2017年7月9日「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」

201779日 花巻教会 主日礼拝

聖書箇所:マタイによる福音書112530

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」

 

 

九州北部豪雨

 

 九州北部を襲った豪雨により、福岡・大分に甚大な被害がもたらされています。安否の分からない方、連絡を取れない方がいまもいらっしゃいます。現在も懸命な捜索活動がなされています。命と安全が守られますように、また避難を続けている多くの方々に必要な支援が行き渡りますように、不安と悲しみの中にいる方々の上に主のお支えがありますように、ごいっしょに祈りを合わせてゆきたいと思います。

 

 

 

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」

 

先ほどお読みしたマタイによる福音書1128節の言葉。大切にしておられる方も多いことでしょう。《疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう》。自分自身に語りかけられているものとして、この言葉を聴き取った経験のある方も多いことでしょう。この招きの言葉に導かれるようにして、教会を訪ねた、教会とつながったという方もいらっしゃることと思います。

 

《休ませてあげよう》というこの招きの言葉は、とりわけ現代を生きる私たちは、切実な調子をもって響いてくるのではないでしょうか。

ここ数日は真夏日が続き、突然の暑さに体が疲労している方もおられることと思います。そのような体の疲れと共に、日々の生活の中で私たちはそれぞれ、心の疲れも感じています。ストレス社会とも言われますが、現代の私たちにとっては、心の疲れの方がより深刻であるかもしれません。体の疲れは取れても、心の疲れが取れないこともあります。そうして慢性的に疲れが積み重なってゆくのです。心は休息を求めているけれども、なかなか休むことができないという現状があります。

 

 

 

「休むことができない」という問題

 

「休むことができない」ということ。これは、現代の私たちにとって、最も切実な問題の一つでありましょう。最近は改めて「過労死」ということが重大な問題として取り上げられています。「休むことができない」という問題は、時に私たちの命にも関わるものともなります。外国語にはもともと「過労死」に相当する言葉がなかったので、海外では現在はローマ字表記でkarōshi」という言葉が使われるようになっています。

 

《疲れた者》の「疲れる」という語は、もともとのギリシャ語では、「苦労して働いた結果として疲れる」という意味をもっているそうです(田川健三『新約聖書 訳と註1 マルコ福音書/マタイ福音書』、作品社、672673頁)。それぞれが、職場で、家庭で、さまざまな場で、懸命に働いてその結果として疲れている。そしてその心と体の疲れをなかなかとることができないでいるという現状があります。

 

休ませてあげよう》というイエス・キリストの招きの言葉は、私たちの耳にますます切実な言葉として響いてくるものとなっているように思います。

 

 

 

さまざまな重荷を負い

 

「休むことができない」ということを、別の言葉で表現すると、「重荷を負っている」となります。本日の言葉でも、《重荷を負う者》という言葉がありました。私たちは日々の生活の中でさまざまな重荷を負っているゆえ、「休むことができない」。

 

「重荷を負う」ということで言いますと、私たちは外から「重荷を負わせられている」部分と、自分で自分に「重荷を負わせている」部分の両面があります。

 やらねばならない仕事を幾つも課されているとしたら、それは外から「重荷を負わせられている」ということになります。同時に、そのやらねばならない仕事のことを思って心をどんどんと重くしているとしたら、自分で自分に「重荷を負わせてしまっている」ということになるでしょう。かくいう私もここ最近、やらねばならない幾つかの課題のことを想い、心を重くしているところでした(!)

 

 私たちはそれぞれ、課題・問題を抱えながら生活しています。時にそれら課題・問題は私たちの心を重くし、私たちの心の重荷となります。それがあるから、たとえ体を休めていても、心が休まらない。

決断することのできない葛藤。解決の見通しがつかない問題。山積する課題。将来への不安。また、犯してしまった過去の過ち……。さまざまな思い悩みに囚われ、なかなか心が休まらない。心が重苦しくなってゆく。そうして時に、行き場が失われたように感じ、どんどんと追い詰められた心境になってゆくこともあります。

 

 

 

「逃げることができない」という問題

 

本日の言葉とつながるものとして、思い起こした言葉があります。パウロという人物が、コリントの教会の人々に向けて記した手紙の中の言葉です。この言葉も、大切にしている方がたくさんいらっしゃることでしょう。コリントの信徒への手紙一1013節《あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます》。

 

