2017年1月22日「福音を土台として」
2017年1月22日 花巻教会 主日礼拝
聖書箇所:マタイによる福音書7章24-28節
「福音を土台として」
「山上の説教」の締めくくり ~「聞いて行う」ことの大切さ
お読みしました聖書箇所は、イエス・キリストの「山上の説教」の締めくくりの部分にあたります。「山上の説教」とは、山に登られたイエス・キリストが群衆と弟子たちに説いた様々な教えのことを言います、たとえば、《だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい》(マタイによる福音書5章39節)という言葉が有名ですね。 私たちが礼拝の中で毎週お祈りしている「主の祈り」が記されているのも、この山上の説教でした(マタイによる福音書6章9-13節)。「山上の説教」の締めくくりにあたる本日の聖書箇所では、それら教えを「聞いて行う」ことの大切さが再び確認されています。主イエスの教えを「聞く」だけにとどめておくのではなく、それらを実際に「実行する」ことの大切さが語られているのですね。
主イエスはご自分の教えを「聞いて行う」人のことを、固い岩の上に家を建てた人にたとえておられます。たとえ川があふれ風が吹いても、その家は倒れることはないのだ、と。確固とした土台があるからです。マタイによる福音書7章24-25節《そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。/雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである》。
対して、主イエスの教えを「聞く」だけにとどめて「実行しない」でいる人は、まるで砂の上に家を建てた人のようだと語られています。川辺の砂地に家を建ててしまった場合、川があふれ風が吹くと、その家はもろく崩れてしまいます。26-27節《わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。/雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった》。
ゴールデン・ルール ~人にしてもらいたいと思うことを、人にする
「聞いて行う」ことの大切さがここで再確認されているわけですが、一方で、山上の説教にはたくさんの教えが記されていますよね。それら一つひとつを実際に行おうとすると、かなり大変であるかもしれません。
さまざまなことが語られている山上の説教ですが、主イエスは、これら教えをある一言にまとめておられます。たくさんの教えを、一言でまとめると、次の言葉になる、というのですね。それは、《人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい》(マタイによる福音書7章12節)という言葉です。この言葉は、山上の説教の「まとめ」にあたる言葉であると言われています。
この言葉は、伝統的に、「黄金律(英語ではゴールデン・ルール)」と呼ばれてきました。ゴールデン・ルールとは、時代を超え、国境を超えて、すべての人に通用するルールのことを言います。自分が人にしてもらいたいこと、してもらってうれしいことを、積極的に人にもすること――確かに、このルールは、時代を超え、国を超え、すべての人に通用する事柄のように思えます。
「人にしてもらいたいと思うことを、人にする」。私たちがこの教えを人生の土台とし、このことを私たちが互いにいつも心がけることができているとしたら、確かに、私たちの社会は変わり始めるでしょう。
「ゴールデン」ルールが、「きれいごと」のルールへ…!?
