2025年2月2日「神殿の境内での出来事」
2025年2月2日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:創世記28章10-22節、使徒言行録7章44-50節、マタイによる福音書21章12-16節
「神殿の境内での出来事」
神殿の境内での出来事
本日の聖書箇所マタイによる福音書21章12-16節は、イエス・キリストが神殿において売り買いをしていた人々を追い出したり、両替人の台や商人のイスをひっくり返されたという、いわゆる「宮きよめ」と呼ばれている場面です。
この神殿の境内での出来事示すイエス・キリストのお姿は、私たちにとって意外に感じられるもの、場合によっては少し戸惑ってしまうものであるかもしれません。イエスさまといえば、いつも穏やかに微笑んでいる、そういうイメージでいる方もいらっしゃるでしょう。本日の聖書箇所は、そのような優しいイエスさまのイメージとはまた異なる、厳しいイエスさまの一面を描き出しています。
エルサレム神殿と幾重もの「壁」
本日の出来事の舞台になっているのはエルサレムの中心にある、エルサレム神殿です。このエルサレム神殿は、いまは現存していません。紀元70年、ユダヤ戦争の際にローマ軍によって破壊されてしまいました。外壁だけは現存しており、その西側の部分は「嘆きの壁」と呼ばれ、ユダヤ教徒の方々の祈りの場となっています。
イエスさま一行がエルサレムにやってきたときは、まだ神殿は存在していました。紀元前20年からヘロデ大王による大規模な修繕と拡張工事が始められており、神殿はいっそう壮麗な姿を見せていたことでしょう。スクリーンに映しているのは、イエスさまが生きておられた当時のエルサレム神殿を復元した模型です。
当時、神殿の外側は、防御のための高い「壁」で囲まれていました。ヘロデ王による拡張工事によって造られた石垣です。その外壁の一部として残っているのが、「嘆きの壁」です。
神殿の門をくぐると、まず「異邦人の庭」と呼ばれる広い外庭がありました。全体の広さの三分の二を占める、広い庭であったそうです。「異邦人」は聖書特有の言葉で、ユダヤ人以外の人々を指す言葉です。異邦人の庭にはユダヤ教徒のみならず、外国の人々も入ることができました。
この異邦人の庭では、巡礼者を対象とした犠牲の献げ物の売り買いやお金の両替がなされていました。たくさんの人で賑わっていたことでしょう。イエスさまが「宮きよめ」をなされたのはこの異邦人の庭においてであると考えられます。
異邦人の庭から2.4メートルほど高くなったところに「女性の庭」と呼ばれる回廊がありました。このスペースには外国の人々は入ることはゆるされていませんでした。ユダヤ人と外国人との間に、はっきりとした線が引かれていたのです。その境目には看板が立てられ、「異邦人であってその垣を超えるものは死をもって罰せられる」と記されていたそうです(参照:『新共同訳 聖書辞典』、キリスト新聞社、1995年)。そこには、ユダヤ人と外国人とを分け隔てる、高い「壁」がありました。
女性の庭の内側には「男性の庭(イスラエルの庭)」と呼ばれるスペースがあり、ユダヤ教徒の男性しか入ることはゆるされていませんでした。女性は入ることはできず、また病いや障がいをもっている人も入ることはできませんでした。ここにも、目には見えない、高い「壁」があります。
男性しか入ることができない男性の庭のさらに内側には「祭司の庭」があり、そこには祭司たちしか入ることがゆるされていませんでした。ここにも、目には見えない「壁」があります。さらにその奥の神殿の「至聖所」には、大祭司と呼ばれる宗教上のトップの人物しか入ることができませんでした。この至聖所に、神が現臨すると考えられていました。
幾重もの「壁」が築かれている現状
このように、当時のエルサレム神殿には、目には見えない幾重もの「壁」が張り巡らされていたことが分かります。そしてそれは、当時のイスラエル社会の構造そのものを、象徴的に表わしている、ということができるでしょう。
当時のイスラエル社会は、幾重もの「壁」が築かれた構造になっていました。ユダヤ人とそうではない人々とを分け隔てる「壁」。男性と女性を分け隔てる「壁」。健康な人と、病いや障がいをもっている人を分け隔てる「壁」。祭司と一般の信徒を分け隔てる「壁」。そして、神と人を分け隔てる「壁」……。民族や宗教、性別、心身の状態、職制等によって、人を分け隔ててしまっている構造がここには見受けられます。