ここでは、神さまが私たちに《逃れる道》をも備えていてくださっていることが語られています。言い方を換えれば、「逃げ道」です。立ち向かう、のではなく、逃げる道を神さまは私たちに備えていてくださっている、と語られているのが印象的です。「逃げる」という言葉には、一般に否定的なイメージがあるかもしれません。けれどもここでは、神さまが、私たちに「逃げてよい」と言って下さっているのです。「逃げる」ことが、むしろ私たちにとって重要であることであることが言われています。

 

「休むことができない」ということが現代の私たちの最も切実な問題の一つである、ということを先ほど申しましたが、それは言い換えますと、「逃げることができない」という問題でもあるのではないでしょうか。

 

「逃げること」は良くないこと、卑怯なこと、恥ずべきこととされているという風潮は、いまだに根強いように思います。また、あまりに追い詰められているとき、「逃げる」という発想自体が失われるということがあります。自分では担い切れないような重荷を負う中で、「逃げる」こと自体が考えられなくなってゆくのです。

 

 だからこそ私たちは、辛いときは「逃げてよい」のだという視点を、今一度取り戻してゆく必要があるように思います。聖書においては、他ならぬ、主イエスが、「わたしのもとへ来なさい」とおっしゃってくださっています。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」――すなわち、「わたしのもとに逃げて来なさい」と。

 

やせ我慢をして立ち向かい続けるのではなく、むしろ、「逃げる」勇気をもつこと。ありのままの自分の弱さを受け入れ、「休む」勇気をもつこと。私たちにとって、時に、そのことが切実に大切であるのでしょう。私自身、もっとその勇気をもつことができれば、と思っております。

 

 思えば、聖書には「逃げる」場面がたくさん出て来ます。雄々しく立ち向かうというより、むしろ、逃げ続ける聖書の人物たち。しかしその「逃げ道」が、同時に、「信仰の道」につながっていることに気づかされてゆきます。

 

 旧約聖書の詩編には、《避けどころ》という言葉が出て来ます。困難に遭遇したとき、逃げ込むことができる場所、そうして自分を守ってくれる場所。詩編では、神さまご自身が、私たちの《避けどころ》であることが謳われています。

 

私たちが教会の礼拝に来ることも、そうでありましょう。礼拝という場は私たちにとって、「逃げ場」であり、心と体と魂の「安息の場」であるのです。逃げて来た者の《避けどころ》、私たちにとってはそれが、イエス・キリストその方です。

 

 

 

あなたが「生きている」ことこそ、何より大切なこと

 

神さまが私たち一人ひとりに、「逃れる道」を用意して下さっているということ。自分ではどうしても解決できないような難しい問題がある時は、「逃げてよい」「休んでよい」のだということ。それは、あなたが「生きてくれている」ことが、何より大切なことであるからです。神さまの目から見て、あなたがいまこうして「生きている」ことこそ、何より大切なこと、価値あることであるからです。そう私は信じています。

 

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい――わたしのもとに逃げて来なさい」。これは、私たち一人ひとりに対する、主イエスからの「生きよ」という呼び声であると私は受け止めています。あなたが生きているだけで、「よい」。存在しているだけで、「よい」。この神さまのまなざしこそが、本日の聖書の言葉の根本にあるものです。私たちはこの神さまのまなざしに学び続けることが求められています。

 

 

 

私たちが再び立ち上がるとき ~労苦を共に担ってくださる主

 

この神さまの愛のまなざしに包まれる中で、そこでしっかりと休息をとることで、私たちは少しずつ力を取り戻してゆきます。元気を回復してゆきます。もしかしたら時間がかかることもあるかもしれませんが、私たちは必ず、再び立ち上がる力を与えられてゆきます。

 

聖書が語るのは、その時、「私たちは独りではない」ということです。本日のイエス・キリストの言葉の後半部には、このような言葉があります。マタイによる福音書112930節《わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。/わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである》。

 

「軛」とは、牛などの二頭の動物が左右に並んで、担うものです。ここでは、主イエスが私たちと共に軛を担ってくださっている、ということが語られています。いつも共にいてくださり、私たちの労苦を共に担ってくださっていることが語られています。軛を共に負い、まるで一心同体のようにして。

 

 私たちは生きている限り、何らかの重荷に出会わざるを得ないのかもしれません。生きている限り、心配事、思い煩いは尽きないことでしょう。ある課題が解決しても、また新しい課題に直面してゆくことでしょう。

 疲れた時、重荷にあえぐ時、その都度、私たちは「休んでよい」のだということ。神さまの愛の中で、心ゆくまで「休んでよい」のだということ。そしてその愛の中であなたが自ら、再び立ち上がろうとするとき、主が「共にその重荷を担ってくださる」のだということを、ご一緒に心に刻みたいと思います。