2019年6月30日「イエス・キリストの名によって
2019年6月30日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:使徒言行録4章5‐12節
「イエス・キリストの名によって」
聖霊降臨節
私たちは現在、教会の暦で聖霊降臨節の中を歩んでいます。聖霊降臨とは、イエス・キリストが復活された後、弟子たちの上に聖霊が降った出来事のことを言います。聖霊とは、「神の霊」ということです。聖霊降臨節は聖霊のお働きを信じ、その導きを祈り求めつつ歩む時期です。
目には見えない聖霊を、聖書はさまざまなイメージで表しています。たとえば、「鳩」。聖書には、イエス・キリストが洗礼を受けられたとき、聖霊が鳩のように降ってきた、という記述があります(マタイによる福音書3章16節)。また、聖書では聖霊は「風」や「火」のイメージで表されることもあります。
日本に住んでいる私たちがしてしまいがちなことは、「精霊」という言葉と混同してしまうことであると思います。「精霊」は自然的な霊を意味する言葉です。草花や樹などの自然に宿る霊ですね。一方で、聖書で用いられているは「聖霊」という言葉です。「せい」という字の表記が異なっていますね。先ほど述べましたように、聖書では「神の霊」を意味するものとして、この「聖霊」という言葉を用いています。
キリスト教は伝統的に、天の神、御子イエス・キリストと共に、聖霊を信じる対象として大切にしてきました。目には見えないけれども、私たちと共にいてくださるのが聖霊なる主です。
聖霊の働き ~自由に物が言えるように
いまご一緒に新約聖書の使徒言行録4章をお読みしました。使徒言行録はイエス・キリストが復活された後、聖霊が降った弟子たちの言行(言葉と振る舞い)を記した書です。主人公は弟子たちですが、弟子たちを力づけ、導くのは聖霊です。その意味で、使徒言行録の真の主人公は、弟子たちと共にいて働いてくださる聖霊なる主であるということができるでしょう。
使徒言行録を読んでいて印象に残るのは、自分たちを敵視する人々の前であっても臆することなくイエス・キリストについて語る弟子たちの姿です。本日の聖書箇所でもそのような場面が描かれていました(使徒言行録4章5-12節)。宗教的な権力者たちに取り囲まれて尋問される中、ペトロはイエスこそがキリスト(救い主)であることを力強く証ししています。通常なら、その圧力の中、恐ろしくなって何も言えなくなってしまうところを、ペトロたちは語るべきことを隠さず述べました。
本日の聖書箇所の少し後には、ペトロたちが《大胆に神の言葉を》語ったという一文が記されています(4章31節)。《祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした》。
《大胆に》と訳されている言葉は、「率直に」とも訳すことができる言葉です。この語はもともとは、《あらゆることを言える自由》を表している語であるそうです(ギリシア語新約聖書釈義辞典Ⅲ、教文館、1995年)。自分が感じていること、思っていること、心の中にある事柄を何でも言える自由。とりわけ、自分が心から大切に思っている事柄をはっきりと言葉にして伝えることができる自由。このような自由は、私たちにとってとても大切なものですね。
使徒言行録が語るのは、弟子たちがその自由、大胆さを与えられたのは、聖霊の力によるのだということです。聖霊に満たされた弟子たちは、《大胆に(自由に、率直に)神の言葉を》語るよう導かれてゆきました。
以前の彼らは、そうではありませんでした。主イエスが宗教的な権力者たちによって逮捕されてしまった際、弟子たちは主イエスを見捨てて逃げてしまいました。ペトロは主イエスを「知らない」と否定してしまいました。主イエスが十字架刑によって殺されてしまった直後、弟子たちは恐れに囚われ、言葉を発することもなく家の中に閉じこもっていました。
その彼らが、復活のキリストと出会い、聖霊の力に満たされることにより、変えられてゆきました。これらのことから、聖霊のお働きの一つに、私たちの内から怖れを取り除き、「自由に物が言えるように」してくださることがあると言えるのではないでしょうか。
空気の支配 ~自由に物が言えないように
一方で、私たちは日々の生活のさまざまなところで、「自由に物が言えない」場面に出会うことがあります。自分が思っていることを自由に口にできないことは、私たちにとってとても苦しいこと、辛いことですよね。
日本語特有の表現として、「場の空気」という言葉があります。もちろん、その場の空気というものは目には見えません。目には見えないけれども、私たちが知らず知らず、その空気に大きな影響を受けています。場合によっては、場の空気は大きな力で私たちを支配します。
