2019年8月25日「希望を持って忍耐する」

2019825日 花巻教会 主日礼拝説教 

聖書箇所:テサロニケの信徒への手紙一1110 

希望を持って忍耐する

 

 

ノストラダムスの大予言

 

1970年代にノストラダムスの大予言という予言が社会現象になりました。「19997の月に、空から恐怖の大王が降ってくる」という内容のものです。ブームを作り出したのは1973年に発行された『ノストラダムスの大予言』(五島勉、祥伝社)という本であったと言われています。この本ではノストラダムスの予言の言葉を「人類の滅亡」と結び合わせる解釈をし、それが思わぬ反響を呼んでゆくこととなりました。当初は著者も編集者もそこまで売れるとは思っていなかったそうですが、わずか3か月でおよそ100万部の売り上げを記録します。当時子どもだった方の中には、本当に1999年に人類が滅びると信じてしまった人も数多くいたのではないでしょうか。「もし1999年に世界が滅びるのなら、学校での勉強なんて意味ないんじゃない?」、「もし世界がもうすぐ滅びるのなら、テスト勉強をする意味もないんじゃない?」と一度は思ったことがある人は多いのではないかと思います。中には、予言の内容を信じるあまり、将来を悲観し自暴自棄になってしまった若者もいたかもしれません。

 

それほどブームになった背景には、当時の世界の情勢も関係していたでしょう。70年代は深刻な公害問題、環境汚染の問題が広く取り上げられるようになった時代です。また当時、世界は冷戦状態にあり、核戦争への不安が人々の心を捉えていました。当時、人々の心を捉えていたいわゆる「終末意識」のようなものと、ノストラダムスの予言がぴったり合致した部分があったのかもしれません。その後、80年代、90年代になっても、ノストラダムスの大予言は関心をもってテレビや雑誌で取り上げ続けられました。

 

予言されていた年の1999年、私は高校1年生でした。大ブームとなった70年代当時のことは私はまだ生まれておらず知りませんでしたが、予言についてはテレビ番組などを通して知っていました。

 

いよいよ7月になろうとする時。数日前くらいまでは予言のことを思い出して不安になっていましたが、不思議なことに、いざ7月になった当日は、予言のことは忘れてしまっていました。2日ほど経った頃、そういえばもう7月になってたんだな、何だ、やっぱり何も起こらなかったな、と確認し直したものです。まことにあっけのないものでした。

 

予言の通りには何も起こらなかったわけですが、しかしこのノストラダムス現象が私たちの社会に与えた影響というのは、少なくないものであったのではないでしょうか。人々の意識に何らかの影響を――もしかしたら何か暗い影を落とす、否定的な影響を――与えたことは間違いないでしょう。1980年代以降の新興宗教にも影響を与えたという指摘もあります。特にオウム真理教の世界観に影響を与えたという指摘があることは看過できない事柄であるでしょう。

 

ちなみに『ノストラダムスの大予言』の著者の五島勉氏は今年テレビ番組の取材に答え、当時のことを振り返り、「子どもたちには謝りたい。子どもが読むとは思わなかった」と語ったそうです。

 

 

 

聖書における終末思想と再臨信仰

 

 聖書にも終末(終わりの日)について語っている言葉があります。聖書の最後に位置付けられている『ヨハネの黙示録』などがその代表ですね。

 

キリスト教が誕生して間もない頃、キリスト教徒たちは「世界の終わりは近い」と考えていました。そして終わりの日が来たとき、「イエス・キリストが再び到来(再臨)する」と信じていました。本日の聖書箇所にもそのことを語る言葉がありました。テサロニケの信徒への手紙一110節《更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです》。ノストラダムスの予言では「恐怖の大王が空から降ってくる」と語られていたわけですが、初代のクリスチャンたちは「イエス・キリストが天から再び来られる」と信じていたのですね。しかも、その時は近いのだ、と。

 

 ですので初代のクリスチャンたちは現代の私たちとはまた異なった意識で生活していたことが分かります。世界の終わりが近い、もうすぐキリストが再び来られる、という非常に切迫した意識で生活していたのです。本日のテサロニケの信徒への手紙一もそういう意識の中で書かれています。そういう事情を汲み取りつつこれらの言葉を読むと、より理解を深めてゆくことができるのではないかと思います。

 

一方で、その後、教会が直面してゆくのは、「終末がなかなか到来しない」という状況です。実際、それから2000年が経った現在も、変わらず人間の歴史は続いているわけですよね。当時も、第2世代、第3世代へと世代交代がなされるにつれ、当初の終末に対する切迫した意識というのは薄れてゆくことになります。そうして終末に備えるというよりは、生まれ出たキリスト教をいかに守り育んでゆくか、ということに意識の重点が移ってゆくようになります。

 

では、イエス・キリストが再臨するというには嘘だったのか、というと、教会はそうは捉えませんでした。嘘だったのではなく、到来が「遅れている」だけだ、と。そのようにしてイエス・キリストの再臨への信仰は失われることなく、現在に至るまで受け継がれています。

 

もちろん、個々人によって、教会にとって、再臨信仰をどれほど重視するかは相違があります。普段はあまり再臨を強調しない教会もあるでしょうし、一方で、再臨をとりわけ重視して活動している教会もあるでしょう。

 

 

 

「神は正しい方である」ことへの信頼を土台として

 

