2019年2月10日「人の子は安息日の主」
2019年2月10日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:ルカによる福音書6章1-11節
「人の子は安息日の主」
律法とは
聖書を読んでいると、「律法」という言葉が頻繁に出て来ます。いまお読みした聖書箇所にも出て来ました。「法律」という言葉と似ていますが、意味は異なります。律法は聖書特有の用語で、神の掟(神の教え)を意味する言葉です。守らなければならない決まり事です。
ユダヤ教では伝統的に、律法は全部で613ある、とされているそうです(旧約聖書『出エジプト記』『レビ記』『民数記』『申命記』に所収)。とてもたくさんの数の律法があるのですね。数もたくさんありますし、その内容も多岐に渡ります。礼拝に関する決まり事から、生活上の細やかな決まり事まで。律法の中で特に有名なのは、十戒でありましょう。これらのたくさんの律法をキリスト教はもはや必ずしも文字通りに守っていませんが、 ユダヤ教徒の方々はいまも大切に守り続けています。
最も重要な二つの掟
イエス・キリストが生きておられた時代も、律法はもちろん大切なものとされていました。あるとき、律法の専門家が、「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」と主イエスに質問したことがありました。613ものたくさんの律法がある中、最も重要な掟を取り出すのは、確かに難しいことのように思えます。ここで、専門家は主イエスを試そうとして、あえて難しい質問をしたようです。
すると主イエスは、よく知られているように、律法の中で最も重要な掟は「神を愛すること」と「隣人を愛すること」であるとお答えになりました。たくさんある律法は、このただ二つのことに基づいて記されているのだと主イエスはおっしゃったのですね。
《イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』/これが最も重要な第一の掟である。/第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』/律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」》(マタイによる福音書22章37-40節)。
律法の本質とは、「神さまを大切にすること」と「人を大切にすること」の二つである――この主イエスの言葉を踏まえると、把握しがたいように思われていた旧約聖書の律法も私たちにとってとても分かりやすいものとなってくるのではないでしょうか。
ある安息日での出来事
先ほど、キリスト教においては律法を必ずしも文字通り守ることはしていない、と述べましたが、「神を愛し、人を愛する」というこの律法の精神は、キリスト教においても最も重要なものとされ続けてきました。「神を大切にし、人を大切にする」生き方を体現してくださったのが、イエス・キリストその方であるということができるでしょう。
一方で、福音書を読んでいますと、律法の精神を体現しているはずの主イエスが、律法の専門家たちから怒りを買う場面が何度も出て来ます。称賛されるのではなく激しい怒りを買い、やがて命まで狙われるようになってゆくのです。彼らの目には、主イエスが律法の掟を「破っている」ように見えたからでした。どうしてそのような事態になってしまったのでしょうか……? 本日の聖書箇所もそのような状況を描いている箇所の一つです。後半部のルカによる福音書6章6節以下の物語を、改めてご一緒に振り返ってみましょう。
その日は安息日でした。主イエスは会堂に入り、人々に教えを説いておられました。「安息日」とは週の第7日目のことで、ユダヤ教における聖なる日のことを言います。安息日には労働をすることが禁止されていました。この安息日の掟は律法に記されているもので、律法の中でもとりわけ重要な掟とされていたものでした(旧約聖書『出エジプト記』20章8-11節参照)。
安息日であったその日、会堂には、右手が不自由な人がいました。律法の専門家たちは、主イエスがその手の不自由な男性に対してどう対応されるか、注目していました(7節)。もし主イエスがその男性の手を癒そうとしたなら、「労働を禁ずる」安息日の掟に違反したということで、訴えるつもりであったようです。主イエスが生きておられた当時は、医療行為も「労働」に当たると考えられていたことが分かります。
主イエスは律法の専門家たちの考えを見抜いておられました。主イエスは手の不自由な男性に《立って、真ん中に出なさい》とおっしゃいました(8節)。突然声をかけられて、男性もびっくりしたことでしょう。たくさんの人が会堂に集う中、おそらく隅の方に追いやられていた男性が、突然、会堂の真ん中に呼び出されたのです。
男性が身を起こして会堂の真ん中に立つと、主イエスは律法の専門家たちに次のように問いかけられました。9節《あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか》。
そして彼ら一同を見回して、《手を伸ばしなさい》とおっしゃいました。すると、男性の手は元通りになった、と福音書は記します。それを見た律法の専門家たちは激怒します。自分たちの目の前で、主イエスが安息日の掟に公然と違反したと受け止めたからです。
《安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか》
確かに、医療行為という「労働」をしたという点においては、主イエスは安息日の掟に違反したことになるかもしれません。けれども、ここで改めて、主イエスの次の問いを受け止めることが重要であるでしょう。《あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか》。
