2025年1月5日「暗闇の中に輝く光」

202515日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:エレミヤ書311517節、コリントの信徒への手紙二1311節、マタイによる福音書21323

暗闇の中に輝く光

 

 

能登半島地震1年を覚えて

 

新しい年のはじめ、ご一緒に主日礼拝をおささげできますことを感謝いたします。皆さんの新しい年の歩みの上に、神さまの祝福とお支えがありますようにお祈りいたします。

 

11日、能登半島地震の発生から1年を迎えました。元旦の当日は、地震が発生した1610分に合わせて、中部教区主催のオンライン祈祷会が行われました。私もYouTubeでの視聴を通して参加しました。祈祷会では被災した4教会――輪島教会、七尾教会、羽咋教会、魚津教会からのメッセージも読み上げられました。受付に「能登半島地震1年を覚えて 祈りのしおり」を置いていますので、どうぞご参照ください。

能登半島では昨年9月に豪雨災害も発生しました。現在も仮設住宅での生活や避難生活を余儀なくされている方々がいらっしゃいます。いまも困難の中にある方々、懸命に復旧にあたっている方々を覚え、引き続きご一緒に祈りを合わせてゆきたいと思います。

 

 

 

公現日 ~占星術の学者たちの訪問

 

 教会の暦では、明日16日は公現日(エピファニー)です。公現日は、イエス・キリストが人々の前に「公に現れた」ことを記念する日です。教会では、明日の公現日までがイエスさまの生誕を心に留めるクリスマスの期間となります。

 

 先週の礼拝では、マタイによる福音書2112節をご一緒にお読みしました。占星術の学者たちが、不思議な星の光に導かれ、赤ん坊のイエス・キリストを探し当てて贈り物をささげる場面です。公現日に読まれることも多い箇所です。赤ん坊のイエスさまを拝んで贈り物をささげることができたその晩、占星術の学者たちは、夢で「ヘロデのところへ帰るな」とのお告げを受けます。ヘロデは当時、その地方を治めていた王さまです。ヘロデ王は、占星術の学者たちがから「ユダヤ人の王となるべき人物が生まれた」ことを聞き、不安に駆られ、情報を集めようとしていたのでした。占星術の学者たちはヘロデのところには立ち寄らず、別の道を通って、自分たちの国へ帰ってゆきました。本日の聖書箇所マタイによる福音書21323節はその続きです。

 

 

 

私たちの心に暗い影を落とすエピソード

 

占星術の学者たちが帰って行くと、父ヨセフの夢に天使が現れ、こう告げました。13節《起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている》。ヘロデ王は、「将来ユダヤ人の王となる」というその幼な子の命を狙っていたのでした。夢から覚めたヨセフは起き上がり、夜のうちに幼な子とマリアを連れてエジプトへ避難をしました。

 

そうしてイエスさまは無事にヘロデの手から逃れることができたわけですが、しかし、ここで悲劇が起こります。ヘロデによる幼児の虐殺です。ヘロデは王として生まれた幼な子を何とかして消し去ろうと考え、ベツレヘムとその周辺一帯にいた2歳以下の男の子を一人残らず殺した、とマタイによる福音書は記します。

 

1618節《さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。/こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。/「ラマで声が聞こえた。/激しく嘆き悲しむ声だ。/ラケルは子供たちのことで泣き、/慰めてもらおうともしない、/子供たちがもういないから。」》。

 

救い主の誕生という最高に喜ばしい出来事の直後に、このような悲惨な出来事が記されていることは、福音書の物語を読む私たちにショックを与えるものです。先週も述べましたように、イエスさまの誕生後に挿入されているこの幼児虐殺のエピソードは、私たちの心に暗い影を落としています。

 

 

 

この世界の現実の悲しみを表わしている箇所として

 

 聖書を読んでいると、「この箇所はどう受け止めたらよいのだろう」と戸惑ってしまう箇所がいろいろ出てきます。このヘロデによる幼児虐殺の箇所もその一つであると思います。

 

 このエピソードは、2歳以下の男の子が皆殺されてしまったけれど、イエス・キリストは助かったので「良かった」という話なのか。であるとしたら、ずいぶんと理不尽な話のようにも思えます。殺されてしまった幼な子たちには何の罪もないのに、救い主の命と引き換えにその命が奪われてしまうというのは、あまりに不条理なことのように思えます。

