2020年3月8日「世の光キリスト」
2020年3月8日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:ヨハネによる福音書9章1-12節
「世の光キリスト」
東日本大震災と原発事故から9年
今週3月11日、私たちは東日本大震災と原発事故から9年を迎えます。本日の午後から、宮古教会と大船渡教会において教区主催の東日本大震災9年を覚えての礼拝が予定されていましたが、大変残念ながら、新型コロナウイルス感染防止のため中止となりました。教区より《震災の痛みを抱えておられる方々、今回の感染症のために闘病中の方々、様々な不安や戸惑いの中におられる方々を主が癒してくださいますよう心よりお祈りいたします》との文章をいただいています。
震災を覚えての礼拝に代えて、本日は教区内の各教会が午前の礼拝の中で被災教会および被災された方々をお覚えてお祈りをおささげします。皆さんのお手元に別紙で「東日本大震災9年を覚えてのリタニー」をお配りしています。こちらの祈りを後で皆さまと朗読したいと思います。
受難節 ~主のご受難を思い起こす
2月26日(水)から、教会の暦で「受難節」に入っています。受難節はイエス・キリストのご受難を思い起こす時です。今年は受難節は4月12日(日)のイースターの前日まで、40日間(日曜日を除いて)続きます。
受難節において、私たちはイエス・キリストのご受難とその苦しみについて思いを巡らします。もちろん、主のご受難を想うことは皆さんもこの受難節に限らず、なされていることと思いますが、このように具体的に生活の中で、暦として主のご受難を思い起こす機会が与えられるというのも大切なことであると思います。私たちは主のご受難を忘れているわけではないですが、日々の生活の中で、どうしても主のご受難と十字架に対する切実さは薄れていってしまうからです。
たとえば皆さんも、イエス・キリストの十字架とそのお苦しみに心を打たれた経験がおありだと思います。まるで心に剣が刺さったかのように(ルカによる福音書2章35節)、切実なる感覚をもって十字架へと向かうキリストのお姿を受け止めた瞬間がおありかと思います。けれども、その切実な感覚というのは、気がつけば、慌ただしい生活の中で心の奥の方に埋もれていってしまうものです。そうして、気が付けば何か当たり前のもののように、主のご受難と十字架を受けとめてしまっていることも多いものです。
そのような私たちですが、たとえばこの受難節をひとつのきっかけとして、改めて福音書の受難の場面をゆっくりと読んでみる、そうすると、だんだんと切実なる感覚がよみがえってくることがあります。いつしか当たり前のもののように受け止めてしまっていた主イエスの十字架が、当たり前のものではなくなり、切実なる想いをもって再び心に浮かび上がってきます。
またそして、何らかのきっかけによってその切実さがよみがえってくるということは、私たちの心からそれが完全に失われていたわけではない、ということを意味しています。切実な感覚が消えてしまったのではなくて、心の奥の方に埋もれてしまっているのです。埋もれてしまっているこの切実な感覚といかにつながるか、つながっているか、ということが私たちにとって大切な課題でありましょう。
たとえば、カトリック教会には、主のご受難を14の場面(復活の場面を入れると15)に分け、その一つひとつたどってゆく「十字架の道行き」というものがあります。主イエスが死刑の宣告を受けてから、十字架につけられ墓に葬られるまでの出来事を描いた14のレリーフを前に、主のお苦しみの一つひとつに想いを馳せ、受難の道を追体験してゆくのです。この「十字架の道行き」は、カトリック教会において、人々の心に主のご受難に対する切実さを取り戻すための大きな役割を果たしていると思います。私たちは日々の生活において、このような意識的に思い起こすきっかけを作るというものも大切なことでありましょう。私たちが「忘れやすい」ということ自体が必ずしも責められることではなく、「忘れない」ための意識的な努力をするということが求められているのではないでしょうか。
他者の苦しみに心を開くこと
このように、主のご受難に心を開くことは、同時に、他者の苦しみに心を開くことともつながっています。十字架の主の苦しみに立ち還ることは、いま苦しんでいる人々の声に耳を傾けることと密接につながっているのです。主のご受難は、他者の痛みに対する切実な感覚を私たちの内に呼び起こしてくれるものでもあるのだと受け止めています。
他者の痛みに対する切実な感覚というのも、やはり私たちは慌ただしい生活の中で薄れていってしまうものです。忙しさの中で、余裕のない中で、私たちは人の痛みにだんだんと無感覚になってゆきます。しかしその痛みに対する感受性はやはり失われてしまったのではなくて、確かに存在しているのだけれど、心の奥の方に埋もれてしまっているのです。
主のお苦しみにつながることを通して、私たちは痛みを痛みとして感じとる心を少しずつ取り戻してゆきます。
