2017年3月12日「ガダラの人をいやす」
2017年3月12日 花巻教会 主日礼拝
聖書箇所:マタイによる福音書8章28-34節
「ガダラの人をいやす」
東日本大震災から6年
昨日、東日本大震災からちょうど6年を迎えました。昨日は皆さんも改めて6年前のことを想い起こし、祈りをささげられたことと思います。あの震災から6年が経ちましたが、いまだ多くの方々が困難を抱えてながら生活をしています。また、原発事故によって強いられている苦しみ、困難は続いています。これからも震災と原発事故を心に刻みつつ、共に歩んでゆきたいと思います。
本日は午後から、岩手地区では宮古教会と江刺教会にて、震災6年を覚えての礼拝がもたれます。私たち花巻教会は江刺教会での礼拝に出席します。
江刺教会は昨年新しい会堂が完成し、11月3日に献堂式が執り行われました。その献堂式をもって、東日本大震災で被災した教会の再建事業が一応の完了となりました。江刺教会の皆さま、邑原先生、また出席された皆さま、お一人ひとりが万感の想いで献堂式に臨んでいらっしゃいました。これからは、借入金の返済事業に取り組むこととなります。岩手地区の教会では同様の課題を一関教会、宮古教会も負っています。これからもご一緒に祈りに覚えてゆきたいと思います。
教会の暦で「受難節」の中を私たちは歩んでいます。受難節は、イエス・キリストのご受難と十字架を想い起こす時です。イエス・キリストのご受難を想い起こし、そのことを通して、被災された人々、またさまざまな苦しみ悲しみの中にいる人々とつながってゆきたいと願います。
「悪霊に取りつかれた」人とは……
改めて本日の聖書箇所をご一緒にお読みいたします。悪霊に取りつかれたガダラの人をイエス・キリストがおいやしになる場面です。この場面を読んで、映画の『エクソシスト』を思い浮かべた方もいらっしゃるかもしれません。
聖書には「悪霊」や「汚れた霊」と呼ばれる存在が登場します。これら存在がどのようなものであったのか、はっきりとは分かりませんが、それらは現代の視点からすると、多くの場合精神の病いに相当していたのではないかと考えられます。もちろん、すべての事例がそうではなかったでしょうが、2000年前の当時、「悪霊に取りつかれた」と考えられていたことの多くが、現代の視点からすると何らかの精神疾患に相当する症状であったのではないかと思います。当時の人々はそれら症状を、「悪霊」や「汚れた霊」の仕業であると考えていたのです。そのため、その悪霊を追い出すための儀式、いわゆる「悪霊祓い」が行われていました。「悪霊祓い」は今日のキリスト教会ではあまり見られなくなりましたが、古代の教会では一般的なものでありました。カトリック教会では現在でも、場合に応じて悪霊祓い(エクソシズム)を行っています。ただしそれは司祭が司教から特別な認可を受け、医学的なサポートも受けた上で行うものとされているようです。
社会から「見えなくされていた」人々と出会ってくださった主
新約聖書の福音書には、いわゆる「悪霊に取りつかれた人」がたくさんが登場します。一方で、旧約聖書を読んでいますと、「悪霊に取りつかれた人」はほとんど出てこないことに気付きます。旧約聖書ではサウル王の事例(サムエル記上16章14-23節)などを除いては、ほとんど「悪霊に取りつかれた人」は出て来ません。
以前このことについて、妻と話し合ったことがありました。妻は以前から、「新約聖書になるとなぜ、『悪霊』などのオカルトチックな場面が増えるのか」と疑問に思っていたようです。旧約聖書にはほとんどそのような記述はないのに、新約聖書の福音書にはそれら記述がたくさん出てくるのはなぜだろう、と。
二人で話していて、腑に落ちたことは、旧約聖書の時代でも「悪霊に取りつかれた」とされている人はいたが、社会から排除されていたので登場はしなかった。対して、新約聖書の福音書ではイエス・キリストが自らそれら人々に出会ってくださったので、たくさん登場するのではないか、ということでした。もちろん、これはさまざまな解釈の中の一つです。
旧約聖書の時代から、精神の病いを患っている人はいた。けれどもそれら人々は社会から排除されて、「あたかも存在しないかのように」されていたのではないでしょうか。本日の物語に登場する二人の人物も、町の外に追いやられ、墓場を居住としていました。主イエスがそれら人々を率先して訪ね、出会ってくださいました。福音書に「悪霊に取りつかれた」とされている人々が大勢登場する理由の一つに、このことがあるように思います。
「悪霊に取りつかれた」とされている人々をはじめ、福音書には、社会から疎外されている人々が登場します。周囲から「あたかも存在しないかのように」されている人々が登場します。主イエスはこれら人々にまず第一に出会ってくださいました。そうしてその苦しみ悲しみを共に担い、自らのものとしてくださいました。社会から「見えなくされていた」人々の存在を見えるようにし、それら人々に光を当て、神さまからの尊厳を取り戻すために働いてくださいました。その結果、人々の間に起こったのが、心身の「いやし」という出来事でした。
