2017年5月21日「蛇のように賢く、鳩のように素直に」
2017年5月21日 花巻教会 主日礼拝
聖書箇所:マタイによる福音書10章16-25節
「蛇のように賢く、鳩のように素直に」
「蛇のように賢く、鳩のように素直に」!?
本日の聖書箇所には、印象的なイエス・キリストの言葉が記されています。16節《蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい》。イエス・キリストの言葉の中には不思議というか、どう受け止めたらよいのか分かりづらい言葉が幾つもありますが、この言葉もその一つかもしれません。私自身、これまでこの言葉の意味するところが分かったようでいて、分からないという気持ちでいました。
後半の「鳩のように素直に」というところは、比較的分かりやすいと思います。世界的に、鳩は平和の象徴とされていまし、柔和というイメージもあります。古代のイスラエルにおいては鳩は「心の鳥」と考えられ、「柔和、無邪気、純潔な貞操のシンボル」とされていたようです(参照:『新共同訳聖書辞典』)。
「素直に」と訳されている言葉は、元来は「混じりけのない」とか「純粋な」とも訳すことができる言葉です。これらのことを踏まえると、「悪に染まっていない」と表現することもできるでしょう。主イエスが弟子たちに向かって、「鳩のように、悪に染まらず、純真であれ」と呼びかけるということは、違和感なくすぐに納得できるものです。
私たちが違和感を抱いてしまうのは、前半の「蛇のように賢く」の部分でありましょう。私たちが不可思議に思ってしまうのは、聖書において蛇が否定的な存在として登場しているということが関わっているでしょう。蛇は聖書の中で「危険な生き物」の代表として登場したり(マルコによる福音書16章18節)、悪魔やサタンの象徴として登場したりします(ヨハネの黙示録12章9節)。
蛇が出てくる聖書箇所の中で最も有名なのは、創世記の「蛇の誘惑」の場面でありましょう(創世記3章)。神さまが「食べていけない」と命じた《善悪の知識の木》の実を、エバに食べるように誘惑したのが蛇です。
蛇はエバに向かって、木の実を食べると目が開け《神のように善悪を知るものとなる》のだということを伝えます(同、5節)。「善悪を知るようになる」ことが、ここでは「賢くなる」ことであると言われているのですね。
「賢く」と訳されている語は、原文のギリシャ語では「分別のある、思慮深い、賢明な」などの意味をもつ言葉です。「注意深い」と訳すこともできるでしょう。これらのことを踏まえると、主イエスがおっしゃろうとしていることが、ようやく少しずつ分かって来きます。主イエスは「人を誘惑したり、だましたりするために、ずる賢くあれ」とおっしゃっているのではありません。そうではなく、主イエスはここで、「善悪を分別し、忍び寄る悪をはっきりとしりぞけることができるように、賢明であれ」とおっしゃっているではないでしょうか。
《かくされた悪を注意深くこばむこと》
このことを思ったとき、ふと、谷川俊太郎さんの『生きる』という詩の一節を思い出しました。
《…生きているということ
いま生きているということ
それはミニスカート
それはプラネタリウム
それはヨハン・シュトラウス
それはピカソ
それはアルプス
すべての美しいものに出会うということ
そして
かくされた悪を注意深くこばむこと》(『谷川俊太郎詩選集1』、集英社文庫、2005年、205頁)。
私たちは生きてゆく中でさまざまに美しいものに出会ってゆきます。それら美しいものは私たちの心を澄んだものにしてくれます。豊かなものにしてくれます。世界は美しい――誰しもがそう感じた瞬間があることでしょう。
一方で、私たちは生きてゆく中で出会うのはそれだけではありません。私たち人間社会が生み出す「悪」にも出会ってゆきます。世界は恐ろしい――成長してゆくにつれ、私たちはそのようにも感じるようになってゆきます。
「生きる」ということは、谷川俊太郎さんがこの詩で記すように、美しいものに出会い「心を育んでゆく」ことであると同時に、かくされた悪を注意深くこばみ、「自分の心を守ってゆくこと」でもあります。
「蛇のように賢い」ことと、「鳩のように素直である」こと。どちらか一方だけではなく、その両方が必要なのだということを、改めて思わされます。そのバランスを取ることは難しいことでもありますが、生きてゆくうえで非常に大切なことでありましょう。
たとえて言いますと、鳩は私たち自身の心です。そして蛇は、その心を守る門番です。心の中に悪しきものが侵入してくるのを防ぐための門番です。
