2020年10月4日「神の愛から、私たちを引き離すことはできない」
2020年10月4日 花巻教会 召天者記念礼拝
聖書箇所:ローマの信徒への手紙8章35-39節
「神の愛から、私たちを引き離すことはできない」
召天者記念礼拝
本日は、天に召された方々を覚えて、召天者記念礼拝をおささげしています。
この1年、私たちは愛する方々を神さまのもとにお送りしました。3月26日、Kさんが神さまのもとに召されました。3月28日、花巻教会にてご葬儀が執り行われました。77歳のご生涯でした。
6月28日、Mさんが神さまのもとに召されました。7月1日、花巻教会にてご葬儀が執り行われました。86歳のご生涯でした。
Kさん、Mさんのご遺族の皆様の上に、また今朝、愛する方々を覚えてこの礼拝に集ったお一人お一人の上に、神さまの慰めとお支えがありますようお祈りいたします。
神の愛から、私たちを引き離すことはできない
いまご一緒に新約聖書のローマの信徒への手紙8章35-39節をお読みいたしました。後半にこのような一節がございました。38-39節《わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、/高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです》。
どんなものも、神さまの愛から私たちを引き離すことはできないことを力強く宣言している言葉です。これまで、この聖書の御言葉に励まされてきた方がいかにたくさんいることでしょう。
「引き離される」ことに直面した年
一方で、今年2020年は「引き離される」ことに直面した年であることを思わされます。新型コロナウイルスの国内外の感染拡大により、私たちは突然、様々なものから引き離される経験をいたしました。愛する家族や友人から、学校や会社などの属しているコミュニティーから、それまで自分が身を置いていた様々なものから引き離されました。
いまや「ソーシャルディスタンス(社会的な距離)」もすっかり定着した言葉となりましたが、感染防止のために物理的な距離を取らざるを得ないという、まったく新しい事態に私たちはこの半年、直面し続けています。昨年までは、まさか世界がこのような状況になるとは私たちは夢にも思ってはいませんでした。
緊急事態宣言が出されていた時期は国内の多くの学校や大学は休校へ。お店も時短や休業を余儀なくされました。会社の仕事もテレワークが推奨、会議もオンライン会議が導入されるようになりました。キリスト教会においても、多くの教会が会堂での礼拝を休止にしました。病院や施設での面会も制限。この夏のお盆は、かなりの人が帰省を取り止めました。またこの半年、予定されていた様々な大切な大会や行事も中止を余儀なくされました。
これらのことを振り返ります時、私たちはこの半年、互いに「物理的に引き離される」経験をしただけではなく、それまで自身が心のよりどころとしてきたもの、長い時間をかけて築き上げてきたもの、懸命に努力をし続けてきた夢や目標からも「引き離される」経験をしたのだと言えるでしょう。このことによる影響、ショックは計り知れないものがあることと思います。いまも多くの人がその打撃と痛みの中で、それでも懸命に前を向いて歩もうとしています。
緊急事態宣言が出されていた4月から5月にかけての状況と比べると、最近は少しずつ落ち着きを取り戻してもいるでしょう。国内では重症化する人の割合は減少し、経済活動も再開し始めています。
様々な活動が少しずつ再開し始めていることは本当に有難いことである一方で、経済への深刻な影響、また、健康への不安は依然として存在しています。私たちの住む日本においても、感染判明者数は増減を繰り返しており、予断を許さない状況が続いています。金曜日には、トランプ大統領がコロナ陽性になったという大きなニュースが飛び込んできましたね。
新型コロナウイルスがもたらす影響はいまだ分からない部分も多く、たとえ重症化はせずに軽症であっても、何らかの後遺症が残ることなども懸念されています。私たちはまだしばらく、現在の新しい生活様式を続けてゆくことが求められています。
どうぞ一人ひとりの健康と生活とが守られますように、いま助けを必要としている人々に支援が行き渡りますようにと切に願うものです。また、感染したことを互いに責め合うのではなく、労わり合い励まし合う言葉をこそ発してゆきたいと思います。
死による別れ
今年はコロナの影響により、私たちは様々な局面において「引き離される」ことに直面していることを述べました。私たちが生きてゆく中で最も互いに引き離されたように感じるもの、それは死の別れではないでしょうか。愛する人の体は見えなくなり、声も聞けなくなります。もはやそのいとおしい笑顔を見ることもできなくなります。死による別れほど、私たちが愛する人との物理的な距離を感じるものはない、と言えるでしょう。
今年は新型コロナウイルスによっても、国内外で多くの方が亡くなりました。死は私たちのそれまでの日常を断ち切り、愛する人と私たちとを否が応でも引き離します。愛する人はもはや私たちの手の届くことがないほど遠くに引き離されてしまった、そのように感じてしまうこともあることと思います。いま悲しみのただ中にいる方々の上に、どうぞ主の慰めがありますよう祈ります。
神の愛は物理的な距離を超えて
死によって、どうしても愛する人と遠く引き離され、その関係性が断絶してしまったように感じてしまう私たちでありますが、そのような私たちに聖書はどのような言葉を語りかけてくれているのか、今一度、先ほどの聖書の御言葉をお読みしたいと思います。
35-39節《だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。/「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。/しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。/わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、/高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです》
最後の文章では、死さえも、神の愛から私たちを引き離すことができない、と語られています。私たちの目からすると、死によって、愛する人々と遠く引き離されてしまったように思えます。けれども、神さまの目からすると、そうではない。神さまの愛に結ばれる中で、私たちはいまもすぐそばで結び合わされている、そのことを聖書は私たちに告げています。
死によって、確かに愛する人々と物理的な距離はできてしまったかもしれません。もはや私たちは愛する人の体に触れ、その声を聞き、その笑顔を間近で見ることができません。しかし、神さまの愛はそのような物理的な距離を超え、いまも私たちを結び合わせてくださっています。たとえ目には見えなくても、互いに互いを固く結び合わせて下さっているのです。神の愛の内においては、もはや私たちの間に隔たりも距離もありません。
どんなものも、神さまの愛から私たちを引き離すことはできない――その言葉を胸に、これからも共に一歩一歩、歩んでゆきたいと願います。ここに集ったお一人お一人の上に、神さまの愛と恵みとがゆたかにありますように。