2019年11月24日「正しい若枝」
2019年11月24日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:エレミヤ書23章1-6節
「正しい若枝」
収穫感謝日・謝恩日
本日11月24日は、日本キリスト教団の暦では「収穫感謝日」にあたります。教会によっては、お米や野菜、果物を会堂の前に並べて礼拝をささげるところもあります。今日はこの会堂の講壇の上にも、お野菜を並べています。わらしべ農園から毎週配達いただいているお野菜の一部を、飾らせていただきました。
神さまの恵みによって、私たちの日々の生活が支えられていることへの感謝をご一緒に新たにしたいと思います。
また本日は、日本キリスト教団の暦で「謝恩日」にもあたります。謝恩日は、牧師を隠退された先生方のこれまでのお働きに感謝をする日です。私たちの教団ではその感謝の思いを具体的に謝恩日献金というかたちで表し、隠退された先生方とご家族の生活をお支えするということをしています。お祈りにお覚え下さい。
ローマ教皇来日
皆さんもよくご存じのように、昨日から教皇フランシスコが来日しています。1981年の教皇ヨハネ・パウロ2世の来日から38年ぶりの出来事です。ローマ教皇がこの日本で、とりわけ被爆地である長崎と広島でどのようなメッセージを語るかが注目されています。この度の来日ではテーマとして、「すべてのいのちを守るため」という言葉が掲げられています。
この礼拝が始まった10時15分から、ちょうど時を同じくして、長崎の爆心地公園にて、教皇のメッセージが発信されています。夕方のニュースでまたメッセージの内容が報道されることと思いますので、私も後で確認してみたいと思います。この度のイベントのLive動画はyoutubeの特設公式チャンネル配信されているそうです。夕方には広島の平和記念公園で行われる「平和のための集い」に参加されます。ニュースにもなりましたが、この集いには盛岡誠桜高校の修学旅行生の皆さんも招待されています。
また明日25日は、東京ドームでミサが行われる予定です。東日本大震災の被災者、原発事故の避難者の方々との面会も予定されているとのことです。
ちなみに、これまで新聞やテレビでは「ローマ法王」と表記されることが多かったですが、この度の来日を機に、多くのメディアでは「ローマ教皇」の表記に変更されています。ここ数日の報道ですでに「ローマ教皇」と表記されていたことにお気づきの方もいらっしゃることでしょう。カトリック教会ではこれまでも「教皇」という呼称が一般的でしたが、この度の教皇の来日に合わせて日本政府が呼称を「教皇」と変更したことが理由であるそうです。
38年前の教皇ヨハネ・パウロ2世のメッセージ ~戦争は人間のしわざ
38年前、1981年2月に当時の教皇ヨハネ・パウロ2世が来日したとき、教皇の広島の平和記念公園でのメッセージは「戦争は人間のしわざです」という言葉で始まりました。
《戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です。この広島の町、この平和記念堂ほど強烈に、この真理を世界に訴えている場所はほかにありません。…》(カトリック中央協議会HP「教皇ヨハネ・パウロ二世 広島『平和アピール』」より。https://www.cbcj.catholic.jp/1981/02/25/3446/)。
教皇ヨハネ・パウロ2世が日本語で、「戦争は人間のしわざです」と訴えるその場面を印象深く覚えている方も多くいらっしゃることでしょう。このスピーチで、教皇は、戦争は人間が起こすものであるとはっきりと言い切っています。戦争は、神の裁きでも罰でもなく、人間の罪責によるものなのです。であるからこそ、私たちは戦争をなくし、平和を実現してゆく使命を神さまから託されているのだと受け止めることができます。
また、この平和アピールで、教皇ヨハネ・パウロ2世は《過去をふり返ることは将来に対する責任を担うこと》であるいうことを何度も繰り返しています。《過去をふり返ることは、将来に対する責任を担うことです。広島を考えることは、核戦争を拒否することです。広島を考えることは、平和に対しての責任をとることです》。