 

現代では、この幼児虐殺の出来事は史実として考えることは難しいとされています。「ベツレヘムとその周辺一帯の二歳以下の男の子を一人残らず殺した」ということが、マタイが記す通りに、文字通り行われたとは、実際には考えにくいことだからです。

 そう知らされると、ホッとされる方もいらっしゃることでしょう。実際にそのような悲惨な出来事が起こったわけではないと聞いて、少し胸のつかえが取れた気持ちになる方もいらっしゃるかもしれません。ただし、文字通り、ベツレヘムとその周辺一帯の二歳以下の男の子が一人残らず殺されたということは起こらなかったのだとしても、混乱の中で、幼い子どもたちが殺されたという出来事はあったのかもしれません。またそして、幼い子どもたちの命が奪われるという悲劇は現在も、現実に起こり続けています。その意味で、この幼児虐殺のエピソードは、私たちの生きるこの世界の現実の悲しみを表わしている箇所として受け止めることができるのではないでしょうか。

 

 

 

《ラマで声が聞こえた。/激しく嘆き悲しむ声だ》

 

マタイはこのエピソードの締めくくりに、旧約聖書の言葉を引用しています。預言者エレミヤの言葉です。マタイは幼児虐殺の出来事を、このエレミヤの預言の成就として捉えていることが分かります。18節《ラマで声が聞こえた。/激しく嘆き悲しむ声だ。/ラケルは子供たちのことで泣き、/慰めてもらおうともしない、/子供たちがもういないから》。

 

ここで登場する「ラケル」は、創世記に登場する女性の名前です。ラケルはイスラエル民族の祖ヤコブと結婚し(創世記291630節)、いわば、「イスラエル民族の母」と呼ぶことができる人物です。母という存在を象徴する人物として、ここでラケルの名前が出て来ているのでしょう。

戦争によって、愛する子どもたちが死んでしまった。または、遠い異国へと強制的に連行されてしまった。エレミヤが聴き取っているのはこの母親たちの悲痛な叫びです。母たちは子どもたちのことで泣き、もはや誰からも慰めてもらおうとはしません。愛する子どもたちがもういないからです。我が子を失った悲しみの中で、母親たちは他者から慰められることを拒みます。

 

かつてエレミヤが聴き取ったこの声は、いまも、私たちが生きる世界のあちこちで湧き上がっています。愛する存在との別れに激しく嘆き悲しむ声が至るところで上がっています。マタイが記す本日の幼児虐殺のエピソードは、それらの悲しみ、嘆きがまるで一つに凝縮されているような箇所であると受け止めることができるのではないでしょうか。

 

 

 

母マリアの悲嘆

 

 福音書の中で、私たちの悲しみや嘆きが一つに凝縮されていると感じる箇所がもう一つあります。それは、イエス・キリストの十字架の死と埋葬の場面です。

 

イエスさまは無実であるのにも関わらず十字架刑に処せられ、悲惨な死を遂げられました。無残に傷つけられたイエスさまのご遺体は石の墓に納められました。母マリアはその様子を最初から最後まで、ずっと見守り続けていました。《ラマで声が聞こえた。/激しく嘆き悲しむ声だ。/ラケルは子供たちのことで泣き、/慰めてもらおうともしない、/子供たちがもういないから》。エレミヤが聴き取った悲嘆の声は、母マリアご自身の声となりました。

 

埋葬が終わった後、のこされた女性たちが墓の方を向いて、ぼう然と座っている姿を福音書は記しています2761節)。嘆き悲しみの中で、誰の慰めの言葉も彼女たちには届かなかったことでしょう。もし唯一の慰めと希望があるのだとしたら、愛する人が戻って来てくれること以外にはありません。しかしそれは起こり得ないことを女性たちは知っていました。だから女性たちは、どんな慰めの言葉も拒み続けます。

 

 

 

現在のガザ地区の惨状

 

 先週の礼拝でもお話しましたように、本日の聖書箇所を読んで思い起こさざるを得ないのは、現在のガザ地区の惨状です。ガザ地区の保健省は、この度の戦争でこれまでにおよそ45000人以上の人々が殺されたと発表しています。その内、3割から4割が子どもです。消息不明者や関連死者数も含めると、全体の死者数はもっと多くなるとも言われています。

