2019年5月19日「キリストの掟」

2019519日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:ヨハネによる福音書151217 

キリストの掟

  

 

賛美歌『いつくしみ深い』 ~まことの友なるイエス

 

皆さんの好きな賛美歌は何でしょうか。皆さんにそれぞれ、自分の好きな賛美歌、大切にしている賛美歌、思い出深い賛美歌があることと思います。私も好きな賛美歌はたくさんありますが、『まきびとひつじを』(『讃美歌21258番)『聞け、天使の歌』(同262番)など、幼い頃のクリスマスの思い出と結びついたクリスマス賛美歌が特に好きです。日本で作られた賛美歌の中では『馬槽のなかに』(同280番)が好きです。

 

たくさんの人に親しまれている賛美歌の一つに『いつくしみ深い』があります(『讃美歌21493番)1954年版の『讃美歌』では『いつくしみ深き』というタイトルでした(『讃美歌』312番)。日本で最もよく知られている賛美歌の一つでもあるでしょう。この曲のメロディーは文部省唱歌『星の世界』にも用いられました。

 

この曲の元々の英語のタイトルは「What a friend we have in Jesus」です。訳すと、「私たちはイエスという何と素晴らしい友をもっていることか!」という意味になります。この英語のタイトルにもありますように、この賛美歌の特徴はイエス・キリストを「友」と呼んでいるところですね。日本語訳でも《いつくしみ深い 友なるイェスは》という一文から始まります。

 

キリスト教はイエス・キリストを「神」として信仰しているわけですが、この曲ではその主イエスが同時に、まことの「友」であると謳われています。いつも自分の傍らにいて、自分の悩みや苦しみを何でも聞いてくれる「親友(ベスト・フレンド)」として主イエスのことを受けとめているのですね。

 

この賛美歌を作詞したのはジョゼフ・スクライヴンという人です。19世紀の人で、アイルランドで生まれ、ダブリンのトリニティ・カレッジで学んだ方であるそうです。

 

このジョゼフ・スクライヴンの生涯について調べると、大きな悲しみを幾度も経験された人であることが分かります。たとえば、彼には結婚を約束した人がいましたが、結婚式の前夜にお相手を事故で亡くなってしまうということがあったそうです。その後、失意のうちから立ち上がり、カナダで新しい女性と結婚の約束をしましたが、その相手も結婚直前に亡くなってしまいました(参照:日本基督教団讃美歌委員会編『讃美歌21略解』、日本キリスト教団出版局、1998年、308頁)。そのような深い悲しみを経験する中で、彼は数々の賛美歌を生み出していきました。『いつくしみ深い』の歌詞は、闘病中の母親を慰めるために書かれたとも言われています1865年発表)。主イエスを「友」と呼ぶこの歌には、ジョゼフ・スクライヴン氏自身の実感、それまでの人生の経験が込められているのだと思います。

 

改めて1番の歌詞をご一緒に見ていたいと思います。《いつくしみ深い 友なるイェスは/うれいも罪をも ぬぐい去られる。/悩み苦しみを かくさず述べて、/重荷のすべてを み手にゆだねよ》。

 作詞者のジョゼフ・スクライヴン氏も、立ち上がれないような心境の中で、その苦しみ悩みを隠さずすべて主イエスに訴えるということをしたのかもしれません。そしてその祈りの中で、主イエスが自分の重荷のすべてを共に担ってくださっていることを実感し、深い慰めを得た瞬間があったのかもしれません。

 

3番は日本語訳ではこのような歌詞になっています。《いつくしみ深い 友なるイェスは/愛のみ手により 支え、みちびく。/世の友われらを 捨てさるときも/祈りに応えて なぐさめられる》。

《世の友われらを 捨てさるときも》――とても力強い表現ですね。たとえ世の友が皆自分から離れ去っても、主イエスだけは自分から変わらず、自分の友でいてくださることの信頼が謳われています。裏切ることも離れ去ることもない、まことの友なるイエス。『いつくしみ深い』は自分たちにそのまことの友イエスが与えられていることの喜び、慰めを静かに、力強く、私たちに伝えてくれています。

 

 

 

「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」

 

 本日の聖書箇所では、主イエスが弟子たちのことを「友」と呼んでくださったということが記されています。ヨハネによる福音書1515節《もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである》。

 

 先ほど、『いつくしみ深い』では主イエスのことを「友」と呼んでいることを述べました。私たちが主イエスを「友」と呼ぶ前に、まず主イエスが私たちを「友」と呼んでくださったことが分かります。

 ここではその理由として、《父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである》と述べられています。《父》とは神さまのことです。神さまから聞いたことをすべて、あますところなく、あなたがたに伝えた。これは言い換えると、神さまの愛をすべて伝えた、と言うことができるでしょう。

 

主イエスは神さまの愛について、そのすべてを弟子たちに伝えてくださった。その言葉とふるまいを通して、そのご生涯を通して、愛を伝えてくださったことを福音書は証しています。この愛に心燃やされて、私たちもまた主イエスを「友」と呼ぶようにと招かれています。

 

 

 

「友」とは…… ~自分の存在を重んじてくれる人

 

 改めて、私たちにとって「友」とはどのような存在でしょうか。いろいろな言い方ができると思います。それぞれ、自分なりの表現ができるかと思います。いろいろな定義ができると思いますが、「友」の定義の一つとして、「自分の存在を重んじてくれる人」ということができるのではないでしょうか。自分の人格を尊重し、自分の存在を重んじてくれる人です。

 