広島への原爆投下、長崎への原爆投下、その悲惨な過去を決して忘れず、直視し続けることが、未来を創り出すことにつながってゆくのだと教皇は語っておられます。38年前の1981年は、いまだ東西冷戦状態が続き、核戦争が起こることへの不安が人々の心を捉えていた時代でした。そういう状況の中、核兵器の廃絶を、被爆地の広島で訴える教皇のメッセージは、世界中の、多くの人々の心を動かすものであったことと思います。戦争は不可避なものではない。戦争は人間のしわざであるのだから、私たち人間はその惨禍を避けることもできる、その惨禍を繰り返さないよう共に決意することができる。そのためにも、私たちは広島と長崎の悲惨な歴史を忘れてはならないのだと教皇は広島にて訴えられました。
教皇フランシスコのメッセージ ~核兵器による破壊が二度と行われないよう
この度来日している教皇フランシスコも、歴代の教皇の意志を受け継ぎ、核兵器反対を訴え続けておられます。ちょうどいま長崎にて、核廃絶の訴えを含む平和のアピールをなさっていることでしょう。
一昨年、教皇は教会関係者に一枚の写真が印刷されたカードを配布しました。皆さんもご存じいらっしゃると思いますが、原爆が投下された直後に長崎で撮影された「焼き場に立つ少年」の写真です(スクリーンの写真をご覧ください)。教皇はカードに「戦争がもたらすもの」というメッセージを添え、教会関係者に配布を指示されたそうです。翌年には、カードは日本のカトリック教会でも配布されました。このエピソードからも、教皇がいかに核廃絶に深い想いを抱いていらっしゃるかが伺われます。
来日に先立って、教皇は日本の私たちに向けてビデオメッセージを発信されました。そのビデオメッセージにおいても、教皇は、「皆さんの国は戦争がもたらす苦しみについてよく知っています。人類の歴史において核兵器による破壊が二度と行われないよう、皆さんと共に祈ります」と語っておられました(【日本語字幕】ローマ教皇フランシスコ ビデオメッセージ)。
38年前と比べて、現在の私たちの世界は核戦争への切迫した感情は和らいでいるかもしれません。しかし依然として、深刻な状況に直面し続けています。もちろん、近年、喜ばしい出来事もありました。2017年に国連で核兵器禁止条約が採択され、核兵器廃絶のために活動するICANがノーベル平和賞を受賞しました。
一方で、そのような流れとはむしろ逆行するような動きもあります。最大の核保有国の一つであるアメリカでは特にトランプ政権になってから、大量破壊兵器縮小に向けての動きが後退している現状があります。トランプ政権はむしろ積極的に核兵器搭載可能な中距離ミサイルの実験を行い、それに対抗するロシアのプーチン政権も最新鋭兵器の開発を公言しています。北朝鮮もいまだ核兵器の開発を続けています。被爆国として本来核廃絶へのリーダーシップを取るべき日本政府は、そのトランプ政権に歩調を合わせることしかできていません。
教皇の来日を一つの契機として、私たち日本に住む者たちが改めて核廃絶への祈りを共にしてゆくことができますよう願います。
《正しい若枝》
改めて、ご一緒に本日の聖書個所を読みしたいと思います。旧約聖書のエレミヤ書23章1-6節です。後半の5-6節に次のような言葉が出てきました。《見よ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え/この国に正義と恵みの業を行う。/彼の代にユダは救われ/イスラエルは安らかに住む。彼の名は、「主は我らの救い」と呼ばれる》。
ここでは預言者エレミヤを通して、近い将来、イスラエルの人々に正義と恵みの業をもたらす《正しい若枝》が起こされるという神の約束が語られています。彼の名は「主はわれらの救い」と呼ばれる――。キリスト教会は伝統的に、この《正しい若枝》はイエス・キリストのことを指し示しているのだと受け止めてきました。