安息日に労働をしてはいけない、と確かに律法で定められている。けれども安息日という聖なる日において私たちが真に心を向けるべきことは、いま目の前にいる人のために善を行うことであり、いま目の前にいる人の命を救うことではないか――そう主イエスは訴えておられます。
律法の専門家たちは安息日の掟を堅く守っていました。日々の生活においても、律法のあらゆる決まりを完璧に守ろうとしていました。その姿勢自体は、まことに尊いものです。その姿勢は確かに、《心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい》という最も重要な第一の掟を守ることにつながるものであったでしょう。
ただ、「神を大切にする」ことを重視しすぎるとき、私たちは《同じように》大切な第二の掟が見えなくなってしまうことがあります。《隣人を自分のように愛しなさい》――すなわち、「人を大切にする」ことを見失ってしまうことがあるのです。
実際、当時の律法の専門家たちの中には、神さまの方を見ようとするあまり、いま目の前にいる人の存在が見えなくなっていた人々もいたのではないでしょうか。主イエスはそのような状態に陥っている人々に対して、いま目の前にいる人を見つめるべきことをお伝えになりました。律法の文言をばかり見るのではなく、いま目の前にいる人がどのような状況にあるのかを見つめ、そこから行動を起こすべきだと語られたのです。
本日の物語で言うと、手の不自由な男性をはじめとする、会堂の隅に追いやられている人たちの存在を受け止めること。身近にいる人々のその声にならない声を受け止め、その人たちのために、自分のできることを行ってゆくこと。そのように私たちが「互いを大切にしようとする」姿勢こそが、安息日という聖なる日にふさわしく、神の目に真に適ったことだと主イエスは確信しておられたのだと思います。
主イエスが生きておられた当時、「神を大切にする」ことに絶対的な価値が置かれる一方で、「人を大切にする」ことが見過ごされ、軽んじられていた社会の状況がありました。そのような状況の中、主イエスは「人を大切にする」ことを訴え、徹底してそれを実行されたがゆえ、一部の人から激しい拒絶を受けられたのだと受け止めることができます。
「人を大切にする」ことが軽んじられている現状
本日の物語は、いまを生きる私たちにも切実に訴えかけてくるものがあるのではないでしょうか。いまの私たちの社会においても、ある絶対的な価値のために、「人を大切にする」ことが軽んじられている状況があるように思うからです。私自身、最近、その問題を考えさせられていたところでした。
たとえば、ある組織において、「組織の拡長・拡大」というのが、第一の価値とされているとします。そのこと自体は、当然のことでしょう。けれども、その第一の価値のために、組織に属する一人ひとりの人格が軽んじられているとすれば、どうでしょうか。本来、組織のメンバー一人ひとりのためにその組織があるのに、組織のために一人ひとりが存在しているようになってしまっている。そのような状況は本末転倒であり、ゆるされてはなりません。と同時に、そのような深刻な状況があるのに、人々の目からは隠され見過ごされている、ということも多々生じていることと思います。そのような構造が、いまの私たちの社会において、かたちを変えて様々なところで生じているのではないでしょうか。
それはまた私たち教会も例外ではないでしょう。むしろ、教会や宗教組織においてこそ、そのようなことは容易に起こり得ることであると思います。「神の栄光」の名のもとに、パワーハラスメントが行われたり、過重労働が強いられてしまう危険性もあります。だからこそ私たちは日ごろから細心の注意を払っていかなくてはなりません。
ある絶対的な価値のために、「人を大切にする」ことが軽んじられてはならない
多くの人が、共通して重要だと思う目的や価値というものがあります。たとえば、「すぐれた業績を残す」とか、また「社会に貢献する」「平和に寄与する」ことなどです。その目的自体はもちろん、とても大切なことです。しかしそれら目的や価値のために、実は、身近にいる人々が犠牲にされていたという事例を、最近、幾つも見聞きすることがありました。
これまでは、「すぐれた業績を残しているのだから、社会に貢献しているのだから、そのような犠牲があっても仕方がない」とされてきてしまった部分もあったのかもしれません。輝かしい業績や功績の影で、犠牲にされている人々の存在が見過ごされてきてしまった。しかしこれからは私たちは、そのような犠牲の構造を許容してはならないのだと思います。ある絶対的な価値のために、「人を大切にする」ことが軽んじられることはあってはならないのです。一部の人の犠牲の上に成り立っている業績や功績というのは、根本的に「間違っているものである」ということを、私たち自身よりはっきりと認識してゆかねばならないと改めて思わされています。
「人を愛する」ことを通して「神を愛する」
主イエスは「神を大切にする」という第一の掟と共に、「人を大切にする」掟が《同じように》重要であるとおっしゃいました(マタイによる福音書22章39節)。主イエスは「神を大切にする」という第一の掟のために、「人を大切にする」という第二の掟がないがしろにされてもよいとはおっしゃっていません。どちらも《同じように》重要なものであるとお語りになっています。
そして、福音書が証言する主イエスのお姿からむしろ示されることは、「人を大切にする」姿勢が、「神を大切にする」ことにつながっているのだということです。「人を愛する」ことを通して「神を愛する」――これが、主イエスが私たちに伝えてくださっている道であるとご一緒に受け止めたいと思います。
いま、私たちがまず心を向けるべきことは、「人を愛する」ことです。私たちは、また私たちの社会はいま、改めて身近なところから、「人を大切にする」ことを見つめ直してゆくことが求められているように思います。
どうぞ私たちが互いを大切にしあい、そのことを通して神さまに栄光を帰してゆくことができますように、ご一緒にお祈りをおささげいたしましょう。