2019年2月24日「キリストによる癒し」

2019224日 花巻教会 主日礼拝説教

 聖書箇所:ルカによる福音書51226 

キリストによる癒し

   

 

新しい翻訳の聖書の発行

 

昨年末に、日本聖書協会から新しい翻訳の聖書が発行されました。カトリック教会とプロテスタント教会が合同で翻訳したもので、『聖書 聖書協会共同訳』と言います。私たちがいま礼拝で使用している聖書は『聖書 新共同訳』と呼ばれ、発行されたのは1987年です。「新共同訳」が出版されてから30年ぶりに、新しい翻訳が日本聖書協会から出版されたことになります。

 

 「新共同訳」が出版される前は、「口語訳」が、その前は、「文語訳」が用いられていました。長らく教会にいらっしゃっている方の中には、「口語訳」「文語訳」で聖書の言葉を諳んじているという方もいらっしゃることでしょう。

 

もちろん、これまでに日本語に翻訳された聖書は「聖書協会共同訳」や「新共同訳」だけではありません。新改訳聖書、岩波訳聖書、フランシスコ会訳聖書、またさまざまな個人訳の聖書があります。私たちに身近なところでは、大船渡にお住まいの山浦玄嗣先生が気仙地方の方言で訳された「ケセン語訳聖書」がありますね。

 

この度新しく「聖書協会共同訳」が出版されましたが、それを受けて、すぐに花巻教会で使う聖書をそちらに切り替えるというわけではありません。近い将来、礼拝の中で用いる聖書を「新共同訳」から新しい「聖書協会共同訳」に切り替えてゆくということになるかもしませんが、それも教会の皆さんと話し合いつつ、また地区や教区でも話し合いつつ、少しずつ切り替えてゆくということになると思います。また、新しい翻訳が出たからといって、「新共同訳」が役割を終えるのではありません。「新共同訳」もこれからも出版され続けます。

 

むしろ、私たちが手に取って味わうことができる日本語訳の聖書がこの度一つ増えた、という風に捉えて頂ければよいかと思います。私たちは聖書を読む際、一つの翻訳だけではなく、色々な翻訳を読み比べてみるというのも、とても参考になることです。ある一つの翻訳だけが「正しい」というわけではなく、それぞれの翻訳が、私たちにとって意義ある訳し方をしています。様々な日本語訳聖書があるということ自体が豊かさであるということができるでしょう。翻訳された聖書にも個性があり、多様性があるのですね。

 

また、言葉というものは時代と共に変化してゆくものです。聖書の文言の解釈も日々新たにされてゆくものです。その意味でも、その時代にふさわしい、新しい翻訳が出されるというのも大切なことであると思います。

 

 今月の『信徒の友』でちょうど日本語訳聖書について特集が組まれ、「聖書協会共同訳」について紹介されていました(『信徒の友 2019.3』、日本キリスト教団出版局、14-25頁参照)。寄稿されている夙川学院院長・同短期大学特任教授の樋口進先生も《翻訳聖書が増えたということは、「神の言葉」の豊かさが増えたということで歓迎すべきだと思います》と記しておられました(同、14頁)。また、聖書の言葉によって信仰が豊かに養われるために、いろいろな聖書を読み比べてみることも必要ではないかと述べてらっしゃいました16頁)。私たちは自由に、様々な翻訳の聖書を使用してよいのですね。ある聖書箇所について、色々な翻訳を読み比べて、自分にとって一番ぴったりくる翻訳を選び取ってもよいのです。宜しければ、ぜひ皆さんも「新共同訳」だけではなく、「聖書協会共同訳」をはじめ色々な翻訳の聖書を手に取って読み比べてみてください。

 

 

 

「レプラ/ツァラアト」という言葉の訳語を巡って

 

 本日の聖書箇所の中に《重い皮膚病》という言葉が出て来ました。ルカによる福音書51213節《イエスがある町におられたとき、そこに、全身重い皮膚病にかかった人がいた。この人はイエスを見てひれ伏し、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願った。/イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去った(新共同訳)。《重い皮膚病》と訳されているのは原語のギリシャ語では「レプラ」という語です。

