2025年3月2日「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」
2025年3月2日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:イザヤ書30章8-17節、使徒言行録12章1-17節、マタイによる福音書14章22-36節
先週より、大船渡市で大規模な山林火災が発生しています。皆さんも大変心配していらっしゃることと思います。一刻も早く延焼が止まりますように、避難している皆さんの安全が守られますよう祈ります。
大船渡教会の村谷正人先生から、地区の牧師にも連絡がありました。教会の関係施設「さんりく・こすもす」のグループホームと共生型施設の隣の地区に避難指示が出されており、利用者と職員の方々は現在教会に避難しているとのことです。
皆さまの安全が守られますよう、引き続きご一緒に祈りを合わせたいと思います。
湖の上を歩くキリスト
先ほどご一緒に本日の聖書箇所であるマタイによる福音書14章22-36節をお読みしました。イエス・キリストが荒ぶる湖の上を歩いて行かれたという箇所です。よく知られた場面であると同時に、どのように受け止めたら良いのか難しい場面でもあります。この不思議な出来事は、いまを生きる私たちにどのようなことを語りかけているでしょうか。本日はそれをご一緒に聴き取ってゆきたいと思います。
物語の舞台となっているのは、パレスチナの北部にあるガリラヤ湖という湖です。ガリラヤ湖は上空から見ると楽器の竪琴(ハープ)のようなかたちで、南北に21キロメートル、東西に13キロメートルの大きさです。湖のまわりには町が点在しており、人々は舟にのって町から町へ移動をすることができました。
本日の聖書箇所の直前には、よく知られた五千人に食べ物を与える出来事が記されています。その出来事の後、すぐにイエスさまは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸に向かわせた、とマタイ福音書は記します(22節)。一方、イエスさまご自身は舟には乗らず、祈るために山にお登りになりました。
辺りが薄暗くなり、夕方になっても、イエスさまはただひとりそこにおられました(23節)。そのころ、弟子たちの乗った舟はすでに陸から数百メートル離れており、逆風のために波に悩まされていました(24節)。
ガリラヤ湖は地形の構造上、陸の方から突風が吹きつけて来ることがあったそうです。弟子たちが舟で向かっていたのは、ちょうどその突風が吹いて来る方向であったのでしょう。漁師であったペトロたちといえども、その逆風は如何ともしがたかったようで、長い間舟を漕ぎ悩んでいました。
福音書の中には、本日の箇所と同じように、舟に乗った弟子たちが嵐に遭遇する場面が出てきます(マタイによる福音書8章23-27節)。その場面ではイエスさまも舟に同乗されており、弟子たちは舟の後ろの方で眠っておられるイエスさまに助けを求めることができました。しかし本日の場面では、イエスさまはいまだ陸地におられ、弟子たちと一緒にはおられません。弟子たちはイエスさまに助けを求めるということは考えられず、何とか自分たちの力で苦境から脱しようとしていました。
夜が明ける頃、イエスさまは弟子たちの方へ向かわれました。弟子たちは逆風と夜通し格闘して、疲れ切っていたことでしょう。イエスは湖畔の陸地ではなく、湖の上を歩いて弟子たちのもとへと向かわれた、と福音書は記します。弟子たちはイエスさまが湖の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、叫びました。《夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。/弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。/イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」》(マタイによる福音書14章25-27節)。
イエスさまは狼狽する弟子たちに向かってお語りになりました。《安心しなさい。わたしだ。恐れることはない》。「安心しなさい」は、「勇気を出しなさい」とも訳すことのできる言葉です。「安心しなさい。勇気を出しなさい。わたしだ。恐れることはない」とイエスさまは弟子たちに語りかけてくださいました。
イエス・キリストの「道」 ~荒ぶる海のただ中に
イエス・キリストが湖の上を歩く本日の場面は、これまで絵画のモチーフともされてきたものです。福音書を読むと、イエスさまは静かな湖面ではなく、逆風によって荒れた波の上を歩いてゆかれたことが分かります。荒波のただ中をイエスさまが歩いてゆかれると、そこに「道」が生じていったのです。
このイメージから私が連想したのは、旧約聖書(ヘブライ語聖書)の出エジプト記の「葦の海の奇跡」(出エジプト記14章21、22節)の場面です。映画『十戒』でもよく知られている、モーセが手を海に向かって差し伸べると、海が割れて道が出現するという場面です。モーセとイスラエルの人々は、海の中に出現したその道を渡り、エジプト軍の追跡から逃れることができました。イエスさまが湖の上を歩かれるお姿には、イスラエルの人々が大切にし続けてきたこの「葦の海の奇跡」の出来事が重ね合わされていると受け止めることができるようにも思います。イエスさまが歩いて行かれると、荒ぶる海のただ中に道が生じてゆきました。
