2020年11月29日「主はわたしたちに道を示される」
2020年11月29日 花巻教会 主日礼拝
聖書箇所:イザヤ書2章1-5節
「主はわたしたちに道を示される」
はじめに
木曜日の夕方から妻に発熱や頭痛の症状があったため、念のために礼拝をお休みいたします。説教は原稿を役員のSさんに代読していただきます。どうぞご了承願います。
病院で診療していただいたところ、新型コロナではないだろうとのことでしたので、ご安心ください。私もいまのところ発熱の症状はなく、大丈夫です。
皆様もどうぞくれぐれもお身体にはお気を付けください。皆様のお身体が守られますようお祈りしています。
T・Kさん召天
先週の11月20日、教会員のNさんのお母様・T・Kさんが天に召されました。86歳のご生涯でした。22日の13時半より、花巻教会にてご葬儀が執り行われました。
Nさんとご遺族の皆様の上に、Kさんにつながるお一人お一人の上に、神さまの慰めとお支えがありますようお祈りいたします。
K・Kさん召天
昨日11月28日(土)、教会員のK・Kさんが天に召されました。91歳のご生涯でした。先々週頃からあまり食べ物を召し上がらなくなり、だんだんと体力も弱まっておられたようです。病院からの連絡を受けて、金曜日には東京からご長男のAさんも駆けつけていらっしゃいました。その翌日、ご家族の皆様に見守られる中、午後1時33分に息を引き取られました。最後に家族の皆に会うことができ、皆に見守られる中で、最後を迎えることができて本人も幸せだったと思うとお嬢さまのYさんもおっしゃっていました。
昨年の4月のイースターに、Kさんは花巻教会にて洗礼を受けられました。ご生涯の最後に洗礼を受けることができたことの感謝の想いを、昨晩改めてお連れ合いのTさんが述べていらっしゃいました。
本日13時より納棺式が、12月1日(火)12時半より花巻教会にてご葬儀、また14時より東和斎場にて火葬が執り行われる予定です。
新型コロナ感染拡大の状況を鑑み、この度のご葬儀・火葬はご親族の皆様のみで行い、花巻教会からは代表して役員の方に出席いただくことになりました。お連れあいのTさん、ご遺族の皆様の上に主の慰めがありますようお祈りください。
アドベント
本日から、教会の暦で「アドベント」に入ります。アドベントは、ラテン語の「アドベントゥス」から生まれた言葉で、「到来」という意味です。日本語では「待降節(たいこうせつ)」とも呼ばれます。イエス・キリストの「到来」、すなわち、イエス・キリストが私たちの間にお生まれになったクリスマスを待ち望む時期です。アドベントは本日から、12月25日のクリスマスを迎えるまでの4週間続きます。
アドベントの時期になると、街のあちこちでクリスマスツリーを見かけるようになります。家の中にツリーを家に飾ったご家庭もあるかと思います。花巻教会でも、入り口わきモミの木がクリスマス仕様になっていることに、お気づきになられたでしょうか。役員のNさんが飾り付けをしてくださいました。まだご覧になっていない方は、ぜひ帰りがけに見てみてください。
モミの木に明かりをつけることを考え付いたのは、ドイツの宗教改革者のマルティン・ルターだそうです。クリスマス・イブの夜、モミの木のこずえから見えた星空の美しさに感動したルターは、この光景を再現しようとして、刈ってきたモミの木にロウソクを何本も立てて、子ども部屋に飾ることしたとのことです(『クリスマスおもしろ事典』、日本キリスト教団出版局、2003年、78頁)。それが現在は世界中で親しまれているクリスマスツリーの原型となりました。ツリーに飾られるイルミネーションは、もともとはロウソクの明りであったのですね。
飼い葉桶に寝かされたキリスト
また、アドベントの時期になると伝統的に教会で飾られるものとして、「クリブ」があります。イエス・キリストの誕生の場面を、ミニチュアの家畜小屋や人形で再現したものです。国によって呼び方が異なるようですが、その意味はいずれも「飼い葉桶」です(参照:『クリスマスおもしろ事典』、80頁)。飼い葉桶は牛や馬のエサとなる草を入れておく桶のことを言います。
イエス・キリストが家畜小屋で生まれたのはよく知られている話ですね(参照:ルカによる福音書2章6-7節)。当時は洞窟が家畜小屋に使われていたこともあったということで、イエス・キリストがお生まれになったのは洞窟だったのではないかとの説もありますが、いずれにせよ、人が寝起きする座敷ではなく、牛たちがいる家畜小屋で救い主はお生まれになったことになります。