 

新しい「聖書協会共同訳」ではこの「レプラ」という語は《規定の病》と訳されています。ずいぶんと異なった表現になっています。同じ部分の「聖書協会共同訳」も引用してみましょう。《イエスがある町におられたとき、そこに全身規定の病を患っている人がいた。イエスを見てひれ伏し、「主よ、お望みならば、私を清くすることがおできになります」と願った。/イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「私は望む。清くなれ」と言われると、たちまち規定の病は去った(聖書協会共同訳)

 

本日は、特にこの語を巡る課題について述べたいとと思います。「レプラ」という語は、旧約聖書の「ツァラアト」というヘブライ語の訳語です。キリスト教はこれまでの歴史において、この「レプラ/ツァラアト」をハンセン病を指すものと見なし続けてきました。

 

しかし現在は、この語をハンセン病に限定して解釈するのは誤りであるということが分かっています。旧約聖書の時代にそもそもハンセン病が存在したかは歴史的に不確かであるということや、旧約聖書の「ツァラアト」の症状の描写は必ずしもハンセン病と一致しない点(レビ記13144節)、また衣服や壁に生じた「かび」のようなものに対してもこの語が使われている、ということなどがその理由です(同134759節、143353節)

 

「レプラ/ツァラアト」という語をハンセン病として限定的に訳すことは誤りであったわけですが、この誤った解釈が、長きに渡りキリスト教文化圏においてハンセン病の方々に対する差別を助長し続けることにもなりました。

 

旧約聖書のレビ記には、「ツァラアトに冒された者である」と宣言された者は祭儀的に「汚れた」者として、共同体から隔離されねばならない、記されています。現代の私たちの視点からするとゆるされないことですが、当時はそのように定められていたのです。《重い皮膚病(原文:ツァラアト)にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならない。/この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない》(レビ記134546節、新共同訳)。このような記述がハンセン病と結び付けられることによって、ハンセン病患者を共同体の外へと排除する構造が補強されていってしまったのです。これははっきりとした人権侵害であり、決してゆるしてはならないことです。キリスト教はその歴史において、ハンセン病の隔離政策に加担したという罪責があります。

 

日本でも、1996年に廃止されるまで、ハンセン病患者の強制隔離などを定めた「らい予防法」という法律がありました。私たちの国にも、ハンセン病の方々への差別の歴史があります。

 

 

 

《重い皮膚病》から《規定の病》へ

 

私たちが現在礼拝で用いている「新共同訳」も当初は「レプラ/ツァラアト」を《らい病》と訳していましたが、19974月から表記を《重い皮膚病》に変更し、現在に至っています。いま申しましたように「ツァラアト」は必ずしもハンセン病を指しているとは限らないという点、また《らい病》という表現が現在では差別的な表記であるというのが主な理由です。

 

ただしこの表記に対してもこれまで、賛成と反対の両方の意見がありました。《重い皮膚病》という訳語に変えたことで、確かにハンセン病に限定して理解されることはなくなりました。その点は改善された点であると思います。一方で、《重い皮膚病》という訳語はやはりハンセン病を連想させるという意見、また、《重い皮膚病》というより広がりのある訳語によって、様々な皮膚の病気を抱える人を新たに傷つけてしまう可能性を危惧する意見も出されました。この点も、確かにその通りであると思います。旧約聖書では「ツァラアト」という語は否定的なものとして記されているからです。《重い皮膚病》という表現にも痛みを覚えている方がいることを知ってからは、私も《重い皮膚病》という表現は用いないようにしてきました。

 

