2019年8月4日「命と平和の主」

201984日 花巻教会 平和聖日礼拝説教

聖書箇所:フィリピの信徒への手紙413

命と平和の主

 

 

平和聖日礼拝

 

本日はご一緒に平和聖日礼拝をおささげしています。私たち花巻教会の属する日本キリスト教団では8月の第一週の日曜日を「平和聖日」と定めています。平和について考え、平和への祈りを共にする日です。

 

8月は私たちにとって、忘れてはならないさまざまな出来事があります。194586日、広島にアメリカ軍によって原子爆弾が投下されました。その3日後の89日には長崎に原爆が投下されました。

 

同日、岩手県の釜石では、アメリカ・イギリス両海軍による艦砲射撃がありました。7月の艦砲射撃に続いて2回目の砲撃でした。この日、釜石の街に2,781発以上の砲弾が打ち込まれたそうです。この2度の砲撃により街は廃墟と化しました。

 

ここ花巻でも、810日にアメリカ軍による空襲がありました。花巻空襲と呼ばれています。加藤昭雄氏の『花巻が燃えた日』(熊谷印刷出版部、1999年)によると、花巻空襲による死者は少なくとも47名、身元の分からない人々を加えると60名近く、あるいはそれ以上にのぼるとのことです。最も被害を受けた場所の一つが花巻駅前で、駅のロータリーには現在、「やすらぎの像」が建てられています。この像は1995年に花巻空襲50周年を記念して建立されました。また、この花巻空襲によって、教会が隣接する上町・双葉町・豊沢町一帯には大火災が発生しました。この大火災によって673戸もの建物が焼失したとのことです。

 

様々な悲惨な出来事を経て、815日、私たちの国は敗戦を迎えました。

 

 

 

平和 ~一人ひとりが大切にされること

 

改めて、「平和」についてご一緒に考えてみたいと思います。「平和」とは反対の言葉として、よく挙げられるのは「戦争」です。平和が失われた状態の最たるものは戦争でありましょう。先ほど述べましたように、戦争は多くの人々の生命と尊厳を奪うもの、決して引き起こしてはならないものです。

 

 と同時に、平和とは、「戦争がない」状態だけを指すのではありません。たとえ国と国との間に戦闘行為が生じていなくても、平和ではない状態というのは様々なところで起こり得ます。たとえば、差別や貧困や格差が生じているとしたら、それは平和ではない状態であることになるでしょう。

 

私たちが生きているこの日本という国は、敗戦から今日まで74年間、日本は国家間の戦争を行わなかったという意味では「平和」であったでしょう。しかし、では私たちが生きる社会が本当に平和だったかというと、そうとは言えないでしょう。たとえ戦争が起こっていなくても、様々な悲惨な出来事や事件が数えきれないほどに起こってきました。いまも、心が引き裂かれるような悲惨な出来事、事件が絶えません。

 

その意味で、まことの平和とは、「戦争がない状態」を意味するのみならず、「一人ひとりが大切にされている状態」を指すのだと受け止めることができます。一人ひとりが大切にされることが、平和――そう考えるとき、いまの私たちの社会がいかに「平和ではない」状態にあるかが痛感させられます。一人ひとりが大切にされない状況が、至る所で生じてしまっていると思うからです。

 

 

 

「平和運動」の陰で、身近な人に対して人権侵害が行われていた事例

 

 昨年末から今年のはじめにかけて、世界的に著名なフォトジャーナリストの男性(広河隆一氏)が身近な女性に性暴力やハラスメントを行っていたことが告発され、大きな問題となりました。この方はパレスチナ問題、原発問題、沖縄の基地問題など、さまざまな社会問題に熱心に取り組んでいた人です。たくさんの講演を行い、たくさんの本も出しています。人権の大切さを訴え、「平和運動」に取り組んでいたはずの人が、実は、身近な女性の人権をないがしろにしていた。このことを知り、私もショックを受けると共に、深く考えさせられました。この度の事件は氷山の一角で、このようなことは様々なところで起きているし、これまでも数多く起こってきたのではないかと思いったのです。被害にあった人々が泣き寝入りさせられてきただけで、このようなことは私たち人間の歴史において数限りなく起こり続けてきたのではないか。

