2019年5月12日「命のパン」
2019年5月12日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:ヨハネによる福音書6章34-40節
「命のパン」
童謡『ぞうさん』 ~ゾウに生まれてうれしいゾウの歌
わたしたち日本に住む者によく親しまれている童謡の一つに、『ぞうさん』があります。老若男女、みながよく知っている歌ですよね。《ぞうさん ぞうさん おはなが ながいのね そうよ かあさんも ながいのよ》。
この歌の詞を書いたのは、詩人まど・みちおさんです。まどさんはこの『ぞうさん』のほかに、『やぎさん ゆうびん』『ふしぎな ポケット』などの童謡の作詞もしています。わたしは小学生の頃からまど・みちおさんの詩がとても好きで、詩集もよく読んでいました。
あるインタビューの中で、まどさんは『ぞうさん』という作品に関して、このように述べていました。「ぞうさん ぞうさん おはなが ながいのね」と言われた子どものゾウは、ふつうであればそれをからかいや悪口と受け取るのが当然。この世の中にあんな鼻の長い生き物はいないからです。ところが、子ゾウはほめられたつもりで、うれしくてたまらないふうに「そうよ かあさんも ながいのよ」と答える。それは、自分が長い鼻をもったゾウであることを、かねがね誇りに思っていたからなんです、とまどさんは語ります。
『ぞうさん』の二番の歌詞は、皆さんもご存じのとおり、次のように続きます。《ぞうさん ぞうさん だれが すきなの あのね かあさんが すきなのよ》。
子ゾウにとって、母親は世界中で一番の存在。その大好きなお母さんに似ている自分も素晴らしいのだと、ごく自然に感じている。
つまり、『ぞうさん』という歌は、《ゾウに生まれてうれしいゾウの歌》なのだと、まどさんは語ります。そのように、あの歌の詞は読まれたがっている、と(『いわずにおれない』集英社be文庫、2005年)。
《ゾウに生まれてうれしいゾウの歌》。言い換えますと、「ゾウがゾウであること」を喜んでいる歌。『ぞうさん』という歌には、このような想いが込められていたのですね。《自分が自分であること、自分として生かされていることを、もっともっと喜んでほしい。それは、何にもまして素晴らしいことなんですから》とまどさんは述べています。
これは『ぞうさん』だけではなく、まど・みちおさんの作品のすべてに込められた願いであるということができます。まどさんの詩の中で描写される一つひとつの存在は、「自分に生まれたこと」「自分が自分であること」を喜んでいます。
たとえば、『くまさん』という詩があります。
《はるが きて めが さめて くまさん ぼんやり かんがえた さいているのは たんぽぽだが ええと ぼくは だれだっけ だれだっけ
はるが きて めが さめて くまさん ぼんやり かわに きた みずに うつった いいかお みて そうだ ぼくは くまだった よかったな》(『くまさん』、童話屋、1989年)。
この作品も、「くまがくまであること」、つまり「私が私であること」を肯定し、喜んでいるうたです。
「わたしがわたしである」こと。このことが喜びになったなら、どんなに幸せなことでしょうか。「ゾウがゾウであること」、「くまがくまであること」、そして「わたしがわたしであること」そのことが喜びであれば、私たちはどんなに幸福なことでしょうか。
そのように思うのは、一方で、現在多くの人にとって――子どもにとっても、大人にとっても――、「自分が自分であること」が、苦痛の源になっていると考えるからです。「わたしがわたしである」ことが、現在、多くの人にとって苦痛の要因となっています。だからこそ、まどさんの詩のメッセージは、やさしく、あたたかなだけではなく、切実なものを伴って、いまの私たちに訴えかけてくるのではないかと思います。
自分を“あるがまま”に受け入れることができないということ ~その飢え渇き
「私が私であること」自体が、苦しみの要因である状態――。私たちにとってこれは大変辛いことです。自分が自分である限り、私たちは常に苦しみ続けなければならないことになるからです。
そのような苦痛に満ちた状況を解決する道は、「自分ではない誰か」になるしかないと、私たちは思い込みます。自分がこのような人間だから、自分がこのような性格だから苦しいのだ。自分ではない誰かになれば、この苦しみから逃れることができるかもしれない……と私たちは思い込み、自分ではない誰かに変わろうとします。