たとえば、「あの場の空気では口に出せなかった」という経験を誰しもがしたことがあると思います。話し合われていることに本当は疑問を感じていたのだけれども、その場の空気を壊すことが何だか怖くて、発言することができなかった……などなど。私たちが生活している日本という国は、特にこの「空気の支配」が顕著だという指摘もあります(山本七平『「空気」の研究』、文春文庫、1983年)。「同調圧力」という言葉でも言い換えることができるでしょう。
「空気を読む」という言葉もありますね。私たちの社会では、「空気を読む」ことが重視され、反対に、「空気を読まない」ことを否定的に捉える傾向があります。いまから12年前、2007年には「KY(『空気が・読めない』のイニシャル文字)」という言葉が流行語大賞に選ばれたことがありました。
もちろん、「空気を読む」ことは私たちのコミュニケーションを円滑にします。良いように働く面もあります。一方で、「空気を読みすぎる」ことの弊害もあるのではないでしょうか。そこにいる人が「場の空気」に支配され、主体性が奪われてしまうという弊害です。自分の想いや考えを自由に、率直に口に出来ない。言うべきことを口にすることができないという事態が生じてしまうのです。
そのように物が言えなくなることが、状況を悪化させていってしまうこともあります。本当はブレーキをかけて、ストップしなくてはいけないのに、空気の支配を受けて、その場にいる皆が「ストップ」と口に出せない。否定的な方向に向かって進んでいっている状況に対して、「NO」と言えない。もし何か異を唱えると、皆から一斉に批判されるかもしれないことが恐ろしい……。
しかし、状況が取り返しがつかないところまで悪化することを食い止めるためにも、私たちは時に、場の空気を壊してでもはっきりと物を言わねばならない瞬間があることでしょう。
イエス・キリストは「KYな人」(!?)
新約聖書の福音書を読んでいて分かることは、イエス・キリストはその場の空気を壊すことを恐れなかった、ということです。一部の人々にとっては、主イエスは明らかに「KYな(空気が読めない)人」(!)として映っていたことでしょう。
主イエスは権力者たちを前にしても、言うべきことをはっきりと口に出されました。曖昧に語るのではなく、自由に、率直に、言うべきことをお語りになりました。その言葉に基づいて、誠実に行動をなさいました。主イエスを敵視する宗教的な権力者たちにとってはそれらは「KY(空気を読まない)」言葉と振る舞いだったかもしれませんが、その言葉と振る舞いが場の空気を変え、状況を揺り動かし、新しい未来を切り開いてゆきました。否定的な力に支配されていた人々に解放をもたらし、真の自由をもたらしてゆきました。
私たち一人ひとりに主体性を取り戻し、人間としての尊厳を回復させるため、主イエスはあえて「空気を読まない」言葉を発し続けてくださったのだと言えるでしょう。たとえ権力者たちがご自分を殺害する計画を立てていても、主イエスは「大胆に神の言葉を」お語りになることを止めませんでした。
イエス・キリストの名によって
先ほど、聖霊の働きの一つについて、私たちの内から怖れを取り除き、「自由に物が言えるように」してくださることがあるのではないか、ということを述べました。かつて主イエスが「大胆に神の言葉を」お語りになったように、私たちも「大胆に神の言葉」を語ることができるようにしてくださる、その力を与えてくださるのが聖霊なる主です。私たちがイエス・キリストの名によって、自由に、率直に、言うべきことを口にする力を与えてくださるのが聖霊なる主です。
改めて、本日の聖書個所のペトロの言葉をお読みいたします。ペトロは宗教的な権力者たちを前に、聖霊に満たされて、語るべきことを大胆に語りました。
《そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った。「民の議員、また長老の方々、/今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、/あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。/この方こそ、/『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、/隅の親石となった石』/です。/ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」》(8-12節)。
聖霊なる主は目には見えませんが、いつも私たちと共にいて、働いていてくださいます。私たちがイエス・キリストの名によって、真理を語る力を与えてくださいます。
私たちに主体性を取り戻し、言葉を取り戻してくださる聖霊なる主に、ご一緒に助けを祈り求めたいと思います。