2020年3月15日「裏切りと受難の予告」
2020年3月15日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:ヨハネによる福音書6章60‐71節
「裏切りと受難の予告」
受難節第3主日礼拝
私たちはいま教会の暦で受難節の中を歩んでいます。本日は受難節第3主日礼拝をご一緒におささげしています。 受難節はイエス・キリストのご受難と十字架を思い起こしつつ過ごす時期です。
昨年から受難節の礼拝において、消火礼拝の形式を取り入れています。講壇の前に立てられている7本のろうそくの火を毎週一本ごとに消してゆくという形式です。本日は第3週目なので、3本のろうそくの火が消えています。洗足木曜日礼拝をおささげする日(4月9日)にすべての火が消えることとなります。
イエス・キリストを祭司長たちに引き渡すためにユダが出て行った際、印象的な一文がヨハネによる福音書には記されています。《ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て言った。夜であった》(13章30節)。ユダが主イエスを裏切るために外に出て行ったとき、夜の闇が辺りを覆っていたことが強調されています。先が見えない真っ暗な闇が、そのとき、世界を覆っていました。
すべての光が消え失せたような暗闇――この暗闇はその後、主イエスがその受難の道において経験された暗闇です。また、いま私たちの社会を覆っている暗闇であると受け止めることもできるでしょう。
先が見えないことの不安
先週の水曜日、私たちは東日本大震災から9年を迎えました。日本で、また世界中で、追悼の祈りがささげられたことと思います。たくさんの方々の懸命な努力により復興への歩みが一歩一歩進められていると同時に、震災から9年が経ってもなお、消えることのない悲しみ、癒えることのない痛みを抱えながら生活している方々がおられます。いまも約4万7千人の方が避難生活を続けています。原発事故による深刻な影響はいまも、進行形で続いています。先が見えない不安をいまも多くの方々が抱えつつ、生活しておられます。先のことを考えるとなかなか希望が持てない、という苦しみを被災地で生活する多くの方々が抱えているのではないでしょうか。
先が見えないことの不安、ということでは、現在国内外で大問題となっている新型コロナウイルスに関してもそうでありましょう。
健康への影響はもちろんのことですが、この先、問題がどう収束してゆくのか先が見えない、そのことへの強い不安をいま国内外の多くの人々が感じていらっしゃることと思います。休校措置が取られている学校はこの先どうなるのか、4月の入学式や始業式はどうなるのか。イベントや集会はこの先、どうしていったらいいのか。オリンピックはこの先どうなるのか。日本の経済はこの先どうなっていってしまうのか……など。家庭において、学校において、会社において……まさに生活に直接的に関わる様々な事柄について、私たちの目の前には現在、あまりにたくさんの不確定な要素があります。
いま何が最も困っていることであるか、悩みの種となっているか、それは一人ひとり違うことでしょう。と同時に、現代を生きる私たちにとって共通の悩み、それは先が見えない悩みであるのかもしれません。先のことになかなか希望を持つことができない。先のことを考えると、何だか力が奪われていってしまうかのようになる、そのような感覚を私たちは大なり小なり持っているように思います。
暗闇の向こうから差し込む復活の光
先ほど、ユダが出て行ったとき、辺りは夜の闇に包まれていた、ということを述べました。光は失われ、周囲には暗闇しか見えない状況があった。主イエスはこの先が見えない暗闇の中、十字架への道を歩まれてゆくこととなります。福音書はこの主イエスの受難の道を、詳細に描き出しています。4つの福音書において最も多くの分量が割かれているのが、受難物語です。
けれども、福音書はこの受難物語で終わるのではありません。受難物語の次に、復活の物語が続きます。暗闇の向こうから差し込む復活の光を指し示して、福音書は閉じられます。
確かに、私たちの目の前には夜の闇が覆っているという他ない、様々な困難な現実があります。先が見えないことの不安があり、先のことを考えてもなかなか希望が持てない現実があるかもしれません。しかし必ず朝はやってくる。朝の光は私たちのもとに差し込む。その朝の光は、イエス・キリストによってもたらされる復活の光です。
「明けない夜はない」という言葉があります。このことを、イエス・キリストの十字架の死と復活という出来事を通して、2000年間伝え続けてきたのが聖書という書だと言えるでしょう。
裏切りと受難の予告
さて、すでに言及していますように、福音書にはユダという人物が出てきます。12人の弟子の一人であったが、後にイエス・キリストを裏切ることになる人物です。本日の聖書箇所にもユダが出てきました。《すると、イエスは言われた。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」/イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた》(ヨハネによる福音書6章70‐71節)。
主イエスがユダの裏切りを予告される場面ですが、思わずドキッとしてしまうような表現がなされています。特に《その中の一人は悪魔だ》という言い方はちょっと強烈すぎるのではないか、ユダが可哀そうではないかと思う方もいらっしゃるかもしれません。ここではユダ自身が悪魔なのだという意味ではなく、この先、悲しむべきことに彼が悪魔の力に囚われていってしまう、という意味でこの表現が使われているのだと思います。
先ほども言及した、ユダがいよいよ主を引き渡すために夜の闇の中に出て言った場面。その直前に、このような描写がありました。《「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」…「主よ、それはだれのことですか」と言うと、/イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのユダにお与えになった。/ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った》(13章21-27節)。
