2025年2月16日「律法を完成するために」
2025年2月16日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:イザヤ書30章18-21節、テモテへの手紙一4章7節(後半)-16節、マタイによる福音書5章17-20節
岩手地区2.11集会(信教の自由を守る集会)
先週の2月11日(火)の午後、奥羽キリスト教センターを会場として岩手地区2.11集会(信教の自由を守る集会)を開催しました。2月11日は建国記念の日ですが、私たちが属する日本キリスト教団では信教の自由を守る日としています。
講師にお招きしたのは川崎正明先生。川崎先生は日本キリスト教団の牧師であり、公益社団法人 好善社理事、「塔和子の会」代表でいらっしゃいます。ちょうど集会前日に88歳の米寿になられたということで、オンラインではなく、大阪の豊中市からはるばる盛岡までお出でくださいました。
講演題は「人間の尊厳を問う――「生きた証」としてのハンセン病文学」。昨年開催された教区の「差別問題学習会」を受けて、岩手地区でもハンセン病について学ぶ機会を持とうということで企画されました。
ハンセン病は、抗酸菌の一種である「らい菌」によって生じる慢性の感染症です。感染の結果、末梢神経と皮膚に症状が出て、二次的に筋委縮や運動障害などが生じます。病気が進行すると、顔や手足に変形が残ることがあります。ハンセン病は現在では治療法が確立されており、治る病気となっています(参照:好善社website「ハンセン病とは―ハンセン病の正しい理解」、https://kozensha.org/hansen.html)。
東北では宮城県に国立ハンセン病療養所「東北新生園」があり、青森県に「松丘保養園」があります。松丘保養園には教会(単立・キリスト教松丘聖生会)があり、花巻教会の有志の皆さんで以前に訪問をしたこともありました。川崎先生も今回、盛岡にいらっしゃる前に宮城の東北新生園を訪ねられ、集会が終わった後に松丘保養園を訪問されたとのことです。訪問するのはこれが最後となるというお気持ちでこの度来てくださったと伺いました。
塔和子さんの詩『胸の泉に』
川崎先生はご講演で、ご自身のこれまでのハンセン病とのかかわり、また特に「生きた証」としてのハンセン病文学についてお話しくださいました。ハンセン病文学とは、ハンセン病療養所で生活する人々が紡ぎ出した文学作品(詩歌、小説、戯曲、随筆、評論)のことを言います。川崎先生はこれらの文学作品を「生きた証」として、たくさんの作品をご紹介くださり、作者の方々との思い出をお話しくださいました。
川崎先生の人生にとても大きな影響を及ぼす作品となったという、塔和子さんの詩『胸の泉に』をご紹介したいと思います(詩集『未知なる知者よ』より)。皆さんの中でもこの詩をご存知の方がいらっしゃるかもしれません。塔和子さんは瀬戸内海のハンセン病療養所「大島青松園」(香川県)で生活をしていらっしゃった方です。
《かかわらなければ
この愛しさを知るすべはなかった
この親しさは湧かなかった
この大らかな依存の安らいは得られなかった
この甘い思いや
さびしい思いも知らなかった …》。
このような言葉でこの詩は始まります。人は人とかかわることによって様々な思いを知り、かかわることで、幸せなことも不幸なことも経験する。それらを積み重ねることで人は大きくなり、繰り返すことで磨かれてゆく。詩は次の言葉で締めくくられます。
《ああ
何億の人がいようとも
かかわらなければ路傍の人
私の胸の泉に
枯れ葉いちまいも
落としてはくれない》。
川崎先生はこの詩の最後の6行に衝撃を受け、以来、塔和子さんと深い交流を始めてゆかれたそうです。川崎先生にとって、この6行は「いのちの尊厳を問いかける言葉」として、その心の内に響き続けているとのことでした。機会がありましたら、皆さんもぜひ塔和子さんの詩集を読んでみてください。
また、これからご一緒にハンセン病とその歴史について理解を深めてゆければと思います。松丘保養園もご一緒に訪問することができればと思っています。
律法の根底に流れている精神 ~神への愛と隣人への愛
メッセージの冒頭で、マタイによる福音書5章17-20節をお読みしました。その中に、「律法」という言葉が何度も出てきました。律法とは、旧約聖書(ヘブライ語聖書)に記された神の掟のことを言います。ユダヤ教では伝統的に、聖書には613の律法が記されているとしています。キリスト教では、律法の文言の一つひとつをもはや文字通りに守ることはしていません。信仰の重点が「律法を遵守する」ことから「イエス・キリストを信じる」ことへ移っているからです。しかしだからといって、律法を軽んじているわけではありません。掟の一つひとつをもはや文字通りに実行はしていなくても、その根底に流れている精神をいまも大切に受け継いでいます。