旧約聖書の箴言には《何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある》という格言があります(4章23節)。私たちはまず第一に、自分自身の心を守らねばなりません。その大切な心を守るためには、善悪を見分ける賢さが必要となります。
拒絶や敵意が渦巻くところに
本日のこの言葉はマタイによる福音書の中では、主イエスが12人の弟子たちを宣教の旅に派遣する際に語られた言葉として位置づけられています。神の国を宣べ伝えるための旅です。
宣教の旅において、弟子たちが出会うのは自分たちに好意的な人々ばかりではないでしょう。訪ねた先で、拒絶に出会うこともあるでしょう。激しい敵意に出会うこともあるでしょう。いや、むしろそのような拒絶や敵意が渦巻くところに、あなたたちはこれから出てゆくのだ、というニュアンスで語られています。冒頭の言葉――《わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ》。だから、《蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい》。
このように、本日の聖書箇所では、私たちが生きる社会の中には「悪」がはびこっているということが大前提として語られています。ある意味、非常にシビアな見方です。元来の文脈においては、マタイによる福音書が描かれた当時の、教会が迫害を受けていた状況が反映されていると考えられます。
悪は悪の顔をしてやってこない
コリントの信徒への手紙一にはこのようなパウロの言葉もあります。《兄弟たち、物の判断については子供となってはいけません。悪事については幼子となり、物の判断については大人になってください》(14章20節)。
「悪」は、はっきりと悪の顔をしては来ないことが多いものです。本日の聖書箇所では「狼の群れ」と表現されているが、多くの場合、狼は「羊の皮をかぶった狼」として私たちの前に現れるでしょう。《偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である》(マタイによる福音書7章15節)。一見、まったく無害に見える。または柔和な存在に見える。時には、非常に魅力的な存在に見える。しかし、その内には「悪しき想い」「悪しき意図」が潜んでいる。
谷川俊太郎さんの詩にも《かくされた悪を注意深くこばむこと》とありました。悪は普段、私たちに気づかれないように、巧みに「隠されている」ものです。そうして素知らぬ顔をして、私たちの暮らしの中に入り込んでくるのです。
「共謀罪」法案
一昨日、衆院法務委員会で、「共謀罪」法案が強行採決されました。皆さんも法案の行く末が気がかりでいらっしゃることと思います。「テロ等準備罪」とも呼ばれていますが、ご存じのように、元来はテロとは関係のない法律であり、「テロ対策」というのは名目だけのものです。与党は23日の衆院本会議で可決する意向のようです。この法案の問題点については皆さんにお配りしている「ひとのこ通信」に詳しく書きましたので、宜しければ読んでいただければと思います。
率直に申しまして、この法案はまさに「羊の皮をかぶった狼」であると言えるでしょう。表には私たち市民に「善きもの」「無害なもの」であるかのようにカモフラージュしていますが、その内実は「悪しきもの」「悪しき意図」が隠れています。
この法案は、私たちの心の中にまで侵入して、鳩を自分たちに「従順なもの」にする意図、またそして、そのために門番の蛇を「委縮させよう」という意図が込められているものです。「共謀罪」を新設することで、心の門番である蛇を「委縮させ」、純真な鳩を巧みに「コントロールしよう」としているのでしょう。そのように他者の主体性を奪うことは、個人の尊厳をないがしろにする行為であり、決して許容することはできません。
このような状況であるからこそ、私たちは「蛇のように賢く、鳩のように素直であれ」という主イエスの言葉をいま一度心に刻み込む必要があると、この度改めて思わされています。善悪を見分け、悪しきものを注意深くしりぞける賢さを。悪しき意図に操作されることのない純真さを。
鳩は、大空に羽ばたく存在です。何物にも束縛されることなく、心の鳩が自由に羽ばたき続けることのできる社会であるよう願わずにはおられません。
「わたしがあなたがたを遣わす」
最後に、改めて、冒頭の主イエスの言葉をお読みいたします。《わたしはあなたがたを遣わす》。
どれほど困難であっても、私たちは独りではないことを、主イエスは約束してくださっています。「わたしが、あなたがたを遣わす」――私たちの背後には、主が共におられます。まことの賢明さも、純真さも、主が私たちに与えてくださるものです。
主が共にいてくださることの力を信頼し、この礼拝からそれぞれの生活の場へと押し出されてゆきたいと願います。