祈りに覚える ~I remember you in my prayers
苦しんでいる人々の声に共通しているのは、自分のことを「忘れないでほしい」という想いなのではないでしょうか。私たちはこの声にならない声を互いに聴きとり、受け止めあうようにと招かれています。
私たちの社会においていま、新型コロナウイルスによる社会不安が非常に高まっています。そのような中、様々な集会やイベントが中止せざるを得ない状態になっています。政府主催の東日本大震災9周年追悼式典も中止となりました。ウイルスの感染を防止することは確かに重要であるし、人々の安全を守るためには中止もやむを得ないのかもしれない。けれども、東日本大震災および原発事故で被災された方々の共通の切なる願いとして、「被災地を忘れないでほしい」「今も苦しんでいる人々のことを忘れないでほしい」ということがあるのではないでしょうか。
教会で使われる独特な言葉遣いの一つに、「祈りに覚える」という言い方があります。英語では、「 I remember you in my prayers」。「あなたのことをお祈りしています」という意味ですが、この文章を直訳すると、「あなたのことを祈りの中で覚えています(思い起こしています)」となります。明治以降、もしかしたらこの表現が定着して、日本の教会では「祈りに覚える」という言い方がなされるようになったのかもしれません。
「祈りに覚える」というこの独特な表現においては、まず第一にその人のことを「覚えている」(remember)ことが前提としてあるのだということが分かります。ある人のために祈っているということは、その人の存在を思い起こしているということ。大切な人々の存在を思い起こすことが、すでに祈りにつながっているのかもしれません。
どこかで今誰かが、自分のことを思い起してくれているとしたら。あたたかな心をもって、愛をもって覚えていてくれているとしたら。そうして祝福を祈ってくれているとしたら。何と心強く、嬉しいことでしょうか。愛をもった思い起こし――すなわち祈りは、時と場所を超え、相手の存在を衣のように包み、守り続けます。
覚え続けること、寄り添うこと
一方で、私たちにとって、最も辛いことの一つが、自分のことが「忘れられる」ことではないでしょうか。自分の存在を忘れないでほしい、覚え続けていてほしいというのは、私たちが抱えるもっとも深い願いのひとつであると思います。
このメッセージの後にご一緒にお読みする「東日本大震災9年を覚えてのリタニー」にはこのような一文も記されていました。
《司式者:私たちに知恵を与えられた神よ。/私たちは、覚え続けるために、ここに集まっています。/覚え続けること。それは、寄り添うこと、つながりを感じることです。/私たちの小さな歩みをあなたが豊かなものとしてください。
会衆:主よ、私たちの祈りを聞き、私たちを用いて下さい。…》。
「覚え続けること」それは、言い換えれば「寄り添うこと、つながりを感じること」であるとリタニーでは語られています。自分の存在を忘れず、いつも心に留めて寄り添ってくれる人がいること、そのことが私たちに生きる力を与えてくれるのではないでしょうか。
世の光キリスト
本日の聖書箇所に《わたしは、世にいる間、世の光である》(ヨハネによる福音書9章5節)というイエス・キリストの言葉がありました。聖書はイエス・キリストは《世の光》であると語ります。私たちの存在を見出し、私たちのこの旅路を光で照らしてくださる方がイエス・キリストです。
主イエスは私たちのことを決して忘れず、いつも覚えていてくださる方です。私たちに寄り添って下さり、私たちを支え続けて下さっている方です。この方こそが私たちに生きる力を与えて下さる方、私たちの人生を照らす光であるのだと聖書は語ります。
私たちを包むキリストの光 ~「わたしはあなたのことを忘れない」
「わたしはあなたのことを忘れない」――主イエスはいま、私たちにそう語りかけてくださっています。私たちの存在が決して忘れ去られることのないように、失われることのないよう、主イエスは受難の道を歩んでくださいました。
「わたしはあなたのことを忘れない」――十字架におかかりなったキリストはいつも私たち一人ひとりの存在をいつも思い起こし、祈りに覚えて下さっています。
主イエスは私たちの存在を、私たちの人生を、私たちが経験してきた喜び、悲しみ、その一つひとつを、決してお忘れにはならない方です。
主イエスの私たち一人ひとりに対する愛をもった思い起こし――祈りはまるで光の衣のように私たちを包んでいます。このキリストの光はいつも、どんなときも私たちと共にいて、私たちの存在を包み、守っていてくださるのだと信じています。
受難節のこの時、共に主のご受難を覚え、そして互いの痛み苦しみを覚えてゆきたいと願います。どうぞ私たちがこれからも互いに祈りに覚え合い、つながりあって、悲しみも喜びも共にしてゆくことができますように。