律法の根底に流れている精神とは何でしょうか。それは、神への愛と隣人への愛です。神さまを愛することと、隣人を自分のように愛すること。この二つが、律法の根底にあるもの。このことは、イエス・キリストご自身が教えてくださっていることです。イエスさまは最も重要な掟として「神を愛する掟」(申命記6章5節)と「隣人を愛する掟」(レビ記19章18節)を挙げられ、律法全体はこの二つの掟に基づいていることを教えてくださいました(マタイによる福音書22章37-40節)。
律法は、神さまへの愛と隣人への愛に基づいて記されているものである――そのように受け止め直してみると、時に遠い存在のように思われる旧約聖書の律法も、私たちにとって身近なものとして感じられるのではないでしょうか。
《最も小さな掟》に心を向ける
改めて、本日の聖書箇所をお読みしたいと思います。マタイによる福音書5章17-19節《わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。/はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。/だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる》。
ここでイエスさまは、ご自分が来たのは律法を「廃止するため」ではなく、「完成するため」であるとおっしゃっています。律法の根幹にある神への愛と隣人への愛を完成させるため、私たちのもとへ来られたと語っておられるのです。
このマタイ福音書の言葉の中で、注目したい表現があります。18節《すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない》の中の《一点一画》という表現です。ここでの《一点一画》の「一点」は、ヘブライ語のアルファベットの「ヨード」という文字が、「一画」は「ヴァウ」がイメージされているようです。どちらも細かな文字ですが、とりわけ前者の「ヨード」はアルファベットの中で最小の文字です。小さな点のような形状で、うっかり見落としてしまいそうですね。イエスさまはここで「ヨード」という小さな文字を取り上げることを通して、律法の中でも見落とされがちな《最も小さな掟》(19節)に心を向けることの大切さを伝えてくださっているのだと本日はご一緒に受け止めたいと思います。

小さくされている人々の存在に心を向ける
律法の中でも見落とされがちな《最も小さな掟》とは何だったのでしょうか。それは、社会の中で最も弱い立場に置かれている人々――言い換えると、「小さくされている」人々――を対象とする律法であると言えるのではないでしょうか。
旧約聖書には「貧しい人」「寄留者」「孤児」「寡婦」と呼ばれる人々が登場します。古代イスラエルの社会においては、「奴隷」とされた人々の他に、最も弱い立場に立たされていたのがこれらの人々でした。旧約聖書には、弱い立場にある人々の代表として、これらの人々が繰り返し登場しています(ゼカリヤ書7章10節、ヨブ記31章13-23節など)。律法には、これらの社会的に弱い立場にある人々をいかに守るかという具体的な教えが記されています。
例として、申命記に記された律法をお読みいたします。《寄留者や孤児の権利をゆがめてはならない。寡婦の着物を質に取ってはならない。/あなたはエジプトで奴隷であったが、あなたの神、主が救い出してくださったことを思い起こしなさい。わたしはそれゆえ、あなたにこのことを命じるのである》(申命記24章17、18節)。
《寄留者》とは、自分の氏族や部族以外の土地で生活する人々のことを指します。寄留者は自分の土地を持たず、自分の権利を主張できない、弱い立場にありました。同様に、《孤児》《寡婦》も古代イスラエル社会において弱い立場にありました。いま引用した律法ではこれらの社会的に弱い立場にある人々の「権利をゆがめてはならない」との警告がなされています。社会的に弱い立場に追いやられているという点においては、異邦人(ユダヤ人以外の人)、病気の人、障がいをもった人もそうであったでしょう。
これらの弱い立場にある人々への配慮を教える律法(人道的な律法とも呼ばれます)は、社会の中で見落とされがちであったのではないかと思います。弱い立場にある人々の存在自体が、多くの場合、社会から見えなくてしまっているものだからです。また、これらの律法は時に、共同体から「取るに足らない掟」「小さな掟」と見なされることもあったかもしれません。
それはいまの私たちの社会も同様でありましょう。いまの私たちの社会においても、時に、弱い立場にある人々への配慮が軽んじられることがあります。いや、むしろ年々、国内外でそのような傾向が強くなっているように感じられます。アメリカのトランプ大統領が次々と出す極端な政策は、まさにそのような不寛容な社会の在り方を象徴しているかのようです。