神の国に至る道
イエスさまが切り開いてくださった道とは、どのような道でしょうか。それは、神の国(マタイ福音書では『天の国』)に至る道です。
神の国は、原語のギリシア語では「神のご支配」「神の王国」とも訳すことのできる言葉です。神の力、神の権威、またそして、神の願いが満ち満ちている場所が神の国です。
では、神さまの願いとは、何でしょうか。それは、「一人ひとりが、かけがえのない存在として重んじられ、大切にされること」であるとご一緒に受け止めたいと思います。神さまの目に価高く貴い(イザヤ書43章4節)私たち一人ひとりの生命と尊厳が、この世界において現実に大切にされること、これが神さまの願いです。その神さまの願いが、イエス・キリストを通して実現されている場、それが神の国であるのだと受け止めることができます。
本日の聖書箇所では、湖を渡りゲネサレトという土地に着いた後、イエスさまはこの神の国の福音を具体的な行動で現わしてくださっています。《こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いた。/土地の人々は、イエスだと知って、付近にくまなく触れ回った。それで、人々は病人を皆イエスのところに連れて来て、/その服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた》(34-36節)。
イエスさまはご自分のもとに駆け付けた人々の病いをみな癒されました。その苦しみを癒やし、一人ひとりが、神さまから見ていかにかけがえなく尊いかということを知らせてくださいました。神の国がいまここに到来していることを告げ知らせてくださったのです。
ペトロの応答
イエスさまが湖の上を歩いて弟子たちのところに来てくださった場面に戻ります。イエスさまが荒れた波間から、《安心しなさい。わたしだ。恐れることはない》と語りかけられると、弟子のペトロは答えました。《主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください》(28節)。たとえ逆風が吹き、目の前に荒ぶる波があったとしても、イエスさまのおられるところに行きたい、というペトロの願いが伝わって来るようです。イエスさまのおられるところに自分も行きたい。イエスさまの歩まれる道を、自分も歩みたい。
イエスさまが《来なさい》とおっしゃったので、ペトロは舟から降りて、水の上を歩き、イエスさまの方へ進みました(29節)。しかし、ふと強い風に気が付いて怖くなり、体が沈みかけてしまいます。ペトロが《主よ、助けてください》(30節)と叫ぶと、イエスさまはすぐに手を伸ばして捕まえてくださいました。《信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか》(31節)。二人が舟に乗り込むと、風は静まりました。
イエス・キリストの真実
《信仰の薄い者》というのは、マタイによる福音書特有の表現です。「信仰の小さい者」と訳すこともできます。「信仰がない」とは言われてはおらず、不安や恐れによって「信仰が小さくなっている」ということです。あなたに信仰がなくなったわけではない、ただ不安や恐れによって一時的に小さくなってしまっているだけだ。そのような前向きなメッセージとしても受け止めることができるでしょう。
ペトロがここで一時的に小さくしてしまっていたのは、神が共にいてくださること(インマヌエル)への信仰でした。ペトロは強い風と荒ぶる波による恐れの中で、その信頼を見失ってしまいました。しかし、イエスさまはそのペトロの傍らにいて、沈みそうになるペトロをしっかりと捕まえてくださいました。たとえ私たちがイエスさまを見失っても、イエスさまご自身は決して私たちを見失われることはない。イエスさまはまことに真実なるお方であることが語られています。神の国に至る道を歩むにあたり、このイエスさまの真実に対する信頼が大切であることをご一緒に心に留めたいと思います。
《安心しなさい。わたしだ。恐れることはない》
私たちは日々の生活の中で、私たちの信仰・信頼が小さくなってしまうような、様々な出来事に遭遇します。弟子たちが逆風と荒ぶる波に遭遇したように、私たちも様々な困難に遭遇します。
先ほど、神さまの目に価高く貴い私たち一人ひとりの生命と尊厳が、この世界において現実に大切にされることが神さまの願いであると述べました。私たちの世界には、生命と尊厳を軽んじる力、平和を損なう力もまた現実に働いています。それらの「逆風(強い風)」は私たちを恐れと不安の中に陥らせます。神の国の福音への信頼を見失わせ、私たちを不信や不安の波の中に沈ませてゆきます。私たちの信頼がどんどんと小さくされ、委縮されてゆくのは、それだけ悲惨な現実が、私たちの近くに遠くにあるということでもあるでしょう。
この逆風と荒ぶる波のただ中に、しかし、イエスさまは共におられます。荒れた波間から、「安心しなさい。勇気を出しなさい。わたしだ。恐れることはない」と語りかけてくださってます。ご自分のもとに《来なさい》と招いてくださっています。
イエスさまが歩まれる道を、私たちも共に歩むことが出来ますように。イエスさまへの信頼をもって、この困難な現実のただ中に、新たな一歩を踏み出すことができますようにと願います。