2017年6月11日「一羽の雀さえ」
2017年6月11日 花巻教会 主日礼拝
聖書箇所:マタイによる福音書10章26-31節
「一羽の雀さえ」
讃美歌「花はほほえみ」
昨日、花巻教会にて、YさんとAさんの結婚式が執り行われました。式の後は、花巻温泉で披露宴も行われました。お二人の新しい歩みの上に、神さまの祝福が豊かにありますようお祈りいたします。
結婚式の中で、お二人のご希望により、讃美歌「花はほほえみ」を歌いました。54年度版の讃美歌の二編に収録されている讃美歌です(149番)。はじまりの1番はこのような歌詞です。《花はほほえみ 鳥はうたう、/花うるわしく 鳥あいらし。
おおいなるもの、ちいさきもの よろずはたえなるかみのみわざ。…》。
Yさんのお母様のHさんの愛唱賛美歌でもありました。
賛美歌の中には世界の美しさを謳うことを通して、神さまを賛美する歌もあります。野の草花、木々の緑。海の魚、空の鳥……。「花はほほえみ」もその一つです。これら賛美歌は、日本に住む私たちの心にも、スッと入って来るのではないでしょうか。
旧約聖書の創世記には、神さまが天地を創り終えられた際、すべての存在を御覧になって、「極めて良い」とされた、という場面が記されています。創世記1章31節《神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である》。「花はほほえみ」を歌っていると、この「極めて良い」世界が、私たちの目の前に立ち上がって来るようです。一つひとつのものが、「極めてよい」ものとして、祝福されている世界。一つひとつの存在が、「かけがえのない」存在として輝いている世界です。
「おおいなるもの、ちいさきもの よろずはたえなるかみのみわざ」
自然が登場する有名な賛美歌に、13世紀のイタリアの修道士アッシジのフランチェスコが作詞した賛美歌「造られたものは」があります(『讃美歌21』223番)。「太陽の賛歌」という名前でも知られています。アッシジのフランチェスコは自然を深く愛した人で、小鳥に説教をしたという伝説が残っています。カトリック教会では「自然環境保護(エコロジー)の聖人」ともされているそうです。
「造られたもの」はこのような歌詞で始まります。
《造られたものは、たたえよみ神を、/ハレルヤ、ハレルヤ、
輝く太陽、世を照らす月も、/主をほめたたえよ。/ハレルヤ、ハレルヤ、ハレルヤ》。
フランチェスコの讃美歌では、1番で太陽や月が登場します。フランチェスコは太陽や月も兄弟姉妹と捉えていたそうですが、壮大な歌詞です。私もとても好きな賛美歌です。ちなみに一昨日は、ストロベリームーンだったそうですね。
先ほどご紹介した「花はほほえみ」では、1番では野の花と鳥が登場します。どちらの歌詞も素晴らしいものですが、「花はほほえみ」は1番でまず、身近な、小さな存在に目を注いでいるというのが特徴だということができるかもしれません。《花はほほえみ 鳥はうたう、/花うるわしく 鳥あいらし。/おおいなるもの、ちいさきもの よろずはたえなるかみのみわざ。…》。
おおいなるものだけでなく、ちいさきものも、分け隔てなくすべての存在が神さまに祝福されている様子が謳われています。
一羽の雀さえ
「花はほほえみ」の歌詞を改めて読んでみて、野の花や鳥など、私たちの目には小さく見えるものに目を注ぐことの大切さを改めて思いました。慌ただしい生活の中で、私たちは時にそのことの大切さを忘れてしまうように思うからです。私たちは野に咲く花の「ほほえみ」を感じとることができているだろうか。忙しさの中で、気づかずに、通り過ぎてしまっているのではないか、と考えさせられます。
大きなものは人の目を引きますが、小さなものであるほど、気づかれにくいものです。忙しい生活の中で、しかしふと足を止めて、心を静かにしてこの世界を見つめてみると、野の花や小鳥など、私たちの目には小さく見える一つひとつの命を通して、神さまの恵みが輝き出ていることに気づいてゆきます。
ご一緒にお読みした本日の聖書箇所にはこのような言葉がありました。マタイによる福音書10章29-31節《二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。/あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。/だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている》。ここで登場しているのは、当時、最も小さなものとされていた存在です。当時、雀は2羽で1アサリオンで売られていました。アサリオンというのは一番安い値段を意味しています。最も安い値段で売られている一羽の雀も、神の許しがなければ地に落ちることはない、つまり、いつも神さまに守られているのだということが語られています。
