2025年4月13日「十字架と復活の道」

2025413日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:哀歌51522節、コリントの信徒への手紙一11825マタイによる福音書273256

十字架と復活の道

 

 

受難週、棕梠の主日

 

私たちはいま、受難節の中を歩んでいます。受難節は、イエス・キリストのご受難と十字架を心に留めて過ごす期間です。今週は受難節の最後の週の「受難週」に当たります。木曜日には洗足木曜日礼拝を行い、金曜日には受難日祈祷会を行う予定です。ご都合の宜しい方はどうぞご参加ください。そして420日(日)、私たちはイエス・キリストの復活を記念するイースター礼拝をおささげします。

 

受難週が始まる本日は、棕梠(しゅろ)の主日とも呼ばれます。棕梠は、ナツメヤシなどのヤシ科の植物のことです。本日は講壇の前にも棕梠を飾っていますね。イエスさまが十字架の道を歩まれるためにエルサレムに入城した時、大勢の人々がなつめやしの枝をもって迎えに出たという福音書の記述が由来となっています(ヨハネによる福音書121213節)。人々が棕梠の木の枝を手に「ホサナ(おお、救いたまえ!)」と歓声を上げる中、イエスさまが小さなロバ(子ロバ)に乗って入城してゆく場面はよく知られているものですね(同1315節)

 

エルサレムに入城したその数日後の金曜日、イエスさまは逮捕され、裁判にかけられることとなります。そうしてポンテオ・ピラトのもとに引き渡され、十字架刑に処せられることとなります。処刑が決定したイエスさまは鞭打たれ、茨の冠を頭に被せられ、十字架を背負ってゴルゴタの丘まで歩いてゆかれます。本日の聖書箇所マタイによる福音書273256節が記すのは、そのイエスさまの十字架の道行きの場面です。一つひとつの場面に限りのないメッセージが込められていますが、本日は特に、イエスさまが十字架の上で息を引き取られる場面にご一緒に心を向けてみたいと思います。

 

 

 

イエス・キリストの叫び ~「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」

 

イエスさまが十字架におかかりになって3時間ほどがたった昼の12時に、全地が暗くなり、それが3時まで続いたとマタイ福音書は記します2745節)。地上のすべてが闇となった。まるでこの世界から光が失われてしまったかのように。

そうして暗闇が世界を覆う中、三時頃に、イエスさまは大声で叫ばれました。《エリ、エリ、レマ、サバクタニ46節)。これは《わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか》という意味の言葉です。マタイによる福音書においては、これがイエスさまの最期の言葉となりました。

 

イエスさまが十字架上で最期に叫んだ言葉が、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉であった。これは見方によっては、ショッキングなことであるかもしれません。

 

この叫びは、さまざまな受け止め方ができることと思います。この叫びを文字通り「絶望の叫び」として受け止めることもできますし、そうではない受け取り方もできるでしょう。

 旧約聖書(ヘブライ語聖書)の詩編の中に、このイエスさまの叫びと同じ文言があります(詩編222節)。《わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。/なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか》。

イエスさまは十字架上で、この詩編の言葉を祈られたのだという受け取り方があります。詩編22編は嘆きの言葉から始まりますが、最後には神への信頼の言葉で終わります。このことから、イエスさまはこの詩編の冒頭を口にすることでむしろ神さまへの信頼の言葉を述べたのだ、という解釈です。想像を絶する心身の苦痛の中で、イエスさまは最期まで神さまへの信頼を失わなかった。大切な受け取り方であると思います。

 

また一方で、この最期の言葉を、絶望の叫びとして解釈することもできます。弟子たちから裏切られ、そして神ご自身からも「見捨てられた」と感じたイエスさまの、心からの叫びとして。これも、大切な受け取り方であるでしょう。

 

私たちもまた、生きている中で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫びたくなる瞬間を経験することがあります。困難の中で、「神に見捨てられた」と叫びたくなる時があるでしょう。イエスさまはご自身が「見捨てられた」と叫ばれることで、私たち一人ひとりの痛み苦しみと結び合わさってくださった――そう受け止めるとき、私たちは深い慰めを得ます。

 

 イエス・キリストの十字架上の言葉には、汲んでも汲み尽くせないメッセージが含まれています。どれか一つだけの解釈が正しいということではないでしょう。この十字架のキリストのもとに立つとき、それぞれが、その時にもっともふさわしいメッセージを神さまから与えられるのではないでしょうか。皆さんは今朝、十字架のキリストから、どのような語りかけを受けるでしょうか。

 

 少なくともはっきりと言えることは、イエスさまはこの十字架の道行きにおいて、真実に、苦しみを受けられたということです。身体的に、精神的に、イエスさまは想像を絶する苦しみを受けられました。イエスさまは何か脚本があるドラマの演者のようにして、受難の道を歩まれたのではありません。イエスさまは十字架への道を、まことに苦しみ、悲しみ、呻きながら、何度も倒れながらゴルゴタの丘まで歩かれ、そして十字架の上で激しい苦悶の末、息を引き取られたのです。

