2019年2月17日「「種を蒔く人」のたとえ」

2019217日 花巻教会 主日礼拝説教 

聖書箇所:ルカによる福音書8415

「種を蒔く人」のたとえ

 

  

言葉は時に種のように

 

 そのときは意味が分からなかったけど、後になってからその言葉の意味が分かるようになったという経験を、私たちはすることがあります。それは誰かが言ってくれた言葉であったり、本で読んだ言葉であったり。時間が経ってから、その言葉に込められた大切な意味が分かるという経験をすることがあります。ある言葉が、少しずつ、時間をかけて、私たちの血となり肉となっていったという経験を、皆さんも幾度もされたことがあると思います。

 

 では私たちがその意味に気付くまで、言葉はどうなっているのでしょうか。私たちの心から忘れ去られているわけではないでしょう。忘れ去っていたら、思い出すこともないからです。心のどこかには確かに存在していて、そして何かをきっかけに、ハッと想い起こす。もしくは、時折自らその言葉を思い起こして、ゆっくりと想いを巡らすこともあるでしょう。

 

このような状態は、土に蒔かれた種として、たとえることができるのではないでしょうか。種が言葉、土が私たちの心です。種は時が来るまで、土の中でジッとしています。一見、何事も起こっていないように見えます。しかし、種は土の中で少しずつ、根を伸ばしてゆきます。時が来ると、種は芽を出し、葉を出し、花を咲かせ、そうして実を結びます。言葉というものはそのように、時に植物の種のように、ゆっくりと時間をかけて私たちに働きかけることがあるようです。

 

 

 

言葉に「即効性」を求めてしまう私たち

 

書店の目立つところにはベストセラーになっている本のコーナーがあります。最近はどのような本が支持されているでしょうか。ベストセラーの棚や新聞広告などを見ていますと、「即効性」を謳う本が売れている傾向があるように思います。「5分で分かる」とか「すぐに効果が出る」とか、あるいは、「この1冊を読めば全部分かる」などの謳い文句を目にすると、ついつい手にとってみたくなりますよね。言葉に「即効性」を求めてしまっている私たちがいます。

 

また最近は、何か分からないことがあれば、すぐにインターネットで調べることが多いのではないでしょうか。外出していても、スマホがあれば手軽に検索をすることができます。パソコンやスマホの普及などにより、すぐに「答え」を求めてしまう傾向がさらに加速してしまっているようにも思います。

 

このような環境に身を置いていると、普段の生活の中で言葉にじっくりと向かい合う機会は少なくなってしまっているかもしれません。忙しく余裕がない中で、つい「即効性」のあるもの、すぐに「答え」を示してくれるものを求めてしまうのです。

 

 一方で、冒頭で述べましたように、時間が経ってから、その言葉の意味が分かることがあります。種が時間をかけて芽を出し実を結ぶように、言葉が少しずつ私たちの血肉となってゆく場合もあるのです。「答え」を急ぐのではなく、言葉に対して忍耐強く向かい合ってゆく姿勢もまた大切であることを思わされます。

 

 

 

「「種を蒔く人」のたとえ」

 

 本日の聖書箇所は、イエス・キリストが語られた「「種を蒔く人」のたとえ」です。よく知られたイエス・キリストのたとえ話の一つですね。このたとえ話では、土に蒔かれた種は《神の言葉》を表すものとされています。種は神さまの言葉、蒔かれた場所は私たちの心です。

 

当時のパレスチナ地方の種蒔きの仕方というのは、耕した畑にたくさんの種を振り蒔いてゆくやり方であったそうです。種蒔きというと、土の中に一粒ずつ、もしくは数粒ずつ植えてゆくというイメージをもっている方もいらっしゃるかと思いますが、このたとえ話でイメージされているのは、土の上にたくさんの種を振り蒔いてゆく仕方であるのですね。ミレーの有名な絵画に「種を蒔く人」1850年頃)があります(スクリーンの絵を参照)。イメージとしてはこのような種の撒き方です。

改めてこのたとえ話を味わってみたいと思います。

 

種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった(ルカによる福音書85節)。たとえ話はこのように始まります。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。ある種は畑の土ではなく、隣接する道端に落ちてしまった。たくさんの種を振り蒔く仕方であるので、このようなことも起こっていたようです。

 

《道端》とは、主イエスご自身の解説によりますと、言葉を受け入れようとしない私たちの心の在りようを表しています。そもそも畑ではなく道端であるので植物を育てるのには適していません。人も行き来します。よって、踏みつけられたり、鳥に食べられてしまったりします。蒔かれた言葉が簡単に失われてしまう。《道端》とは、神さまの言葉を受け入れようとしない私たちの心を表していることが分かります。

 

次に、《ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった6節)。石地というのも、やはり植物が育つには適した場所ではないでしょう。石だらけで土の少ない所に落ちた種は芽は出しますが、根を張ることができず、枯れてしまう。

 

