ではなく、否定的な感情でしかないと思えることもあります。怒りや憎しみ、妬み。不安や恐れ。あるいは冷たい無関心。私たちは普段、それらの否定的な感情に根ざして言葉を発し、行動してしまっていることも多いものです。
しかし、本日の聖書箇所が語るのは、そのような私たちの内に、キリストがおられるということです。私たちの心の内の、様々なネガティブな感情よりさらに深いところに、キリストはおられます。私たちの心に最も深い場所があるとしたら、そこに、キリストはおられます。最も深い場所であるゆえに、普段私たちはそこにキリストがおられることに思い至らないのかもしれません。
私たちの心の内の怒りや憎しみより、不安や恐れより、さらに深いところに、キリストはおられます。耳を澄ますと、自分の存在の内から、キリストの愛の言葉が聴こえてくるでしょう。「わたしは、あなたを、愛しています」との声が――。この声によって、私たちは自分を愛し、隣人を愛し、神さまを愛す生き方へと導かれてゆくのだと本日はご一緒に受け止めたいと思います。愛に根ざして歩むとは、私たちの内におられる、このキリストの愛に根ざして歩むということです。私たちの否定的な感情や想いよりさらに深きところにおられるキリストに、私たちの心の目を向けようとすることが大切なのではないでしょうか。
私の内に、あなたの内にキリストが ~まことの意味での個人の尊厳
最後にもう一点、内住のキリストに関して、お話したいことがあります。それは、個人の尊厳ということについてです。
先ほど、これからの時代、内住のキリストがよりはっきりと言語化されてゆくのではないかとお話しました。これから先、私たち一人ひとりが、心の内に内住のキリストをよりはっきりと見出してゆくようになってゆく、と私は受け止めています。
そのように、一人ひとりが自身の存在の内にキリストを見出してゆくとき、まことの意味での個人の尊厳が確立されてゆくのではないでしょうか。内住のキリストへの理解がより深まってゆくことに伴い、「一人ひとりの存在は、かけがえなく貴い」、このことへの認識が、私たちの間により深まってゆくでしょう。
私の内にキリストが住んでいる、あなたの内にキリストが住んでいる――このこと以上に、個人の尊厳の根拠となる事柄はないと考えるからです。すべての、一人ひとりの内に、キリストは住んでおられる。自分とは思想信条が異なるその人の内にも、自分とは立場が異なるその人の内にも、キリストは住んでおられる。周囲から仲間外れにされている人、不当に軽んじられているその人の内にも、キリストは住んでおられる。だから私たちは決して、互いを軽んじ合い、傷つけ合ってはならないのです。私一人ひとりが、互いを大切にし合う道、キリストの愛の道を歩むよう招かれています。
私たちがこれから、より内住のキリストへの理解を深め、キリストの愛に根ざして、共に歩んでゆくことができるよう、ご一緒にお祈りしたいと思います。