そのような中、本日の聖書箇所において、イエスさまは《最も小さな掟》をこそ重んじるようにと教えてくださっています。最小のアルファベットの「ヨード」のような、《最も小さな掟》に心を向けること。社会から弱い立場に追いやられ、小さくされている人々の存在にこそ心を向けるべきことを教えてくださっています。それが、隣人を愛することにつながっています。
そしてそれは、他ならぬイエスさまご自身が実行してくださったことでした。イエスさまは生前、弱くされ小さくされた人々を自ら訪ね、その痛みを癒し、その尊厳を取り戻すべく働いてくださいました。そうして、神への愛、隣人への愛――律法の精神を完全なかたちでこの世界に現わしてくださいました。ですので、イエスさまはこうおっしゃっています。《わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである》(17節)。
神への愛と隣人への愛を貫かれたイエスさま
本日はメッセージの前半ではハンセン病について、岩手地区2.11集会の川崎正明先生のご講演の内容についてご紹介しました。メッセージの後半では律法についてお話しました。このこととの関連で、最後に、律法の枠をも超えたイエス・キリストの行動について述べておきたいと思います。イエスさまがある町におられたときの出来事です。
《イエスがある町におられたとき、そこに、全身重い皮膚病にかかった人がいた。この人はイエスを見てひれ伏し、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願った。/イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去った》(ルカによる福音書5章12、13節)。
《重い皮膚病》と訳されているのは、原語のギリシャ語では「レプラ」という語です。このレプラは、ヘブライ語の「ツァラアト」の訳語です。キリスト教はこれまでの歴史においてこの「レプラ/ツァラアト」を、ハンセン病を指すものと見なしてきました。私たちが現在礼拝で用いている新共同訳聖書も当初は《重い皮膚病》ではなく《らい病》と訳していたのをご記憶の方もいらっしゃることと思います。これらの聖書の記述がハンセン病と結び付けられることによって、ハンセン病患者を共同体の外へと排除する構造が補強されていった歴史があります。日本でも、ご存知の通り、1907年に「らい予防法」が制定され、1996年に廃止されるまでの1世紀近くにわたり、ハンセン病患者の方々が強制隔離されてきた歴史があります。
現代においては「レプラ/ツァラアト」をハンセン病に限定して解釈するのは誤りであったことが分かっています。新共同訳聖書は1997年4月から表記を《らい病》から《重い皮膚病》へ変更しています。《重い皮膚病》という訳語に変えたことで、ハンセン病に限定して理解されることはなくなった一方で、《重い皮膚病》という訳語はやはりハンセン病を連想させるという意見、また、《重い皮膚病》というより広がりのある訳語によって、様々な皮膚の病気を抱える人を新たに傷つけてしまう可能性を危惧する意見も生じることとなりました。これらのことを踏まえ、2018年に発行された聖書協会共同訳聖書では、「レプラ/ツァラアト」を《規定の病》と訳出しています。
旧約聖書の律法には、「《規定の病》に冒された者である」と宣言された人は、祭儀的に「汚(けが)れた」者として、共同体から隔離されねばならないと定められています(レビ記13章45-46節)。《規定の病》を発症したゆえに「汚れた」存在として共同体の外に隔離され、社会とのつながりが断ち切られた苦しみは、いかばかりのものであったでしょうか。《規定の病》を発症した人々は、まさに、小さくされ、社会から見えなくされていた人々でした。
しかし、イエスさまは、《規定の病》を患う人に対して、距離を取ることをなさいませんでした。逆に、その人に手を差し伸べ、その体に触れてくださいました。その人を抱きしめ、癒やし、神の目に尊厳ある存在であることを伝えてくださいました。神の国の福音を現わしてくださいました。このように、福音書は、イエスさまが時に律法の定めをも超えて、人々とかかわってくださったことを伝えています。これは、律法を軽んじていたからではなく、隣人への愛を徹底して貫いてくださった結果であったのでしょう。イエスさまはそのようにして、律法の精神を完全な形で私たちの間に現わしてくださったのです。
弱くされ小さくされている人々の存在に心を向け、神さまへの愛と隣人への愛を貫かれたイエスさまのお姿をいま、共に心に刻みたいと思います。