そして粗末な家畜小屋でお生まれになった救い主は、布にくるまれて飼い葉桶に寝かせられました。飼い葉桶は、先ほど説明しましたように、牛や馬のエサとなる草を入れておく桶のことを言います。飼い葉桶というと何となく木製のイメージがあるかもしれませんが、当時の飼い葉桶は石をくりぬいて造られたものであったそうです。石灰岩などのやわらかい石を長方形に切りとり、真ん中をくりぬいて、飼い葉桶として用いていたようなのですね。
木製の飼い葉桶と石の飼い葉桶では、イメージも変わってくるかもしれません。石の飼い葉桶に赤ん坊が寝かされている情景は、木製の飼い葉桶よりもさらに私たちに何か寂しさや悲しさを感じさせるものである気がいたします。
石の飼い葉おけと石のお墓
そもそもなぜ、赤ん坊の主イエスは飼い葉桶に寝かされたのでしょうか。家畜のエサを入れる飼い葉桶は決して清潔なものではありません。また、石なので硬く、ひんやりして冷たかったことでしょう。赤ん坊にとって、あたたかな母の胸で抱かれているのと正反対な環境です。そこに命のあたたかさやぬくもりはありません。
けれども、その石の飼い葉桶にイエス・キリストがあえて横たわって下さったというところに、大切なメッセージがあるのだと考えられます。
布にくるまれたイエス・キリストが石の中に横たわっている。この光景を思い浮かべてみると、皆さんは何を連想されるでしょうか。新約聖書が記された当時の読者は、「お墓」をイメージしたのではないかと思います。布にくるまれて墓穴に横たわる死者のイメージです。
私たちが想像する日本のお墓というのは、墓石があって、その下にお骨が埋まっている、というものですよね。新約聖書が記された時代のパレスチナのお墓というのは、岩の壁を削って造られた洞窟のようなものでした。
やわらかな石灰岩の岩を削って長方形の空間をつくり、さらに床の真ん中を長方形にくりぬいて、その墓穴に亡くなった方の体を安置していたのですね。パレスチナには火葬するという風習はなく、死んだ方の体を布で包んで安置しておくというやり方がなされていました。お墓の入り口は、普段は大きな石でフタをされていたようです。
イエス・キリストも十字架刑で亡くなった後、そのようにして石の墓穴に葬られたことを福音書は記しています(ルカによる福音書23章50-53節)。布にくるまれて石の墓穴に横たわるこのイエス・キリストのお姿と、布にくるまれて石の飼い葉桶に横たわる赤ん坊のキリストのお姿とが重ね合わされているのです。
「生まれたばかりの赤ん坊が眠る飼い葉桶にお墓のイメージを重ねあわせるなんて、ひどいなあ」と感じる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、福音書はこのイメージを、深い信仰をもって記しているのだと思います。信仰の結晶として、これらの表現がつむぎだされているのです。
復活の命の光
福音書は、墓に葬られたイエス・キリストが三日目に復活したことを語ります(ルカによる福音書23章56節‐24章8節)。イエス・キリストは三日目の朝、暗い穴からよみがえられた。暗い墓穴の中に、復活の命の光が輝き出たのだ、と。
石の飼い葉桶は、この復活の光を先どって、私たちに指し示して下さっているのだと本日はご一緒に受け止めたいと思います。死の先に輝く、復活の命の光。これがクリスマスの光であり、十字架の向こうから差し込んでくる復活の光です。決して消えることがないこの光を知らされているので、クリスマスは私たちにとって喜びの日となります。たとえ私たちが死の陰の谷を行くときも(詩編23編)、この光は消え去ることはありません。石の飼い葉桶に眠るこの方こそ、私たちに復活の命への道を切り開いてくださった方です。
《目を覚ましていなさい》
本日から私たちは教会の暦でアドベントを迎えます。アドベントの第1週によく読まれる聖書の言葉があります。《目を覚ましていなさい》――。先ほど礼拝の中でも読んでいただいた御言葉です(マタイによる福音書24章36-44節)。
《目を覚ましていなさい》とは、睡眠をとらずにずっと起きていなさい、との意味ではありません。ここで言われているのは、「心の目を覚ましている」ことです。クリスマスが近づいている今、心の目を覚まして、イエス・キリストをお迎えする準備をしなければならないとのメッセージが込められています。
愛する方々を天にお送りし、私たちはいま悲しみの中にいます。ご遺族の皆様の上に主の慰めを祈るとともに、復活の命の光が私たちを照らしてくださることを希望とし、心の目を覚まして、このアドベントの時をご一緒に過ごしてゆきたいと願います。