どれだけ互いに軽口を叩いても、冗談を言い合っていても、心の底では、自分の存在を重んじてくれている。自分も相手をリスペクト(尊敬)し、相手の存在を重んじている。そうはっきりと感じ取ることができる間柄だからこそ、互いのことを「友」と呼びあえるのではないかと思います。

 

反対に、どれだけ表面的には親しげにしていても、内心では互いに相手のことを軽んじているのであれば、それは「友」とは呼べないでしょう。

 

また、相手を軽んじる想いがあれば、それは必ず伝わってしまうものです。私たちは、相手が自分のことを重んじてくれているか、それとも軽んじているかは直感的に分かります。重んじてくれていると感じたら、とても嬉しいし、相手に対する親愛の情や信頼が湧いてきます。反対に、軽んじられている――少し乱暴な言葉で言うと「なめられている」――と感じたら、とても悲しいし、侮辱されたように感じ自尊心が傷つけられます。自分のことを軽んじる言動を繰り返してくる相手とは私たちはもはや友だちになりたいとは思わないし、もはや相手のことを信頼しようとも思わないことでしょう。

 

 

 

私たちを極みまで「重んじてくださる」主イエス

 

福音書が証しているのは、主イエスが私たちの存在を極みまで「重んじてくださった」方であるということです。その言葉をもって、その振る舞いをもって、主イエスは私たち一人ひとりの存在を価高く貴いもの(イザヤ書434節)として、重んじてくださいました。

 

十字架の出来事も、主イエスが私たちをどこまでも「重んじてくださった」ことを示しています。主イエスは私たちの存在を極みまで重んじるゆえ、私たちのために命を捨ててくださいました。主イエスはおっしゃいました。《友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない13節)

 

『いつくしみ深い』の3番には《世の友われらを 捨てさるときも/祈りに応えて なぐさめられる》という一節がありました。世の人々が自分を捨て去り、どれほど軽んじようと、主イエスはあなたを極みまで「重んじ」、価高く貴いものとして見つめ、愛し続けてくださる方です。そのように私たちをどこまでも重んじてくださる方であるからこそ、私たちは主イエスをまことの「友」と呼び、全幅の信頼をもって相対することができるのです。

 

 

 

キリストの掟 ~互いに愛し合いなさい

 

 本日の聖書箇所の締めくくりには、イエス・キリストが伝えてくださった新しい掟の言葉が記されています。その新しい掟とは、「互いに愛し合う」というものでした。《互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である17節)。冒頭では《わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい12節)と語られています。

 

 主イエスが私たちを愛してくださったように、私たちも互いに愛し合うこと。本日はこの掟を、「主が私たちを重んじてくださったように、私たちも互いを重んじあう」ことの大切さを語る戒めの言葉として受け止めたいと思います。

 

人格をもった、かけがえのない存在として、互いの存在を重んじあうこと。相手を見下したり、軽んじたりするのではなく、互いに重んじること。この戒めの言葉を実現しようとする中で、私たちもまた、互いにまことの「友」となってゆくことができるのだと思います。またそして、相手の存在を重んじる姿勢というのは、私たちのあらゆる人間関係の土台となってゆくものでもありましょう。

 

 もちろん、自分が相手のことを重んじようと努めても、相手にその気持ちがない場合もあるでしょう。相手が自分のことを軽んじているのに、それでも相手の「友」でい続けようとすることは、私たちには難しいものです。それを成し遂げることができるのは神の御子である主イエスお一人だけです。その意味で、私たちはすべての人と「友」になるのは難しいことでしょう。私たち人間の関係性においては、「互いに」尊重しあうこと――相互性が重要であるからです。一方通行では、私たちはまことの「友」なる関係性を作ることができません。

 

場合によっては、自分を軽んじ傷つけてくる相手と物理的、心理的に距離を取ることも必要であるでしょう。私たちはもはや自分を犠牲にして、苦しみに耐え忍び続ける必要はありませんし、そうすべきではありません。私たちは自分が「軽んじられる」ことの痛みに慣れてはいけません。その不当な痛みは、神さまの目に「あってはならない」痛みであるのです。かけがえのないあなたが傷つき苦しんでいることを神さまは望んでおられません。

 

また、他者を軽んじる言動に対して「否」を言うことも、私たちには重要なことでしょう。私たちは他者が軽んじられ傷つけられている現実に対しては、立ち上がり、はっきりと「否」を言うことが求められています。

 

 

 

互いを「軽んじる」ことの連鎖を断ち切る

 

 自分を軽んじ傷つけてくる人と「友」となることは、私たちには現実的には困難ことです。しかし少なくとも、自分を軽んじるその人も、神さまの目から見ると価高く貴い存在であることを思い起こすことはできます。そのことを思い起こし、少なくとも、自分からその人を軽んじるような言動はしない、そのような言動は慎む、ということは私たちにはできるでしょう。

 

たとえ相手が自分を軽んじ傷つけてきても、怒りと報復感情に駆られて同じように相手を実際的に軽んじ傷つけようとはしない。それもまた、相手の存在を尊重し、重んじる一つの態度でありましょう。また、別の誰かにその怒りの矛先を向け、相手を軽んじ傷つけることはしない。その姿勢を祈り求めてゆくとき、私たちは互いを「軽んじる」ことの連鎖を断ち切る一歩をすでに踏み出していることになります。その一歩一歩の積み重ねが、少しずつ、私たちの間に平和を作り出してゆくでしょう。そしてそれ以上のことはもはや神さまの領分――肩に食い込む重荷を下ろし、あとは神さまの御手にお委ねするのです。

 

もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。…わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである》――私たち一人ひとりを極みまで重んじ、私たちを「友」と呼んでくださる主の愛に、いま私たちの心を開きたいと思います。