『ノストラダムスの大予言』と聖書の終末についての言葉について語りました。両者にはさまざまな点で相違がありますが、その違いの一つに、『ノストラダムスの大予言』では世界の終わりを恐ろしいもの、否定的なものとして捉えられているのに対し、聖書では終末を否定的なものとしては捉えていない、という点があると思います。むしろ聖書は終末に希望を置いています。ここが大きな違いなのではないでしょうか。世界の終わりが到来するとき、神の正義が実現される。ここに、聖書は大きな希望を置いているのです。

 

 私たちがいま生きている社会は、現実には、不正義が横行している。正しいことをしたはずの人がないがしろにされ、悪しきことをした人が大手を振って歩いている。人間の尊厳がないがしろにされている状況が至るところにある。しかし、神はこの不正義を決して見過ごしにはなさらない。イエス・キリストが再び天から来られるとき、「正しいこと」「正しくないこと」をはっきりさせてくださる。神の正義と平和を実現してくださる。だからいまは苦しくても、その時が来るのを希望として、共に忍耐しよう――そのように初代のクリスチャンたちは考えていたのだと受け止めています。「神は正しい方である」ことへのまっすぐな信頼がその土台にあります。

 

 終末思想や再臨信仰は、現代に生きる私たちからすると時に滑稽に思えることがあるかもしれません。聖書が書かれてから2000年も経ったのに、いまだ世界の終わりは来ていない。それでもなお、終末や再臨を信じることはおかしなことだ、非現実的なことだ、と思えてしまうことがあるかもしれません。しかしいま述べた点を踏まえるとき、また新たな視点でこれらの信仰を捉え直すことができるのではないでしょうか。

 

たとえいまは正しくないことが横行し、人々の尊厳がないがしろにされている現実があるとしても、神はその現実を決して見過ごしにはなさらない。「神は正しい方」。いつか必ず、神の正義の光を実現してくださる。平和を実現してくださる。だから私たちも決してあきらめることなく、なすべきことをすることに努めてゆこう――。私たちの心にそのような希望をともしてくれるのが、聖書の再臨についての言葉です。非現実的なものであるというより、むしろ私たちのまなざしを現実に向け直し、現実に根差して生きるよう励ましてくれるのがこれらの言葉なのではないでしょうか。

 

 

 

不安を煽るのではなく、希望をともすもの

 

 聖書が語る本来の終末思想というのは、このように私たちの心にむしろ希望をともしてくれるものです。キリスト教界の中には、「世界の終わりが来る」ということを過度に強調し、そのことによって人々の不安を煽ろうとしているグループ・団体もあります。私はこのような言説には注意が必要であると考えています。不安を煽ることによって人々を支配しコントロールしようとする、否定的な動機付けがその裏にあるかもしれないからです。終末思想や再臨信仰を希望をもって語るのではなく、「不安を煽る」ために語っている団体があれば、注意が必要でしょう。場合によっては、カルト的な団体である危険性もあります。

 

 

 

《それはおそらく君と僕の時代ではないだろうけれど》

 

 聖書の終末思想・再臨信仰の土台には「神は正しい方である」ことへの信頼があるということを述べました。その正しさとは、尊厳がないがしろにされている現実を決して見過ごしにはなさらない、という正しさです。私たちはこの神の正義に信頼を置くとともに、私たちもまたこの神の正義と平和を実現するために働くことが求められています。

 

 まことの正義と平和は、私たちが生きている間には実現されないかもしれません。しかしいつの日か必ずその日は来る――このことを信じ、私たちの希望として歩みたいと思います。

 

 最後に一曲、歌をご紹介したいと思います。Someday At Christmas(サムデイ・アット・クリスマス)という曲です。真夏の暑さの中(!)ですが、クリスマスソングをご紹介します。聴いていただくのはスティーヴィー・ワンダーのカヴァーバージョン1967年、Written by Ronald N. Miller and Bryan Wells。タイトルの「サムデイ・アット・クリスマス」とは、未来の「いつかのクリスマスに」という意味です。歌詞(日本語訳)の一部を引用します。

 

 いつかのクリスマスには、人々は成し遂げる/憎しみは消え去り、愛が勝利する

いつの日か新しい世界が始まるだろう/皆の胸に希望が満ちた

いつの日かすべての人の夢が実現し、/いつの日か皆が自由な世界になり

それはおそらく君と僕の時代ではないだろうけれど、でもいつかのクリスマスの日に

  

このカヴァー曲が発表されたのはベトナム戦争が激化していた時期でした。アメリカ国内において反戦運動の波も高まっていました。自分たちの目の前には戦争、人種差別をはじめとする悲惨な現実がある。いま自分たちが迎えているクリスマスは、悲しみのクリスマス。しかし、いつかのクリスマスには、憎しみも悲しみも消え去り、まことの平和が実現する。その日が来ることを信じ、その「いつかのクリスマス」への希望を歌う曲です。

 

歌詞の中に《それはおそらく君と僕の時代ではないだろうけれど》という一節があります。《でもいつかのクリスマスの日に》それが実現することを私たちは願い、希望とする。この姿勢はまさに、聖書が伝える信仰と通ずるものがあるのではないでしょうか。

 

♪『Someday At Christmas(サムデイ・アット・クリスマス)

 

 神の正義と平和は、私たちが生きている間には完全には実現されないのかもしれません。これからも、長い長い時間がかかることでしょう。しかしいつの日か、必ず神の正義と平和はこの地上に実現される。そのことを信じて、自分たちにできることを一つひとつ、行ってゆきたいと思います。