この度の新たに「聖書協会共同訳」では「ツァラアト」をどのように訳するのか私も注目していましたが、先ほど申しましたように、新しい翻訳では《規定の病》と訳出されていました。翻訳に携わった方々が《重い皮膚病》という訳語をもはや採用しない決断されたことが分かります。「ツァラアト」は現代に生きる私たちには、もはやどのようなものであるかはっきりとは分からない病気です。ですので、あえて一切の具体性を排し、「旧約聖書の律法に記されている(規定されている)病い」ということで、ただ《規定の病》と表記するという選択をされたようです。皆さんは、この翻訳についてどのようにお感じになるでしょうか。私としては、この《規定の病》は、様々な方々の意見に耳を傾け熟考した上で考え出されたであろう、良い訳語であると受け止めています。

 

 

 

キリストによる癒し ~互いの痛みを理解し受け止めあおうとする姿勢を通して

 

 本日は聖書の翻訳について、また「ツァラアト」という語の訳し方についてお話しました。聖書の翻訳には多様性があるということ。ある一つの言葉の訳語を巡っても、その背後に様々な歴史があり、様々な解釈があり、多様な翻訳が可能であるのです。私たちはこれからもより良い聖書の言葉の受け止め方を祈り求めてゆくことが大切であるでしょう。

 

言葉が変わるということは、ささやかな変化であるかもしれません。言葉が変わるだけでは駄目だ、と思われるかもしれません。確かに言葉だけではだめで、私たちは言葉と共に行動が伴わなくてはならないでしょう。しかし、言葉が変わることには私たちの意識が変わることが伴います。そしてその言葉と意識の変化は私たちの行動をも変えてゆくよう促します。言葉が変わるということは、小さなことであると同時に、大きな力を秘めているものです。

 

 より良い聖書の受け止め方を祈り求めてゆく上で、私たちがいつも心に留めておくべきは、イエス・キリストのお姿であるでしょう。本日の聖書箇所でも描かれているように、主イエスは社会から差別され、排除されている人々と出会ってくださり、その痛みを全身で受け止めて下さいました。共同体から追いやられている人の痛みを我が痛みとしてくださいました。そしてその痛みに癒しを与え、悲しみを喜びへと変えていって下さいました。

 

 互いの痛みを理解しようとする姿勢を通して、より良い聖書の受け止め方もまた与えられてゆくのだと思います。たとえば本日の「ツァラアト」という言葉。この語の翻訳は《らい病》から《重い皮膚病》に変わり、そしてこの度《規定の病》になりました。この言葉の背後にある、多くの人々の痛みや悲しみに耳を傾ける姿勢を通して、より良い聖書の言葉の受け止め方が与えられていったのではないかと私は受け止めています。《重い皮膚病》という訳語に痛みを覚えていた方にとっては、新しい聖書翻訳から「《重い皮膚病》が去った」13節)ことは、ある種の癒しにつながってゆくこととなるかもしれません。

 

と同時に、私たちはこれらの過去の痛みに満ちた歴史を忘れないでいることも大切であるでしょう。岩波訳新約聖書はハンセン病の古い呼称である《らい病》をあえて訳語として使用する方針を取っています。「ツァラアト」を患った人々に対する古代イスラエル社会の差別のあり方が、日本の歴史上の「らい病」と類似しているから、というのがその理由です(『新約聖書 新約聖書翻訳委員会訳』補注 用語解説より、岩波書店、2004年)。差別の歴史を忘れないため、負の遺産として、あえて《らい病》という表記を用いるという考え方です。

 

どのような訳語がより良いものであるのか、人によって考えは様々であると思います。いずれにせよ、大切なのは、他者の痛みを理解しようとする姿勢、受け止めようとする姿勢であるでしょう。痛みを決して「なかったこと」にしない姿勢であるでしょう。イエス・キリストが私たちにそうしてくださったように――。

 

 無数の痛みが満ちるこの世界にあって、どうぞ私たちの内に、私たちの間に、キリストによる癒しがもたらされてゆきますように。そのために私たちが自身の言葉と認識を常に顧み、それを新たにし、キリストの癒しをもたらすための行動を起こしてゆくことができますように願います。