今週の礼拝メッセージ
2025年3月30日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:出エジプト記24章3-11節、ペトロの手紙二1章16-19節、マタイによる福音書17章1-13節
「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」
受難節第4主日礼拝
私たちは現在、教会の暦で受難節の中を歩んでいます。受難節はイエス・キリストのご受難と十字架を心に留めて過ごす時期です。本日は受難節第4主日礼拝をおささげしています。
礼拝の前奏が流れたとき、講壇の前に立てられている7本のロウソクの内、4本の火を消したのをお気づきになったでしょうか。これは消火礼拝と呼ばれ、講壇の前に立てられているろうそくの火を毎週一本ごとに消してゆくものです。アドベントのときは毎週一本ずつろうそくに火をともしてゆきますが、その逆ですね。今日は第4週目なので4本のろうそくの火を消しました。最終週の洗足木曜日礼拝の時、すべての火が消えることになります。
最後の晩餐の後、イエス・キリストを裏切るために外に出て行ったユダを、深い夜の闇が覆ったこと福音書は記します。《ユダはパン切れを受け取ると、すぐに出て行った。夜であった》(ヨハネによる福音書13章30節)。また、イエス・キリストが十字架に磔にされた際、全地を深い闇が覆ったことを福音書は記します。《昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた》(マルコによる福音書15章33節)。
この暗闇は、イエスさまご自身がそのご受難と十字架において経験された暗闇を表しています。またいま、私たちの社会を覆っている暗闇を表すものとしても受け止めることができるでしょう。私たちの社会には様々な苦しみ、悲しみ、痛みが満ちています。様々な困難な課題、不条理な現実があります。
28日に発生したミャンマーの大地震により、ミャンマーとタイの首都バンコクで甚大なる被害が生じています。まだ被害の全貌は明らかになっていませんが、ミャンマーでは1600人以上が亡くなったことが報道されており、大変心が痛みます。この度の地震を覚え、ご一緒に祈りを合わせたいと思います。
ウクライナ、ガザ地区ではいまも爆撃が続けられています。人々の生命と尊厳が奪われ、傷つけられ続けています。一刻も早く、恒久的な停戦へ至るように切に願います。
今日は今年度最後の礼拝でもあります。受難節のこの時、イエスさまのお苦しみに想いを馳せ、私たちの隣り人の苦しみに心を開いてゆきたいと思います。
山上の変容
本日の聖書箇所(マタイによる福音書17章1-13節)は、教会で伝統的に「山上の変容(主の変容)」と呼ばれている場面です。イエス・キリストがペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子たちと共に高い山に登られた際、そのお姿が変わり、真っ白に光り輝いたことを福音書は記します。《イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった》(17章2節)。この山上の変容の出来事は、正教会ではクリスマスやペンテコステと共に祭日のひとつとして祝われています。
イエスさまが弟子たちと共に登られた「高い山」がどの山であるのかははっきりとは分かりません。伝統的には、タボル山とされてきました。パレスチナにある標高575メートルのお椀型の山です。
山の上でイエスさまが光り輝く中で、《モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた》(3節)とも福音書は記します。モーセとエリヤは、旧約聖書を代表する人物です。モーセは律法を、エリヤは預言者(預言書)を象徴しています。
この驚くべき場面に立ち会っていたペトロたち。その彼らを突然、光り輝く雲が覆います。すると、《これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け》(5節)という声が雲の中から聞こえました。神さまの声です。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れを感じます。当然といえば当然の反応でありましょう。イエスさまは近づいて、彼らに手を触れて、おっしゃいました。《起きなさい。恐れることはない》(7節)。彼らが顔を上げてみると、そこには、いつも通りのイエスさまがおられました。
神の国の光