当時の人々からするとその区別は先祖伝来の伝統であり――そしてそれは旧約聖書(ヘブライ語聖書)の律法に由来しています――、「当然」のこととして受け止められていたのかもしれませんが、現代の私たちの視点からすると、差別になり得るものだと言えるでしょう。
もちろん、これらはあくまで今から2000年前のイスラエル社会の状況であり、現在のユダヤ教内においては、たくさんの方々が差別や不平等の撤廃を求めて活動しておられます。
イエスさまが生きておられた当時、人々は、それが「当たり前」であると考えていたかもしれません。これが現実なのだからとあきらめていたかもしれません。けれども、イエスさまは違いました。イエスさまはエルサレム神殿の境内に入られた時、この幾重もの「壁」の存在を悲しまれ、憤られたのではないかと想像します。
イエスさまが宣べ伝えてくださっている神の国においては、「壁」は存在しないからです。神の目から見て、一人ひとりの存在が、価高く貴いのだということ。これが、イエスさまが伝えてくださっている真理です。神さまの家に、すべての人が、等しく、招かれている、そこに例外はない――イエスさまはそのことを確信していらっしゃったのではないでしょうか。だからこそ、エルサレム神殿の現状はイエスさまに悲しみを与え、憤りを感じさせるものであったのではないかと想像します。
政治的・宗教的な指導者たちが民衆を搾取している現状
神殿を訪れて、もう一つ、イエスさまが悲しまれ、憤られたことがありました。それは、政治的・宗教的な指導者たちが、巡礼に来る民衆から金銭を搾取して多大な利益を得ている現状でした。
先ほど、「異邦人の庭」と呼ばれる広い外庭には巡礼者を対象とした犠牲の献げ物の売り買いやお金の両替がなされていた、ということを述べました。
巡礼者は犠牲の献げ物を購入し、それを神殿に献げるということをしました。神さまに犠牲の献げ物をするということ自体は律法に記されている大切な掟でした。問題は、当時の宗教的・政治的な指導者たちが、犠牲の献げ物の売り買いを通して、莫大な利益を得ていたという点です。神殿のシステムを利用して、自分たちの利益を得ていた現状があったのです。
その中心に位置していたのが、最高法院(サンヘドリン)というユダヤ人の自治機関でした。最高法院は70人の議員で構成され、神殿の「石切の間」と呼ばれる場所で議会が開催していました。議長は大祭司。議員として祭司長、長老、律法学者と呼ばれる人々が加わっていました(参照:山口雅弘先生『イエス誕生の夜明け ガリラヤの歴史と人々』、日本キリスト教団出版局、2002年)。後にイエスさまは十字架刑に処せられますが、その策略が練られたのがこの最高法院でした。
犠牲の献げ物をささげることはユダヤ教徒の務めとされていましたので、経済的に困窮している人々も、無理をして犠牲の動物を購入していました。購入する際には神殿でのみ通用する硬貨にお金を両替しなければなりませんでしたが、その際も手数料を取られたようです。
「祈りの家」であるはずの神殿が、民衆から搾取する場となっていた現状がありました。そしてその神殿の現状もまた、イスラエル社会そのものの在り様を象徴していました。当時のイスラエルの社会の構造全体が、そのように民衆から搾取をする構造となっていました。当時、ユダヤの人々には、何重もの税が課されていました(先週1月26日の礼拝メッセージも参照)。貧しい者はますます貧しくなり、富める者はますます豊かになってゆく、その不公正な構造の中心にあるのが、エルサレム神殿でした。これらのエルサレム神殿の現状も、イエスさまに悲しみを与え、憤りを感じさせるものであったであろうと想像します。
不当な搾取の構造に対する「否」
そうしてイエスさまが起こされたのが、あの行動でした。21章12節《それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された》。読み方によっては、イエスさまが怒りのあまり我を忘れて「暴れた」(!?)とも読める場面です。しかしそのような姿というのは、徹底した「非暴力」を説くイエスさまのメッセージとは異なるものです。この場面から、イエスさまが変革のための暴力行為を肯定されていたと読み取るべきではないでしょう。あくまで象徴的な行為として、これら一連の行為をなされた、と受けとめることができます。エルサレム神殿を中心とする不当な搾取の構造に対する「否」としての、象徴的な行為です。売り買いをしていた人々を追い出し、両替人の台やハトを売る者の椅子をひっくり返すという行為は、いまの社会の不公正な状況を「変えるべき」だというメッセージ、文字通り「ひっくり返すべきだ」という意思表示が込められているのだと受け止めたいと思います。
