2020年11月22日「牧場に導いてひとつにする」
2020年11月22日 花巻教会 主日礼拝
聖書箇所:ミカ書2章12-13節
「牧場に導いてひとつにする」
岩手県において「第一波」が到来……?
新型コロナウイルス感染拡大のニュースが連日報じられています。皆さんも不安の中を過ごしていらっしゃること思います。本格的な冬の到来を前にして、全国では「第三波」が到来していると言われています。岩手県でもこの2週間で感染者数が増大しました。岩手県においては(他県から遅れて)「第一波」が到来していると言えるのではないかと専門家の方がテレビでおっしゃっていました。花巻市在住の方の感染も確認されましたね。いま療養中の方々の上に主よりの癒しがありますようご一緒に祈りを合わせてゆきたいと思います。
また、皆さんも日々感染予防を心掛けて下さっていることと思いますが、改めて、手洗い、消毒、換気など、基本的なことをご一緒に気を付けてゆきたいと思います。
と同時に、どれほど気を付けていても、感染するときは感染するのがウイルスであることをいつも心に留めておきたいと思います。誰しもが感染し得るものであり、感染した人も何も悪くはありません。感染した方々やその関係者がさらに追い詰められてしまうことがないよう、気を付けたいものです。人を責める言葉ではなく、互いに配慮しあい、労わり合う言葉をこそ発してゆきましょう。
収穫感謝日、謝恩日
本日は日本キリスト教団の暦で「収穫感謝日」にあたります。神さまから与えられた収穫の恵みを感謝するための日です。教会によっては、秋の作物を会堂の前に並べて礼拝をささげるところもあります。神さまの恵みによって、私たちの命と生活とが日々支えられていることへの感謝をご一緒に新たにしたいと思います。
また本日は、日本キリスト教団の暦で「謝恩日」にもあたります。謝恩日は牧師を隠退された先生方のお働きを感謝する日です。日本キリスト教団ではその感謝の思いを具体的に「謝恩日献金」というかたちで表し、隠退された先生方とご家族の生活をお支えしています。謝恩日献金は現職の牧師の隠退後の生活を支えるためにも用いられます。お祈りに覚えて、おささげいただければ幸いです。
《わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである》
さて、先ほどマタイによる福音書25章31-46節を読んでいただきました。その中に、《はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである》(40節)との言葉がありました。2015年~2016年度の花巻教会の年間主題聖句にもしていた御言葉です。
このマタイによる福音書の御言葉では、困難な状況にある人のために行ったことは、イエス・キリストに対して行ったことと同じであると語られています。
たとえば、食料が不足している人に食べ物を分け与えたこと。のどが渇いている人に飲み水を差し出したこと。宿のない人に避難所を提供したこと(35節)。着る物のない人に上着を与えたこと。病気の人を見舞ったこと。牢に入れられている人を訪ねたこと(36節)――。他者のために行ったそれら一つひとつの行動が、イエス・キリストに対して行ったことと等しいと言われています。
「何もしなかった」ことの失敗
このように、この御言葉は困難の中にある人のために何かをすることの大切さを私たちに伝えてくれているものですが、同時に、困難の中にある人のために何もしなかったことを厳しく戒める言葉も記されています。
たとえば、食料が不足している人に食べ物を分け与えなかったこと。のどが渇いている人に飲み水を差し出さなかったこと(42節)。宿のない人に避難所を提供しなかったこと。着る物のない人に上着を与えなかったこと。病気の人を見舞わなかったこと。牢に入れられている人を訪ねなかったこと(43節)、など。それら他者に対して行わなかった一つひとつのことは、イエス・キリストに対して行わなかったことと等しいのだと言われています。《この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである》(45節)。
主は私たちが行った罪責よりも、行わなかったことの罪責を問われるとある説教者は述べています(参照:ティーリケ『主の祈り 世界を包む祈り』、大崎節郎訳、新教出版、1962年)。
私たちは、良かれと思ってしたことで、逆に人を傷つけてしまうことがあります。私たちは不完全さゆえに、自分の言動によって人を傷つけたり、事態の悪化を招いてしまうことがあります。しかしそれでも、自分が行ったことの責任より、行うべきことを行わなかったことの責任の方が重いのだということができるかもしれません。
隣人に対してなすべきことをなさなかった、そのことの責任を問うのが、従来のキリスト教倫理の特質の一つです。してしまった失敗よりも、「何もしなかった」ことの失敗の責任を問うのです。
予期せぬ事態の発生 ~「何もしないこと」がその人のため……!?