弟子たちが経験したこの「山上の変容」は、一体どのような意味をもっているのでしょうか。様々な解釈が可能であると思います。たとえば、イエスさまから発される光は、復活の光を私たちに先どって示すものであると受け止めることもできます。イエスさまのお体から発される光は、十字架の死の向こうから差し込む復活のキリストの光を示すものであったのだ、と。
また、この光は、生前のイエスさまが宣べ伝える「神の国」の光であると受け止めることもできるでしょう。本日は、この後者の意味でこの出来事を受け止めてみたいと思います。
神の国は、原語のギリシア語では「神のご支配」「神の王国」とも訳すことのできる言葉です。神の力、神の権威、またそして、神の願いが満ち満ちている場所が、神の国です。天にある神の国が、イエスさまと共にいま地上に到来しようとしていることを福音書は語ります(マルコによる福音書1章15節)。
すべてを包摂する光
改めて、マタイによる福音書17章2節をお読みいたします。《イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった》。ここで、イエスさまのお顔が太陽のように輝き、服が光のように白くなったと語られています。
「白」という言葉を聞いて、皆さんはどのようなイメージを想い浮かべるでしょうか。白には、たとえば純潔のイメージがあります。岩手の雪景色を思い浮かべる方もいらっしゃるかもしれません。
白色は、絵具の中ではさまざまな色の中の一つですが、光としての白はそうではありません。光としての白は、すべての色彩を内に含んでいます。プリズムに太陽の光を通すと、壁に虹のようなものが映ります。壁に映った色彩を見つめてみると、それは七色に限らず、グラデーションがあり、太陽光は波長の異なる様々な色から成り立っているのが分かります。
イエスさまが宣べ伝える「神の国」の光とは、このようなものであるのではないでしょうか。すべての色彩を内に含む光です。多様な、すべての色彩を内に含みながら、光が形成されている状態。そのように、神の国は、固有性をもったすべての存在を、そのものとして内に含んでいます。私たち一人ひとりの存在が確保され、かけがえのないものとして尊重されるとき、そこに神の国の光は出現します。イエスさまと共に到来する光は、すべてを包摂する光であるのだと、本日はご一緒に受け止めてみたいと思います。
私自身の経験 ~「十全なる世界の在り方」との出会い
昨年の11月、『違いがありつつ、ひとつ――試論「十全のイエス・キリスト」へ』(ヨベル)という本を出版しました。1月には花巻教会の皆さんに出版をお祝いする会を開いていただき、心より感謝申し上げます。タイトルともなっている「十全のイエス・キリスト」は、私の造語です。「十全」という語には、「ひとつの欠けもないこと」と「多様性がありつつ、ひとつであること」の意味を込めています。
この言葉を用いるようになったことには、私自身の経験がございます。本の「あとがき」でも記していますが、今から19年前、私が大学4年生の時でした。机に向かって考え事をしていた私は、ふと、誰かが心に語りかけてくれたように感じました。その言葉をあえて言葉にするなら、「良い」というひと言でした。「あなたが、あなたそのもので、在って、良い」――と、自分を超えた存在から語りかけられたように感じたのです。それが、「十全のイエス・キリスト」あるいは「十全なる世界の在り方」との出会いでした。
この「良い」という語りかけを通して、私は自分の存在そのものがまるごと肯定されたように感じました。心と体と魂のすべてを含めた私そのものが、いま、大いなる存在から祝福されている。「わたしは、わたしそのもので、在って、よいのだ」と思い至りました。
旧約聖書(ヘブライ語聖書)の創世記には、天地創造の際に、神さまがご自分の造られたひとつひとつの存在をご覧になって、「見よ、極めて良かった」(1章31節)とおっしゃったことが記されています。その「良い」という声が、いま、自分を包んでいるように感じました。また、その祝福の声は、私の周囲にあるひとつひとつの存在を包み込んでいました。
目の前の存在ひとつひとつが、それそのものとして輝いている。「いま」という瞬間が充溢し、自分も自分そのものとして、確かに「ここ」に在る――。
目の前の存在が「変容」し、新しい姿で立ち現れてくるその経験は、私にとって「新しい世界の見え方」として自覚されました。過去‐現在‐未来のひとつひとつの存在が「良い」ものとして祝福され、「いま」、そのものとして肯定されているこの在り方を、私は本の中で「十全なる世界の在り方」と呼んでいます。