 

昔は「ハラスメント」という言葉自体、存在していませんでした。被害を受けた人は、自分が経験していることの辛さを言葉にすることもできず、誰かに訴えることもできず、人知れずただ独りで苦しみ続けていた、ということがきっと数多くあったことでしょう。

 

近年になってようやく性暴力やハラスメントがはっきりとした人権侵害として認識されるようになり、勇気をもって声を上げる人とその支援の輪が広がり始めているので、少しずつ被害の実態が明らかになり始めているということなのだと思います。そしてそのように泣き寝入りさせられてきた被害者の多くが、女性、子ども、障がいをもつ方など、弱い立場にある人々です。

 

社会的に大きな働きがなされる陰で、実は誰かが搾取され犠牲とされているということが、今日も私たちの身近なところでも起こっているのかもしれません。

 

 

 

ハラスメントの問題

 

 最近はハラスメントの問題が改めて取り上げられるようになりました。「ハラスメント」とは、皆さんもご存じのように、「嫌がらせ、いじめ」を意味する言葉です。セクシュアルハラスメント、パワーハラスメント、モラルハラスメント、アカデミックハラスメントなど、様々なハラスメントがあります。ハラスメントは「嫌がらせ」という言葉以上のもの、「精神的な暴力」であり、はっきりとした人権侵害です。ハラスメント被害に逢うと、人は社会的な不利益を受けるだけではなく、自尊心が低下し生きる意欲が吸い取られたようになり、場合によっては抑うつ状態や、深刻な心身の不調に陥ります。

 

 ハラスメントの名称は多岐に渡りますが、共通している要素があります。その共通点の一つは、立場が上にある人が、その立場を利用して、立場の弱い人に対して行っている、という点です。職場で、大学で、家庭で、立場が上にある人がその権限を利用して、相手に一方的に自分の想いや欲求を押し付けたり、嫌がらせをしたり、相手を思い通りにコントロールしようとするところに共通点があります。先ほどのフォトジャーナリストの男性も、「世界的に著名なフォトジャーナリスト」という自分の立場を利用し、フォトジャーナリストを志望して彼の元に集まってくる若い女性たちに性暴力やハラスメントを行っていたことが明らかにされています。

 

  そのジャーリストの悪質な行為は、長い間明るみに出されることはありませんでした。なぜ長きに渡って、明らかにならなかったのでしょうか。要因の一つとして、被害に遭った女性たちが声を上げられぬよう、その男性が巧妙に支配とコントロールを行っていた、ということがあったでしょう。女性たちは、彼の怒りを買えば、職場やフォトジャーナリストの世界に自分がいられなくなってしまうのではないかという恐怖を絶えず感じていたようです。だから辛くても、嫌々従うしかなかった。また、性暴力やハラスメント被害の特徴として、「自分が悪い」という罪悪感が植え付けられてゆくことがあります。本当は被害者であるはずなのに、自分が悪い、自分にも非があった、と罪悪感を植え付けられてゆくのです。

 

恐怖や罪悪感によって支配される中で、被害に遭った方々は次第に自ら声を上げることができなくなっていったのかもしれません。深刻な被害の実態を周囲に気付かれることなく、被害者自身は声を奪われどんどんと孤立し追い詰められてゆくところが、ハラスメントの恐ろしいところの一つです。

 

 

 

「ある目的のために誰かの犠牲を必要とする」構造を許容しない

 

 また、被害に遭ったある女性は、そのフォトジャーナリストの男性を中心にして行われている様々な社会的活動の妨げになるから、声を上げることができなかった、と証言していました。そのジャーナリストの男性はいくつもの市民団体を立ち上げ、社会的にも大きな働きを果たしてきました。自分が問題化するとそれらの大切な活動の妨げになるから、自分が我慢すればいい、と長らく思っていたようです。