一方で、最近の私たちの社会を見て思わされることは、もはやこのゴールデン・ルールが通用しなくなってきている現状がある、ということです。「人にしてもらいたいと思うことを、人にする」――すべての人にとって共通のルールであるはずのこのことが、必ずしもそうではなくなってきている。それは私たち日本の社会においてもそうですし、また世界的に見ても、そういう動きになっているのではないでしょうか。これまで私たちの社会の土台となってきていたもの、「正しいこと」とされていたものが、揺らぎ始めているのです。
私たちの社会には、さまざまな、皆で守ってゆくべき共通の規範があります。たとえば、「自分のことだけではなく他者を配慮しなければならない」「人権を重んじなければならない」「多様性を大切にしなければならない」……ということなのですね。私たちはこれまで、これら規範を黄金のように貴い、私たちの共通のルールとみなしてきたわけです。心の中では色々思うことはあったとしても、それが大切なものとみなすことには、共通の認識がありました。
しかし近年は、もはやそれら規範が、輝きを放つものとは見做されなくなってきたのですね。むしろ、その黄金の輝きは、偽りの輝きであるのではないか。ただの、「きれいごと」に過ぎないのではないか。そのような、あきらめにも似た、また怒りにも似た感情が噴出してきているように思います。
それまでは、心の中では色々思うことがあったとしても、口に出すことはしませんでした。あくまで自分たちは「理想」を重んじる態度を見せなければならないという良識が働いていたからです。しかし何かの拍子に一度そのタガが外れてしまうと、心の中に押し込めていた感情が次々と噴き出してゆくこととなります。「人にしてもらいたいと思うことを、人にしなさい」などいうのは結局「きれいごと」だ、それよりも、「人にしてもらいたくないことを、人にしてやりたい」(!)。ゴールデン・ルールとは正反対の感情が噴出してしまうわけです。「理想」や「きれいごと」を聞くのはもううんざりだ。それよりも、まず実際の自分の生活を何とかしてほしい。とにかく、いまの自分の生活には余裕がない。この生活が良くなってゆくのであれさえすれば、正直なところ、他の人のことはどうでもいい……。このような心情が、私たちの心のどこかに潜んではいないでしょうか。
一昨日、共和党のトランプ氏がアメリカの大統領に就任しました。トランプ氏はこのような私たちの心理を巧みに利用して、大統領の地位にまで登りつめたのだということができます。もちろん、アメリカの半数以上の人はトランプ氏を支持していません。一方で、かなりの数の人がトランプを支持しているのも事実です。
トランプ氏の基本的な姿勢というのは、「自分たちさえよければそれでいい」というものです。トランプ氏は「アメリカ・ファースト(米国第一主義)」を公言していますが、すべての国がその姿勢に徹してしまったら、国際情勢が混乱状態に陥るのは自明のことです。ゴールデン・ルールとは正反対、「人にしてもらいたくないことを、人にする」を大統領が率先して実行しようとしているわけです。しかし、多くの人にとっては、トランプ氏が自分たちの今の心情を代弁してくれているように思え、「よくぞ言ってくれた!」と痛快に感じています。「他国のことも考えなければならない」「世界の各国が協力してやってゆかなければならない」という民主党のヒラリー氏たちの言うことは、いまの自分たちの暮らしから遊離した「きれいごとだ」と思えてしまうのですね。
いまアメリカはますます分断の溝が深まってきていますが、このことは、私たち日本の社会においても、同様であると思います。私たち日本の社会も、やはり同じ課題、同じ分断を抱えているのだということができるでしょう。
この場所を深く掘り下げ
本日の固い岩の上に家を建てた人のたとえは、ルカによる福音書にも出て来ます。内容は共通していますが、ルカによる福音書はマタイによる福音書とはまた少し違った表現をしています。イエス・キリストの教えを聞いて行う人、《それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった》(ルカによる福音書6章48節)。
ルカによる福音書では、《地面を深く掘り下げ》という表現が出てくるのですね。マタイによる福音書では砂地か岩場か、つまり「どの場所を選ぶか」が問題となっていますが、ルカによる福音書では「この場所をいかに深く掘り下げるか」が問題となっています。その場所を忍耐強く掘り下げてゆくと、固い岩に突き当たる。その固い岩の上に家を建てるとき、揺り動かされることのない土台を得ることになるのだ、と。
私たちの社会が抱える課題を思う時、私は、このルカによる福音書のイメージが大事になってくるように思います。「どの場所を選ぶか」というよりも、自分が立っている「この場所をいかに深く掘り下げてゆくか」という視点です。