そしてその時私が思い至ったことは、「イエスさまもこのように世界を認識していたのではないか」ということでした。天地創造の際の神さまと同じまなざしをもって、イエスさまは私たち一人ひとりを、被造物ひとつひとつを見つめておられたのではないか。私にとって、その経験は瞬間的なものでしたが、イエスさまはいつもそのように世界を見つめておられたのではないかと思い至りました。
そこから、私の「十全なる世界の在り方」の探求が始まりました。この経験を何とか言葉にしようと試行錯誤を繰り返し、ようやく完成したのがこの度の著作です。私にとって、十全なる世界の在り方は、神の国とイコールのものです。イエスさまは、この十全なる世界(=神の国)がすでに天にあるように、地上にも到来することを宣べ伝えてくださったのだと私は受け止めています。
神の国の光、キリストの光
生前、イエスさまは神の国の実現のために働いてくださいました。社会から見えなくされている人々のところに自ら赴き、その存在に光を当ててくださいました。そうして、そのご生涯の最期に、十字架のおかかりになり、三日目に復活してくださいました。私たちすべての者を復活の光で照らしてくださいました。それは私たちの内の誰一人、決して失われてしまうことがないためでした。
神の国の光、キリストの光は私たちの目には見えませんが、いつも私たちを照らしてくださっています。この光に包まれる中で、私たちは一人ひとり、かけがえのない(代替不可能な)存在とされています。
本日の聖書箇所の弟子たちのように、特別な神の啓示として経験することは私たちにはないかもしれません。しかし、ふとした瞬間、自分自身や隣にいる人がいとおしく感じる瞬間はあることと思います。目に映るひとつひとつの存在が、キラキラと光り輝いて――変容して――見える瞬間は日常的に経験していることと思います。そのとき、私たちは神の国の光、キリストの光に包まれています。私たちの内に、外に、この光は満ちています。私たちが気付いていないだけで、私たちはいつもこの光と共にあります。
《これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け》
本日の聖書箇所において、光り輝く雲に包まれながら、弟子たちは、《これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け》(5節)という神さまご自身の声を聴きました。イエスさまが「神の子」であることが改めて宣言され、「この神の子の言葉に聞け」と呼びかけています。
太陽の光は、波長の異なる様々な色を内包しています。多様な色彩を内に含むことで光は形成されています。そのように、私たち一人ひとりの存在が確保され、かけがえのないものとして尊重されるとき、そこに神の国の光は出現します。イエスさまは、神の国がすでに天で実現しているように、この地上でも実現することを祈り求めてくださいました。私たちはいま一度、イエスさまの声に、イエスさまの祈りに、心を向けることが求められているのではないでしょうか。
存在を「ない」ことにする力に抗って
私たちのいま生きる世界では、神の国の福音とは正反対の力が猛威をふるっています。それは、存在を「ない」ことにする力です。存在しているものを、あたかも「ない」ことにしようとする悪しき力が、私たちの近くに遠くに、働いてるように思います。
絵具で言うと、ある色とある色を無理やり混ぜ合わせて別の色を作とうとするような力、または、すべての色を無理やり一つの色に統一させようとする力です。私たち一人ひとりの存在の「かけがえのなさ(尊厳)」を奪おうとする力を、聖書は「悪霊」や「サタン」の名で呼びました。特にいま、パレスチナで、ガザ地区で、この存在を「ない」ことにする悪しき力が猛威を振るっています。パレスチナの人々の生命と尊厳を否定し、傷つけ続けています。
私たちはこの存在を「ない」ことにする力に対して、はっきりと「否」を突き付けてゆかねばなりません。この力は気が付くと私たちを取り込み、私たちをまどろみの中に入れようとします。私たちはこの力に取り込まれることなく、はっきりと目を覚ましていなければなりません。私たちにその力を与えてくれる源が、神の国の光、キリストの光です。 目には見えなくても、その光はいつも私たちと共にあります。
存在したものが、あたかも存在しなかったかのようにされてしまうことがないように、すべての存在がそのものとして存在し、これからも存在し続けることができるように、ご一緒に祈りを合わせてゆきたいと願います。