 

 

 

マタイ固有の記述 ~復活を示唆する出来事

 

イエスさまが息を引き取られた直後、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた、とマタイ福音書は記します。神殿というのは、エルサレム神殿です。続けて、マタイは印象的な場面を記します。他の福音書では描かれていない、マタイ固有の記述です。

 

51b53節《……地震が起こり、岩が裂け、/墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。/そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた》。

マタイによる福音書はここで、イエスさまが復活された時の出来事を記しています。墓穴をふさぐ石が裂けた、眠っていた死者がよみがえった……これらの不思議な出来事は、イエス・キリストの復活を示唆する出来事として受け止めることができます。マタイによる福音書は、イエスさまの十字架の死と同時に、復活を示唆する出来事を描き出しているのです。十字架の悲惨な死をはっきりと描きつつ、同時に、復活の光をマタイは懸命に指し示そうとしています。ここに、マタイによる福音書固有の、私たちへの重要なメッセージがあるように思います。

 

 

 

「この暗闇の先に、復活の主が待っておられる」

 

 2013年、私が花巻教会に赴任して1年目の年のことでした。岩手地区の牧師が集まる教師会で、先生方より震災直後のことをお伺いする機会がありました。私は震災が起こったときは東京におり、岩手で震災を経験したわけではありませんでした。こちらに来てから、さまざまな方から震災直後の様子をお聞きし、色々なことを学んでいます。

 

そのとき私がお話しをお聞きして強く心に残ったのは、その場にいた数人の先生が皆、震災直後に自分の心にあったのは「復活の主のお姿だった」とおっしゃったことでした。

福音書は十字架の死の後に、復活の場面を記します。お墓を見に来た女性たちの前に復活のイエスさまが現れ、彼女たちに伝言を託す場面が出て来ます。《行って、私の兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる2810節)

ガリラヤはイエスさまと弟子たちの故郷であると共に、イエスさまが弟子たちと初めて出会った場所であり、弟子へと招いてくださった場所です。いわば、弟子たちにとって、すべてが始まった場所、原点と呼べる場所です。「そのガリラヤに来なさい、そこで再び会おう」とイエスさまは弟子たちに約束をしてくださいました。

 

当時江刺教会の牧師であった邑原宗男先生は、震災の直後、沿岸部の道を支援物資を積んで車で走っていたとき、「ガリラヤで会おう」という復活のキリストの言葉をずっと思い続けていた、とおっしゃっていました。道路もいまだ整備されておらず、電灯も消えて真っ暗な中、車を走らせていたとき。非常に心細く、不安でいっぱいでいらっしゃったことと思いますが、この暗闇の先に、復活の主が待っておられる。先に、ガリラヤで待っていてくださる。この希望があったから頑張れた、とお話しくださいました。

 

東京にいた頃の私は、被災地の方々の苦しみに想いを馳せようとし、十字架のキリストのお姿をずっと心に思い描いていました。イエスさまのご受難、十字架の道行きを想っていました。けれども、津波の被害のただ中にいらっしゃった先生方は、十字架の主のお姿と共に、復活の主のお姿を想い、それを支えとしていたことを知りました。東京にいた自分と、岩手にいた先生方との間には意識の差、感じ方の相違があったのです。無知であった自分のことを顧みつつ、岩手に来たからこそ教えて頂けたエピソードとして、以来、ずっと大切に心に刻んでいます。

 

マタイによる福音書のメッセージも、このことと共通するものがあるように感じます。マタイによる福音書が十字架の死の場面の直後に、同時に、復活を示唆する出来事を加えたこと。それは、いまはどんな暗闇の中にいるようであっても、その先には復活の光があることを伝えたかったからではないでしょうか。どれほどの暗闇が私たちを覆っていても、その暗闇の先に、約束通り復活のキリストが待っていてくださる。この光こそは消えることのない光、私たちといつまでも共におられる「インマヌエル」なる光であることをマタイ福音書は伝えてくれています。

 

 

 

暗さから目を逸らすことなく、光を見失うことなく

 

この復活の命の光は、暗闇の中に輝いている光です。この光は、私たちの内外を覆う「暗さ」をはっきりと受け止めようとする中で、少しずつ見えてくる光であるのだと思います。

「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」――このイエスさまの叫びを受け止める中で、少しずつ見えてくる光。私たちの内外に、私たちの社会に満ちている「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」という叫びに心を開く中で、少しずつ、しかし確かに、私たちの心の目に見えてくる光です。

 

 

私たちは今週、受難週を過ごし、日曜日にイースターを迎えます。私たちの内外を覆う暗さから目を逸らすことなく、同時に、希望の光を見失うことなく、共に歩んでゆきたいと願います。