たとえば私たちの社会には、「理想は大事だ」という声と、「いや、きれいごとを言うな」という声とがあります。これら声がぶつかるとき、そこに対立が生まれ、分断が生まれます。
一方で、この異なる二つの声が、どちらも私たち自身の内に存在しているものだと受け止めることもできます。私たちの心の内には、「理想は大事だ」と思う自分もいれば、「理想は理想として、でも現実はなあ……」という自分もいます。多くの場合、どちらかの声が勝ってしまっていますが、よくよく自分の心を見つめれば、双方の自分がいることに気付くでしょう。
「理想」や「正しさ」を重んじすぎるあまり、現状に苦悩し、余裕がなく、辛さを抱えて生きている率直な自分の声を押し込めてしまっているということもあるでしょう。その場合、「辛い」と叫んでいる自分自身の声に耳を傾け、受け止めてあげる必要があります。
一方で、「正直さ」を重んじるあまり、自分の中の「理想」や「こうありたいと願うこと」を押し込めてしまっていることもあるでしょう。それもまた、私たちのとって苦しい状態です。私たち人間は、どのような困難な状況にあっても、「より良くあろう」する本性をもっているからです。私たちが自分の内の否定的な感情にばかり囚われてしまっているのだとしたら、自分の中の肯定的な部分にも目を向けてあげる必要があるでしょう。
私たちの心は、本日のたとえ話のイメージを用いるなら、「砂地」のようなものだと思います。いろいろなものが混ぜ合わされ、いろいろなものが下に埋もれている砂地のようなものだと思います。そこにはさまざまな想いが渦巻いています。さまざまな想いが下に埋もれています。ドロドロした泥が埋もれていることもあれば、荒んだ、トゲトゲした小石が埋もれていることもあるでしょう。一方で、サラサラとしたなめらかな砂もあることでしょう。肯定的な感情もあれば、否定的な感情もあります。理想もあれば、自己中心的な想いもあります。それを全部ひっくるめて、「私」という人間です。
と同時に、私たちの心は、このもろく移ろいやすい「砂地」だけで終わるのではありません。この砂地をさらに深く掘り下げてゆくとき、私たちは私たちの心の奥底に宿された「岩」につきあたります。この「岩」こそが私たちの心からの願い――本当の意味での「本音」――であり、そしてイエス・キリストの言葉です。移ろいやすい砂地だけではなく、揺らぐことのないこの「真実の言葉」を含めてこそ、「私」という人間です。岩の上に家を建てるとは、私たちの心の最も奥深くに宿された「真実の言葉」の上に家を建ててゆくことである、本日はご一緒にそう受け止めたいと思います。
心の表層にある感情を率直に出すことを「本音」を言うこととされていることが多いと思いますが、それは表層にある感情をただ吐き出しているだけであって、それは本当の意味での自分の「本音」ではないのではないでしょうか。「本心の言葉」とは、私たちが心の底から願っている事柄を指すものであるはずだからです。
内なる「真実の言葉」を土台として
内なる「真実の言葉」を土台とすること――それは、ある側面、忍耐が必要な作業であるかもしれません。時間がかかる作業であるかもしれません。けれども、私たちの心の奥深くには、必ず、「真実の言葉」があります。私はそう信じています。単なる「きれいごと」ではない、真の輝きを放つ「黄金」が宿されています。それを信じ、その「岩」をこそ自分の人生の土台にしようとすること、その姿勢がいま私たちに求められているように思います。私たちの心の底にある言葉は、いま、私たちに何を語りかけているでしょうか……。
イエス・キリストの教えは、外から命令されるものでも、押し付けられるものでもありません。それは、私たちの心の奥深くに記されている教えです。それは私たち自身の心からの願い、祈りとつながっているものです。
《人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい》――私たちは自らの心を深く掘り下げるとき、ほかならぬ自分自身の内に、自分の「真実の言葉」として、このゴールデン・ルールに出会うでしょう。生きることをいとおしく思っている自分、大切な人を大切に思っている自分に出会うことでしょう。他者を「愛する」ことを祈り求めている自分に出会うことでしょう。一人ひとりが尊ばれ、一人ひとりが喜びをもって生きることができる世界を心から願っている自分に出会うでしょう。「建前」ではなく、心からの「本音」として。そのとき、イエス・キリストの福音は、私たち自身の心に記された教え(エレミヤ書31章33節)となります。
どうぞ私たち一人ひとりが、自らの心を深く掘り下げ、自らの内なる真実の言葉に出会うことができますように。その言葉を土台として、私たちの日々の生活を形づくってゆくことができますようにと願います。