ラマで声が聞こえた。/激しく嘆き悲しむ声だ。/ラケルは子供たちのことで泣き、/慰めてもらおうともしない、/子供たちがもういないから》。かつてエレミヤがラマで聴き取った嘆き悲しみの声は、この1年間、ガザのあちこちで湧き上がり続けています。

これ以上、子どもたちのかけがえのない命が傷つけられ、失われることのないようご一緒に祈りを合わせたいと思います。戦争が一刻も早く停戦へと至りますように、ガザの人々に対する虐殺が一刻も早く中止されるよう、強く求めます。

 

 

 

隠された後半部の預言

 

マタイが引用しているエレミヤの預言には、続きがあります。マタイが引用しているのは半分だけであり、エレミヤ書の本文では次の言葉が続きます。

主はこう言われる。/泣きやむがよい。/目から涙をぬぐいなさい。/あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。/息子たちは敵の国から帰って来る。/あなたの未来には希望がある、と主は言われる。/息子たちは自分の国に帰って来る(エレミヤ書311617節)

 慰めと希望を語るこの後半部は、本日の聖書箇所であるマタイ福音書2章では記されていません。マタイは意図的に、この後半部はあえて記さず、前半部だけを記しているようです。

 

 この預言の前半部が記された後、次の19節からは、天使のお告げを受けて、ヨセフが幼子と母マリアと共にエジプトを出発し、ガリラヤのナザレに向かう場面が続きます。本日の聖書箇所ではいまだ「隠されている」後半部分の預言をこれから実現するために、イエスさまはエジプトから出発されたのだと受け止めることができるでしょう。

 

 旧約聖書では「出エジプト」という大切な出来事が語られています。エジプトで奴隷状態であったイスラエルの民を、神がモーセを通して解放してくださった出来事です。マタイ福音書の著者マタイは、エジプトから脱出した幼子イエスのお姿を通して、これから「新しい出エジプト」が起ころうとしているのだと伝えようとしていることが分かります。マタイによる福音書がこれから記していくのは、その「新しい出エジプト」の出来事です。

 

 

 

復活の朝

 

 マタイによる福音書の最後を締めくくるのは、復活の出来事です28110節)。十字架の死から三日目の朝、女性たちはよみがえられたイエスさまご自身と出会います。愛する人が、戻ってきた。自分たちのもとに帰って来てくださったのです。《すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した9節)

 

復活の朝の光の中で、女性たちはしっかりとイエスさまの足を抱きしめます。そうして、イエスさまが確かによみがえられたことを確かめました。この時、エレミヤの預言の後半部が遂に実現しました。《主はこう言われる。/泣きやむがよい。/目から涙をぬぐいなさい。/あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。/息子たちは敵の国から帰って来る。/あなたの未来には希望がある、と主は言われる。/息子たちは自分の国に帰って来る》。マタイ福音書の根幹にあるのは、この復活のキリストへの信仰です。天にいる者も、地にある者も、このキリストの復活の命に共に結び合わされています。

 

 

 

暗闇の中に輝く光

 

先ほど、現在のパレスチナの惨状について触れました。私たちの生きる世界では、悲惨な出来事が後を絶ちません。私たちの内にあるのは、ラケルの嘆きです。私たちの生きる世界においては、預言の後半部分はいまだ隠されたままのように思えます。私たちの目には、人々の悲嘆の声を記すエレミヤの預言の前半部分だけしか見えません。それが、いまを生きる私たちの率直な想いなのではないでしょうか。

マタイ福音書が証しする預言の後半部分を、私たちはいかにしたら見ることができるのでしょうか。暗闇の中に輝く光を、共に見ることができるでしょうか。どうぞ復活のキリストご自身が、私たち一人ひとりの心に語りかけてくださるよう切に祈るものです。私たちが心の目を通して、キリストの復活の光を共に仰ぎ見ることができますように。

 

 

泣きやむがよい。/目から涙をぬぐいなさい》、この慰めと希望の言葉が、いま困難や悲しみの中にある一人ひとりのもとに届けられますようにと願います。