また、《ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった7節)。茨の中に落ちた種は芽を出し成長はしますが、茨にさえぎられて、実を結ぶまでには至らない、と主イエスはお語りになります。

 

ここでの《石地》や《茨の中》も、やはり、私たちの心の在りようを表しています。私たちの心の在り方に何らかの要因があり、言葉が根づかない、または、実を結ぶまでに至らない。言葉が心の中に根づいていないので、何か困難に出会ったときにその言葉を見失ってしまう。また、心が思い煩いや誘惑に覆いふさがれているので、言葉が実を結ぶまで至らない。

 

このたとえに出て来る《道端》や《石地》や《茨の中》のような心の在り方――。現代に生きる私たちも、気が付けば、言葉に対して、このような心の状態になってしまっていることが多いのではないでしょうか。先ほどのお話とつなげますと、たとえば、忙しく余裕がない中で、つい「即効性」のあるもの、すぐに「答え」を示してくれるものを求めてしまう。そういう心の在りようでは、確かに、言葉が私たちの心に根付き、実を結んでゆくというのは困難なことであるかもしれません。種が根を張り実を結ぶには時間を必要とするからです。

 

このたとえ話では最後に、《良い土地》について語られます。《また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ8節)。この《良い土地》について、主イエスはこのように解説しておられます。《良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである15節)

 

よく守り、忍耐して》という言葉が出て来ました。ここでの「よく守る」とは、教えを「守って実行する」という意味の他に、しっかりとその言葉を「心にとどめておく」という意味もあります。たとえいまはその言葉の意味が分からなくても、心に大切にとどめておく、覚えておく姿勢です。そして、いつか必ずその言葉が芽を出し、実を結ぶことを信じて、忍耐して待ち望む。このルカによる福音書のたとえ話においては、「忍耐」が大切な要素となっていることが分かります。

 

 

 

《良い土地》 ~愛と信頼に基づく忍耐の心

 

 この姿勢を体現している人物として、ルカによる福音書においては、イエス・キリストの母マリアがいます。たとえば、ルカによる福音書2章の、主イエスが12歳の少年であったときのエピソード。エルサレムの神殿が「自分の父の家」だという少年イエスの言葉の意味を父ヨセフと母マリアはそのときは分かりませんでした。マリアがその真の意味を悟ったのは、それから20年以上後のことでした。

 

はっきりと意味は分からなくても、マリアはそれら主イエスの言葉や出来事を《すべて心に収めていた》と福音書は記します250-51節)。意味は分からなくともその言葉を心に大切にととどめ、折に触れて思い巡らし続けていたのです。母マリアのこの姿勢の土台には、主イエスへの愛があり、神さまの言葉への信頼があるということができるでしょう。

 

 よく聞き、よく心にとどめ、忍耐して待ち望むことの土台には、相手への愛と信頼がある。主イエスは、この愛と信頼に基づく忍耐の心を、《良い土地》と呼ばれたのだと本日はご一緒に受け止めたいと思います。そしてこの《良い土地》は、いつか必ずたくさんの実を、百倍もの実を結ぶのだ、と。私たちにはこの希望が与えられています。

 

 

 

大切な存在を大切に受け止め続けることができる《良い土地》を

 

 本日は言葉に対する私たちの心の在り方についてご一緒に考えてみました。今日お話ししたことは、言葉に対してだけではなく、人に対する姿勢にもつながってゆく課題であると言えるのではないでしょうか。言葉に「即効性」を求めてしまうように、いまの私たちの社会は他者に対して「即戦力」を求めてしまっている傾向があるように思うからです。他者に対して即戦力を求めてしまう、すぐに目に見える結果や成果を求めてしまう。

 

会社の求人などでも、いつの頃からでしょうか、「即戦力となってくれる人材を求む」という内容が謳われるようになりました。そして就職を希望する人たちも、自分が即戦力のある人材になれるようにと懸命にスキルを磨きます。確かに、すぐに力となってくれる人が入ってくれれば、その組織としては助かることでしょう。しかしそこに過度に強調点が置かれてしまうとき、私たちの社会からは「守り育む」という姿勢がどんどん見失われていってしまいます。また新しく入った人が、様々なことを学ぶには時間がかかることは当然のことです。守り育むことをないがしろにする姿勢は、やがては私たちの社会から豊かさや大切なものを失わせ、その土壌をどんどんとやせ細ったものにしていってしまうのではないでしょうか。人を単に自分たちに益をもたらす「人材」として見るということは、その人が尊厳をもった大切な「一人の人間」であることへの感受を私たちから見失わせてゆきます。

 

「即戦力」「即効性」が求められているのは、それだけ私たちの社会が余裕を失っていることの裏返しですが、だからこそいま一度立ち止まり、ご一緒に主イエスの語られたたとえ話とそこに含まれる豊かさとを想い起こしたいと思います。

 

どうぞ私たちが心に愛と信頼を取り戻し、大切な存在を大切に受け止め続けることができる《良い土地》を共に準備してゆくことができますようにと願います。