社会から「見えなくされている」人々の存在にまず心を砕いてくださった主イエスのお姿を、いま一度私たちの心に刻みつけたいと思います。
原発事故から6年が経過し
困難を抱えながら生きている人々の存在が「見えなくされている」、「あたかも存在しないかのようにされている」――それはまた、いまを生きる私たちの社会でも起こっていることです。
昨日、私たちは東日本大震災と原発事故から6年を迎えました。6年が経過した現在、原発事故によって困難を強いられている人々の存在がどんどんと社会から「見えなくされている」現状があるように思います。
この3月末または4月1日をもって、福島の「帰還困難区域」以外のすべての区域(『居住制限区域』『避難指示解除準備区域』)の避難指示が解除されようとしています。強制的に避難を余儀なくされた人々は、ようやく6年ぶりに故郷に戻ることができることとなります。
しかし一方で、それら区域の大部分は、依然として高い放射線量を示しています。懸命に除染作業をしてくださっていますが、それら作業はいまだ局所的で、十分ではありません。山間部などはまったく除染されていないままです。また、医療や介護、買い物などの生活の基盤の復旧もいまだ途上です。すでに「戻らない」と決めている人、戻りたくても「戻れない」人々が大多数です。
もちろん、「復興」を推し進め、帰還するための準備を整えてゆくことは大切なことです。けれども、放射能の危険性を曖昧にしたままの現在の帰還政策、また、帰還を選択しない人々への補償が徐々に削減されてゆくという政策は大変問題です。これら帰還政策が推し進められてゆくと、原発事故によって困難を強いられている人々の存在は、ますます社会から「見えなく」されていってしまうのではないでしょうか。
また、3月末をもって、自主避難をする人々への無償住宅支援が打ち切られます。福島の内外に自主避難をしている人々は4月から、これまでの無償の住宅支援を受けることができなくなります。当事者の方々が繰り返し、国や県に支援の継続を訴えているにも関わらず、です。国はあたかも「そもそも自主避難をしている人々は存在しない」とみなしているかのようです。4月以降、自主避難をしている人々はどのようにして自分たちの生活を構築してゆけばよいのでしょうか。自主避難をする多くの人々がいま、大きな不安を抱えていらっしゃいます。
原発事故から6年が経過し、事故によって経済的・精神的に困難を強いられている人々の存在がますます「見えなくされている」現状があります。そしてこれら政策の根っこには、「放射能による被害は、はじめから存在しない」という論理があるように思います。この論理が、震災から6年が経過する現在、より力を振るってきています。
「なかったかのようにする力」の猛威
先ほど、「悪霊に取りつかれた」とされている症状の多くは、現代の視点からすると精神の病いに相当することを述べました。「悪霊」については、もう一つ、別の捉え方をすることができます。それは、「悪霊」を個々人の病いとしてだけではなく、私たちの関係性における病い、社会の病いとしても捉えるという観点です。
私たちの社会がいま病いにかかっているとすると、その一つが、困難を抱えて生きる人々の存在をまるで「なかったかのように」してしまうという症状なのではないでしょうか。また、忘れてはならない出来事を、まるで「なかったかのように」忘れてしまう症状なのではないでしょうか。私たちもまた、気が付くとこれら症状に取り込まれてしまっていることがあります。私たちはこれら「なかったかのようにする力」の猛威に抗ってゆかねばならない。震災と原発事故から6年を迎えたいま、改めてそう強く思わされています。
神の国の福音の力に固く立ち
私たちに抗う力を与えてくれるもの、それが、主イエスが伝えてくださった神の国の福音です。
主イエスが宣べ伝えてくださった神の国とは、「一人ひとりに神さまからの尊厳が与えられている場」のことを言います。主イエスは私たち一人ひとりに神さまからの尊厳の光が取り戻されることを願ってくださっています。
神の国の力は、「存在していないかのようにされているものを、確かに存在しているものとする力」です。先ほど述べた「存在をなかったかのようにする力」とは正反対のものです。私たちは「なかったかのようにする力」に対しては、はっきりと「否」を唱えねばなりません。主イエスが「悪霊」の力に対して、はっきりと「否」を唱えてくださったように。
困難を抱えて生きる私たちの存在を見いだし、そこに神さまからの尊厳の光を当ててくだった主イエスのお姿を、いま、私たちの心に刻みたいと思います。どうぞ私たち一人ひとりが神の国の福音の力に固く立ち、歩んでゆくことができますように。