この箇所では、やがて来られる救い主が《若枝》として表現されていることに注目をしてみたいと思います。若枝は「ひこばえ」と言い換えることもできるでしょう。ひこばえは、切り株や木の根元から生え出た若い芽のことを言います。おそらくこの聖書個所では、切り倒された木の根元から生え出た若枝がイメージされているのだと思います。
ということは、木の本体はすでに切り倒されてしまっているということです。残っているのは切り株だけ。しかし、その切り株から、なおも芽を出し枝を伸ばそうとしている存在が、この《正しい若枝》です。エレミヤは、この《若枝》が人々に光をもたらすようになる、と証します。
この切り株と若枝のイメージの背後には、イスラエルの民が実際に経験した苦難があります。大樹が切り倒されてしまうような、悲惨な出来事をイスラエルの民は経験しました。その出来事とは、具体的には、国家の滅亡です。神殿は破壊され、人々は殺され、または離散し、すべてが終わったような現実だけが人々の目の前にあった。切り株はおそらくその悲惨な現実を象徴しています。しかし、そのすべてが終わったように見える現実から、なおも芽を出そうとする存在がある。それが、《正しい若枝》です。《若枝》のイメージはそのような悲惨な歴史を前提としているものであると考えられます。
この《正しい若枝》は、人々の痛みや苦しみ、悲しみのすべてを受けとめ、その痛みを共にし、そしてその痛みを癒してゆくため、切り株から芽を出そうとしています。言い換えますと、この《若枝》は、人々のこの痛みを決して忘れない、なかったことにはしない、その決意をもって枝を伸ばさんとしている存在であるのです。
先ほど、私たちキリスト教会はこの《若枝》をイエス・キリストその方として受けとめてきた、ということを申しました。すなわち、イエス・キリストは、私たちの痛みを決して「なかったこと」にはなさらない方である、その正義を果たすために、私たちのところに来てくださる方であるのだと信じています。
悲惨な出来事を「なかったこと」にはしない決意の中で
私たち日本に生きる者もまた、これまで、様々な悲惨な歴史を経験してきました。1945年8月には広島と長崎において、人類の歴史において初めて原子爆弾の悲惨さを経験しました。この未曽有の出来事によって、どれほど多くの人の命が奪われ、どれほど多くの人々が傷つき苦しみ、そしていまも苦しみ続けていることでしょうか。この事実を、私たちは決してなかったことにはできません。
また2011年3月には原発事故という未曽有の出来事も経験しました。私たちはいまも、核と放射能被害の恐ろしさを経験し続けています。この悲惨な出来事を、私たちは決してなかったことにはできません。
しかしこれらの悲惨な出来事を、あたかもなかったかのようにするような言動が至るところで見出されます。そのような不正義が、悲しむべきことに、いまの私たちの世界では至るところに存在しているのが現状です。とりわけ、国の指導者の立場にある人々がそういう姿勢に陥ってしまったとき、どれほど深刻な影響が人々にもたらされることでしょうか。
本日の聖書個所には、《正しい若枝》が《正義と恵みの業》を行う、と記されていました。この《正義と恵みの業》は、悲惨な出来事を「なかったこと」にはしない決意の中で、実現されてゆくのだと受け止めています。
38年前、広島にて、教皇ヨハネ・パウロ2世は《過去をふり返ることは将来に対する責任を担うこと》であると何度も繰り返しました。私たち一人ひとりがいま改めて、過去の歴史を振り返ること、見つけ続けようとすることが求められています。その中で、私たちは平和への一歩が与えられてゆくのではないでしょうか。
私たちの痛みを決してなかったことにはしないために、その正義を果たすために、イエス・キリストは私たちのところに来てくださいます。そしていま、《正しい若枝》は私たちと共におられます。暗闇の中で輝く光として来られ、いま、私たちと共におられます。
この暗闇の中に輝く光を仰ぎ見つつ、私たちもまた《正しい若枝》なる主と共に働いてゆきたいと願います。