そうして、イエスさまはイザヤ書の言葉(56章7節)を引用しながら、おっしゃいました。《こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしている》(マタイによる福音書21章13節)。
もちろん、境内にいる人々はびっくりして、「何事か」とイエスさまに注目したことでしょう。マタイによる福音書は次のように続けます。《境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた》(14節)。
先ほど、「男性の庭」にはユダヤ教徒の男性しか入ることができず、女性、病いや障がいをもっている人は入ることはできなかったと述べました。ここでイエスさまのもとに集まって来た目の見えない人や足の不自由な人は、社会から周縁に追いやられ、弱い立場に追いやられていた人々、共同体が築いた「壁」に苦しんでいた人々でした。イエスさまの「宮きよめ」の行動の後、真っ先に集められたのが病いや障がいをもっている人々であったというのも、大切な意味を持っているのではないでしょうか。イエスさまが宣べ伝える神の国においてはすべての壁は打ち壊されて、いまや、すべての人が神さまのもとに招かれています。
他方、騒ぎを聞きつけ、神殿の中の指導者たちもイエスさまのもとに駆け付けてきました。
《他方、祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、境内で子供たちまで叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て、/イエスに言った。「子供たちが何と言っているか、聞こえるか。」イエスは言われた。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」》(15、16節)。
ここで、子どもたちが登場します。イエスさまがなさった不思議な業を見て、子どもたちまでが「ダビデの子にホサナ」とたたえました。子どもたちもまた、社会的には弱い立場の存在です。共同体の中では最も小さな存在である子どもたちがここで登場していることにも大切な意味があるでしょう。
祭司長や律法学者たちはその様子に腹を立て、イエスさまに、「子どもたちが何と言っているか、聞こえるか」と言うと、イエスさまは詩編の言葉(8編3節)を引用して、《聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか》とお答えになりました。
福音書の中には、イエスさまが子どもを祝福する場面(マタイによる福音書19章13-15節)が記されていますが、それをも思い起こさせる場面です。「宮きよめ」というイエスさまの厳しい一面が描かれた後、子どもたちが登場し、また柔和なイエスさまに戻ったかのようです。
神さまの真理と正義
本日はご一緒に「宮きよめ」の場面を読みました。この場面が描き出す、イエスさまの厳しい一面にも触れました。ここでのイエスさまの厳しさとは、人間の尊厳がないがしろにされている状況を決して容認しない(見過ごしにはなさらない)という厳しさであるのだと本日はご一緒に受け止めたいと思います。イエスさまは不正義――すなわち、人々の尊厳がないがしろにされることに対しては、厳しく対峙されました。
イエスさまが私たちに伝えて下さっている真理とは、「神さまの目から見て、一人ひとりが、価高く、貴い」ということです。一人ひとりに、等しく、神さまからの尊厳が与えられているということです。
そして、イエスさまが伝えて下さっている正義とは、「神さまは、尊厳をないがしろにする行為を決しておゆるしにならない(見過ごしにはなさらない)」ということです。その神の正義に基づき、イエスさまは尊厳をないがしろにする力に対し、はっきりと「否」とおっしゃってくださいました。そうして具体的な行動を起こしてくださいました。内心でそう思っているだけではなく、はっきりと声を上げ、意思表示をしてくださったのです。
私たちの近くに遠くに、尊厳がないがしろにされている状況があります。また、私たちの社会には、人と人を分け隔てる幾重もの「壁」があります。「壁」をなくすのではなく、むしろ新たに「壁」を築いていこうという動きも内外で見られます。このような現状を目の前にして、私たちはいま改めて、イエスさまのお姿に学ぶことが求められているのではないでしょうか。
どうぞ私たちが神の国の福音に立ち帰り、神さまの真理と正義に基づいて、一人ひとりがまことに尊重される社会を築いてゆくことができるようにと願います。