主イエスからパン切れを受け取ったユダの中にサタンが入ったとヨハネ福音書は描写します。そうしてユダは夜の闇の中へ去ってゆくこととなります。
破壊的な衝動に身を任せてしまうこと
ユダはキリスト教において大きな謎であり続けている人物です。受け止め方が難しいユダですが、私はユダという人物が何か特別な悪人であったという風には捉えていません。主イエスに心酔し、従っていた熱心な弟子の一人であったと受け止めています。ただし、主イエスに心酔し、主イエスに自身の希望を託そうとすればするほど、主イエスがなさろうとしていることと自分が期待していることが違うことが明らかになった失望は大きかったのではないでしょうか。
夢が破れ、先が見えなくなったユダ――。深い失意と怒りの内に、彼は夜の闇の中に飛び出していきました。彼がその後に行ったことというのが、愛する師を「引き渡す(裏切る)」という行為でした。《サタンが彼の中に入った》という表現は、彼が破壊的な衝動に囚われてしまったという意味で解釈することもできるかもしれません。
このようなユダの姿に、私たちも切実なものを感じるものがあるのではないでしょうか。私たちもまた先が見えない中で、どこか投げやりな気持ちになってしまうことがあるように思うからです。先が見えない不安の中で、私たちは時に自暴自棄な衝動に駆られる自分を見出すことがあります。(もうどうでもいい、どうなってもいい……)、そのような衝動に身を任せてしまうとき、結果的に私たちは自分を傷つけ、愛する人を傷つけてゆきます。自暴自棄にならずにいかに生きてゆくことができるか、これは現代を生きる私たちが抱える切実な課題です。
破壊的な衝動に身を任せたユダの行動は、人から人へと次々と連鎖し、結果的に神の子を殺害するというとてつもない暴力へと発展してゆくこととなります。ユダ自身、自分の行為がまさかそのよう取り返しのつかない結末を引き起こすとは、想定していなかったのではないでしょうか。
弟子たちの離反
本日の聖書箇所を読みますと、主イエスから離れていった弟子はユダだけではなかったことが分かります。《このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった》(66節)とあります。主イエスのなさろうとしていることが理解できず、途中で離れていってしまった人がユダの他にもたくさんいたようです。期待が裏切られ、先が見えなくなって離れて行ってしまった人々が数多くいたのです。
主イエスが弟子たちに「あなたがたも離れて行きたいか」と問うと、シモン・ペトロはこう答えました。《主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。/あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています》(68-69節)。このように告白したペトロもその後、主イエスが裁判にかけられた際、主イエスのことは「知らない」と否んでしまうこととなりますが、ここで彼は奇しくも、主イエスが《永遠の命の言葉》を持っておられることを証しています。《永遠の命の言葉》とは言い換えれば、「復活の命の言葉」ということができるでしょう。
主イエスは私たちに復活の命の希望を与えて下さる――。しかしその前に、主イエスには歩まねばならない道がありました。それが受難の道、十字架への道です。当時、弟子たちにはそのことが理解することができませんでした。救い主であるはずの主が、そのような惨めで悲惨な道を歩まねばならないことが理解できなかったのです。主イエスからの受難の告知は、弟子たちにとってはまさにそれは目の前が真っ暗になるような悲しい告知であったことと思います。「先生、そのようなことがあってはなりません」、弟子たちは必死で諫めようとしたのではないでしょうか。しかし、主イエスは十字架への道を歩むことを止めようとはなさいませんでした。
夜明け前の途上の道を、寄り添い、共に苦しみながら
「明けない夜はない」――主イエスは私たちに朝の光をもたらすため、ご自身は長い夜を経験してくださいました。受難の道を歩み、先の見えない暗闇を経験してくださいました。
一方で、「明けない夜もあるのではないか」「朝はもう来ないのではないか」……。私たちは時にそのように思ってしまうこともあります。希望を持てと言われても、なかなか希望を持つことができない。先のことに希望が持つことができず、私たちは苦しんでいます。そうして先が見えない不安の中で、投げやりな気持ちに身を任せてしまうこともあります。時に自暴自棄な衝動に駆られ、気が付けば自分を傷つけ、他者を傷つけてしまっている私たちです。
主イエスはそのような私たちに寄り添い、共に苦しみながら歩んで下さっているのだと本日はご一緒に受け止めたいと思います。暗い夜を飛ばしていきなり朝をもたらす、というのではなく、夜明け前の途上の道を一歩一歩共に歩みながら、必ず訪れる朝の光を示してくださっている方がイエス・キリストです。
この主のお姿は、私たちの心に深い慰めを与え、力を与えます。そして私たちの内に、自分を大切にし、愛する人を大切にする心を再び取り戻してくださいます。
自分を大切にし、隣人を大切にして、今日という日を生きる
たとえ未来はまだ見えなくとも、先のことは依然として不安なままあっても、神さまの愛はいま私たちを照らしてくださっています。私たちの存在を、今日という日を、暖かな光で照らしてくださっています。主イエスの十字架はこの神の愛を伝え続けて下さっています。
神さまの愛の光の中で、自分を大切にし、隣人を大切にして、今日という日を生きる――この積み重ねが、私たちの心に少しずつ、明日への確かな希望をも育んでいってくれることでしょう。復活の朝への確かな希望をも育んでいってくれることでしょう。
受難節のこの時、十字架の主が与えて下さる慰めと、復活の主が与えて下さる希望を胸に、互いに支え合いながら、歩んでゆきたいと願います。