先ほどの『ぞうさん』の歌で言いますと、もし、子ゾウが「鼻が長い」という自分の個性を受け入れることができなかったら、どれほど辛いことでしょう。もし、子ゾウにとって鼻が長いこと自体が苦痛の源になってしまえば、自分が自分であるかぎり、ずっと苦しみ続けなければならないこととなります。
自分を“あるがまま”に受け入れることができないということ――。これは、現代に生きる私たちが抱える最も大きな課題の一つではないでしょうか。自分をそのままに受け入れることができないとき、私たちは心に飢えと渇きのようなものを覚えます。どれだけ食事をしても満たされない飢えを、どれだけ水を飲んでも癒されない渇きを感じます。
いま、この私たちの社会において、非常に多くの人が、心の奥底に飢え渇きを覚えながら生活を送っているのではないでしょうか。
イエス・キリスト ~命のパン、命の水
本日の聖書箇所には、次のイエス・キリストの言葉がありました。《わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない》(ヨハネによる福音書6章35節)。
イエス・キリストはご自分のもとに来る者はもはや決して飢えることはなく、ご自分を信じる者は決して渇くことがない、とおっしゃいました。私が命のパンである、私が命の泉である、と。主イエスは私たちの心の奥深くにある飢えを満たし、渇きを癒すため、私たちのもとに来てくださいました。死からよみがえられた主イエスは、いまも私たちに語り続けてくださっています。あなたは、あなたそのもので、在って、よいのだ、と――。
たとえ私たちが自分自身を受け入れることができていなくても、神さまは、「あなたがあなたであること」を受け入れ、祝福してくださっている。この神さまの愛を信じ、心を開くとき、私たちの内にある飢えは少しずつ満たされ、渇きは癒されてゆきます。
私たちは根本において「よい」存在
確かに私たちはそれぞれ、弱さや欠点に見えるものを持っています。失敗や過ちを繰り返します。自己中心的な部分をもち、隣り人を傷つけずに生きることができていません。私たちの目から見て、他者や自分の醜さばかりが目に映ることもあるでしょう。聖書が語るように、確かに私たちは如何ともしがたい「罪」を抱えながら生きています。
しかしそれでもなお、神さまの目から見ると、私たちは、根本において「よい」ものである。そのことを、よみがえられたイエス・キリストは私たちに伝えてくださっています。神さまの目から見て、私たち一人ひとりの存在は「よい」ものであり、「美しい」ものであり、「値高く貴い」ものです(イザヤ書43章4節)。
私たちが「罪」をもっているということと、私たちの存在自体が「悪い」ことであるということは、まったく別のことです。私たちがたとえ「罪」をもっていても、それでもなお、私たち人間は根本的に、「よい」ものなのです。
わたしたちの目から見て、自分のこれまでの歩みがどれほど過ちで満ちていていようとも、自分という人間がどれほど「悪い」ものであると思えようとも、神さまの目から見て、私たち一人ひとりは「よい」ものです。創り主である神さまの目から見て、私たち一人ひとりは、極めて「よい」ものとして、映っています。
自分が“あるがまま”に受け止められている、と信じることができてこそ、私たちは率直に自分の過ちをも、自覚することができるようになってゆくのではないでしょうか。神さまの無条件の愛が土台にあるからこそ、私たちはまことの「罪の自覚」へと、導かれてゆくのだと思います。
「罪」よりさらに根本にある、神さまの「よい」という祝福の声
私たち人間の「罪」よりさらに根本にあるもの、それは、この神さまの「よい」という祝福です。私たちの「罪」よりももっと深いところで、この神さまの「よい」という“声”は響き渡っています。
この祝福の声は、天地創造のはじめから、私たち人間の歴史を貫いています。創世記1章はこのように記しています。《神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった》(創世記1章31節)。天地創造の第六日目、人間をお造りになった神さまは、つくられたすべてのものをご覧になって、おっしゃいました。《見よ、それは極めて良かった》! 神さまの「よい」という祝福の中で、一つひとつの被造物が、そして私たち一人ひとりが生まれ出たのです。そしていまも、この祝福の声は私たちを包んでいます。命のパン、命の泉はいつも私たちの内にあります。
「あなたが、あなたそのもので、在って、よい」――。復活のキリストを通していま語られているこの声に、私たちの心を開きたいと思います。