また、私たちの髪の毛についても語られていますね。一本の髪の毛というのは、私たちの体の中で最も目立たないものの一つでしょう。髪の毛が一本、ハラリと落ちても、私たち自身、気づくことはないでしょう。けれども神さまは、その一本の髪の毛さえ、数えていてくださっているのだと語られています。驚くべき視点ですね。そのように、神さまは小さな存在を忘れず、それらに目を注いでくださっている方だ、ということが語られています。本日のマタイによる福音書の箇所は、この神さまのまなざしを信頼することの大切さを私たちに教えてくれています。
小鳥といえば、こどもさんびかの「ことりたちは」(詞:H.K.Lewis 訳詞:中田羽後 曲:H.von Müller)を思い起こす方もいらっしゃることでしょう。私も子どものとき、教会学校で歌いました。
《1 ことりたちは 小さくても/おまもりなさる 神さま/
2 わたしたちは 小さくても/おめぐみなさる 神さま/
3 わるいことは 小さくても/おきらいなさる 神さま/
4 うたのこえは 小さくても/よろこびなさる 神さま》
この愛らしい讃美歌は、本日の聖書箇所が基となっています。幼い頃、私もこの讃美歌を通して、神さまが小さなものを大切にしてくださる方だ、ということを自然に感じ取っていたように思います。
弱くされ、小さくされていた人々の友、主イエス
小さなものは気づかれにくいというのは、私たちの社会においても同様でありましょう。大きな声は人々の注意を引くけれど、小さな声は、気づかれにくいものです。私たち自身、ついつい、目立つもの、きらびやかなものに関心を向けてしまうことが多いのではないでしょうか。
対して、聖書は、弱くされ、小さくされている人々と共にいてくださったイエス・キリストのお姿を伝えています。主イエスが「神の国」の福音を伝える旅において、まず第一に訪ねてくださったのは、当時の社会の中で疎外され、弱い立場に追いやられていた人々でした。レプラを患う人(新共同訳《重い皮膚病を患っている人》、マタイによる福音書8章1-4節)、「異邦人」(8章5-13節)、病いを持つ人(8章14-17節)、「悪霊に取りつかれた」とみなされている人(8章28-34節)、中風の人(9章1-8節)、「徴税人」また「罪人」と呼ばれていた人々(9章9-13節)……。主イエスは真っ先にそれら人々と出会われ、友となってくださいました。そうして、人々に神さまからの尊厳の光を取り戻すためにお働き下さいました。
ご生涯の最期、主イエスは十字架に磔にされました。十字架刑は当時の死刑の中で最も悲惨な刑とされていましたが、聖書は、この主の十字架を、最も大切なものとして伝えています。弱さ、無力さの極みである十字架から、神の愛が湧き出ていると信じているからです。
この神の愛と出会ったパウロという人物は、記した手紙の中で《力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ》と語りました(コリントの信徒への手紙二12章9節)。《だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう》。
心の目で見ることできる美しさ
大きな声が力をもってしまう状況のいま、私たちはいま一度、聖書が語るこのまなざしに立ち返ってゆくことが求められているように思います。このまなざしに立ち返る中で、私たちの目の前に、改めてこの世界のまことの在り方が立ち現われてくるのではないでしょうか。創世記が証するように、神が「極めてよい」と祝福してくださっている世界です。創世記1章31節《神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である》。
ギリシャ語の「よい」という言葉(カロス)は、「美しい」という意味をもっています。神がこの世界を創られたそのはじまりの瞬間、一つひとつの存在が、「かけがえのない」存在として、「美しく」輝いていました。その美しさはいまも変わることなく保たれています。私たちの目から覆いが取り去られたとき、このまことの美しさが目の前に立ち現われはじめます。
そこにはもはや、互いに優劣はなく、勝ち負けもありません。一つひとつの存在が「かけがえのない=替わりがきかない」存在として大切にされています。この美しさは、「心の目」をもってこそ、見ることができるものです。一つひとつの存在に宿るこのまことの美しさを、「尊厳」という言葉で言いかえることもできるでしょう。私たち一人ひとりがこの美しさをより深く理解し、この美しさを互いに分かち合ってゆくことができるようにと願わずにはおれません。そのことが、たくさんの傷に満ちたこの世界を、少しずつ癒してゆくことにつながってゆくのだと思います。
「花はほほえみ」の最後の4番はこのように謳われています。
4番《「そのおりおりを 楽しめよ」と/ちちなるかみは めぐみたもう。
おおいなるもの、ちいさきもの よろずはたえなるかみのみわざ》。
私たちがこの世界の美しさを知り、「喜び、楽しみ、感謝の歌声」(イザヤ書51章3節)を響かせながら生きてゆくことこそが、神さまの願いであると信じています。