 

 このようなことは、この度の事件だけではなく、これまでの歴史において数多く起こっていたのではないでしょうか。歴史に名を残す働きをした指導者たちの中にも、たまたま明らかにされなかっただけで、身近な人にハラスメントや人権侵害を行っていた人はいたのかもしれません。平和運動や差別問題に取り組み、社会的に大きな働きをする一方で、身近な人に対しては非人間的な振る舞いをしていた人はいたのかもしれない、と思います。しかし、被害を受けている人は、声を上げることができなかった。

 

人は何か大きな目的や使命感をもって邁進すればするほど、その責務に伴う過度なストレスやプレッシャー、自分では処理しきれない心の葛藤を誰かにぶつけることで解消しようとすることがあります。誰かにぶつけることで、一時的にそれらが解消されたように本人は錯覚するのです。もちろん、そのような身勝手な行為はゆるされることではありません。標的にされてしまった人はどれほど苦しい想いをすることでしょうか。けれども、私たちは時に、自分が正しいことをしていると確信するあまり、その他者の痛みに対する感受性を一時的に失ってしまうことがあるのです。

 

 素晴らしい業績を残したのだから、一部の人が犠牲にされても仕方ない、という考えもあるかもしれませんが、私は決してそうは思いません。どれほど素晴らしい業績を残そうと、社会的に大きな貢献を果たそうと、見えないところで誰かが犠牲にされてしまっているなら、その活動はどこかが間違っているのではないでしょうか。「ある目的のために誰かの犠牲を必要とする」構造を、もはや私たちは許容してはならないのだと思います。

 

 

 

「互いを大切にする」ことを通して、「神の栄光」が輝いてゆくように

 

 このことは、教会においても当てはまることでしょう。「神さまの栄光のために」「伝道のために」という目的の陰で、教会のメンバーの誰かが犠牲を強要されたり、その尊厳が軽んじられるということは起こり得るものです。だからこそ私たちは常に自戒をし、そのような状況が生じないよう最大限に気をつけてゆかねばなりません。

 

本日の聖書個所にはエボディアとシンティケという二人の女性の名前が出てきました。《わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。/なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです(フィリピの信徒への手紙423節)。

 

聖書が記された当時、女性の地位は低くされていました。生活の様々な場面において、人としての当たり前の権利が制限されていました。そのような中にあって、この聖書箇所では性別ではなく互いに「一人の人間」として尊重しあい、共にキリストのために働いている様子が伺われます。私たちが「互いを大切にする」ことを通して、この社会に「神の栄光」が輝いてゆくことを切に願うものです。

 

 

 

一人ひとりが神の目に「かけがえのない=替わりがきかない」存在

 

今日は平和についてご一緒に考えてみました。平和とは、一人ひとりが大切にされること――。そのように受け止め、従来の平和運動や教会の活動の陰に隠れていたハラスメント問題についても取り上げました。平和を祈り求めるにあたって、これから私たちはハラスメントについてもより深く学んでゆく必要があると思っています。性暴力やハラスメント問題に取り組むこともまた、平和への重要な取り組みの一つです。

 

聖書が私たちに伝えてくださっているメッセージがあります。それは、「神さまの目から見て、私たち一人ひとりの存在がかけがえなく貴い」ということです。「かけがえがない」とは、「替わりがきかない」ということです。私たち一人ひとりはかけがえがない存在=替わりがきかない存在。だからこそ、大切であるのです。 誰一人、犠牲になってよい人はいません。この私も、目の前にいるあなたも、共に、神の目に大切な存在です。このことをしっかりと心に刻み込むところから、私たちの間に、平和が創り出されてゆくのだと信じています。

 

 イエス・キリストは《平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる(マタイによる福音書59節)とおっしゃいました。私たちはそれぞれ、平和を実現する使命をイエス・キリストから託されています。一人ひとりが大切にされる平和な社会を目指し、これからも共に歩んでゆきたいと願います。