しかし、今年、新型コロナウイルスの世界的な感染拡大により、これまで良しとされていたその姿勢に変化が求められる、思わぬ事態が生じました。他者のために何か直接的な行動を起こすことが、感染リスクを高めることにつながるという予期せぬ事態が生じてしまったのです。
「何もしないこと」が感染予防となり、むしろいまはそれがその人のためになる――そのような意識の変化が私たちの内に生じてしまった部分があるかもしれません。
それらは一時的なものであるのかもしれません。事態が収束すると、私たちの意識はまた従来のものに戻ることができるのかもしれません。しかし今年、私たちは意識の変化を迫られたことは確かであると思います。そしてこの度の意識の変化が、今後、私たち自身や私たちの社会の在り方にどのような影響を及ぼしてゆくのかは未知数です。
もちろん、「何もしない」というのは、あくまで感染リスクにつながるような直接的な行動を控えるというだけなのであって、「他者のためにまったく何もしない」こととは異なります。これまでとかたちは変わったとしても、たとえ距離は離れていても、私たちにはできることが様々にあるのでしょう。このような特異な状況の中にあって、自分にできることは何か、自分たちにできることは何か――いま私たちは改めてそのことを考える機会が与えられています。
してしまった失敗よりも、何もしなかったことの失敗の責任を問われる、このことの重みは、やはり変わらず私たちの前に突き付けられているのだと受け止めたいと思います。
《牧場に導いてひとつにする》 ~神は具体的な行動を起こしてくださる方
冒頭で、旧約聖書のミカ書2章12-13節をお読みしました。離散したイスラエルの民が、この先、神によって一つとされることを告げる言葉です。
《ヤコブよ、わたしはお前たちすべてを集め/イスラエルの残りの者を呼び寄せる。わたしは彼らを羊のように囲いの中に/群れのように、牧場に導いてひとつにする。彼らは人々と共にざわめく。/打ち破る者が、彼らに先立って上ると/他の者も打ち破って、門を通り、外に出る。彼らの王が彼らに先立って進み/主がその先頭に立たれる》(12-13節)。
この預言の言葉が語られたとき、イスラエルの人々は国家が失われ、民族が離散した状況にありました。いわゆる「バビロン捕囚」と呼ばれる時期に語られた言葉であると言われています。大きな困難の中にあって、しかし、神はイスラエルのために行動を起こしてくださる。人々を呼び集め、羊飼いが羊の群れを導くように、人々を牧場に導いて一つにしてくださることが語られています。
聖書が証しする神は、行動を起こしてくださる神です。主なる神は、天の高みから傍観して何もなされない方ではない。神は嘆き苦しむ人々の声を確かに聞き届けて下さり、その人々のために具体的な行動を起こしてくださる方である――そのことへの信頼が旧新約聖書全体を貫いています。
アドベントが近いこの時 ~私たちも具体的な行動を起こしてゆくことができますように
来週から教会の暦でアドベントに入ります。イエス・キリストの誕生を待ち望む時期です。新約聖書は、神さまは私たちを愛するゆえ、独り子を私たちのもとに遣わしてくださったのだと受け止めています。
ヨハネによる福音書はこう語ります、《神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである》(ヨハネによる福音書3章16節)。神さまは私たちを愛するゆえに、私たちに永遠の命を得させるために、御子キリストを私たちのもとに遣わすという具体的な行動を起こしてくださったことが述べられています。
「神さまは私たちの叫びを必ず聞いてくださる方である。神は私たちのことを決してお忘れにならない。神は私たちのために、行動を起こしてくださる方である」――。クリスマスは、この聖書を貫く約束が実現された日です。
アドベントが近いこの時、神さまが私たちの叫びを必ず聞き届けてくださり、行動を起こしてくださることへの信頼を新たにしたいと思います。そして、私たちもまた、大切な人々のために、自分にできることをしてゆきたいと願います。新型コロナ感染拡大の特異な状況の中にありますが、このような状況の中にあっても、他者の声に耳を傾け、具体的な行動を起こしてゆくことができますよう、主に導きを共に祈り求めてゆきましょう。