2020年4月5日「十字架の道」
2020年4月5日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:ヨハネによる福音書18章28‐40節
「十字架の道」
心の距離まで遠くなってしまわないように
4月になり、新しい年度を迎えました。国内外では新型コロナウイルスの影響がさらに深刻化しています。いま病いの中にある方々の上に主からの癒しがありますように、また医療従事者の方々をはじめ懸命に対応にあたっている方々の上に主のお守りがありますように祈ります。また一人ひとりの健康と生活が守られますようにご一緒に祈りをあわせてゆきたいと思います。
新型コロナウイルスの感染拡大を受けて、《社会的な距離》を取ることの必要性が言われるようになりました。席に座る際はなるべく互いに距離を取るように、大人数の集会は控えるように、また不要不急の外出を控え人とは会わないようにすること等が求められている状況があります。このように《社会的な距離》を取ることの必要性が叫ばれるというのは、これまでにはない新しい事態です。私たちの社会はいま、これまで経験したことがない事態に遭遇しているのかもしれません。
私たちは現在、必要に応じて互いに「物理的な距離」を取ることが求められています。しかしそのように物理的な距離を取る中で、「心の距離」まで遠くなってしまわないだろうか、という不安を感じます。たとえ物理的な距離は取っていても、心の距離までは遠くなってしまわないように気をつけたいものです。むしろこのような時だからこそ、心の距離はより近く、互いに祈りに覚えあい、配慮しあってゆくことが求められているのではないでしょうか。
《社会的な距離》を取ることが求められている中で、いま多くの人が困難を覚えていることと思います。新型コロナウイルスの問題以外のことでも、もちろん助けを必要としている人はたくさんいます。このような特異な状況の中で、孤立してしまう人が出ないよう、互いに配慮しあってゆきたいと願います。
私たちはいま、教会の暦で受難節の中を歩んでいます。イエス・キリストのご受難を心に留めて過ごす時期です。ちょうどいま、私たちの社会もまた「受難」の時にあると言えるでしょう。主のお苦しみを覚えつつ、同時に、隣り人の苦しみにも心を開いてゆきたいと思います。
十字架の道行き
カトリック教会には、イエス・キリストのご受難を14の場面に分け、その一つひとつに想いを巡らしてゆく「十字架の道行き」というものがあります。黙想の助けとなるように、一つひとつの祈る場(『留』と呼ばれます)にはその場面を描いたレリーフが掲げられています。人々はレリーフを前に佇み、主のお苦しみの一つひとつに想いを馳せながら受難の道を追体験してゆきます。
十字架の道行きは死刑の判決が下される場面に始まり、主が墓に埋葬される場面で閉じられます。先ほどご一緒にイエス・キリストがローマ総督ポンテオ・ピラトに尋問を受ける場面をお読みしました(ヨハネによる福音書18章28‐40節)。主イエスがピラトのもとで死刑の宣告を受けるところから「十字架の道行き」は始まってゆきます。
第1留「主イエス、死刑の宣告を受ける」
スクリーンにレリーフを映していますのでご覧ください。第1留「主イエス、死刑の宣告を受ける」のレリーフです。
ポンテオ・ピラトはローマ古代史にも出てくる歴史上の人物です。ピラトは紀元26年から36年までローマ総督の役職についていました。このことからも、イエス・キリストのご受難は単なる物語ではなく、歴史的な事実であることが分かります。
私たちは礼拝の中で使徒信条という信条文を告白しています。その中に、《ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け…》という文言がありますね。この文言を唱える度、やはり私たちは主イエスが苦しみを受けられたのは歴史的な事実であることを確認しています。
主イエスを殺そうと策略を練っていた人々は、主イエスを「ユダヤ人の王を自称した」罪で訴えようとしていました。「王を自称し、民衆を扇動しようとした」罪、すなわちローマへの反逆罪をはたらいたとして、主イエスを死刑にしようとしたのです。
ただしピラト自身は主イエスを尋問した結果、目の前にいる人物が死刑に価する罪を犯した人物であるとは思えなかったようでした。ピラトは主イエスを罪には定めず、釈放しようとします。ピラトは人々の前に進み出て、言いました。《「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。/ところで、過越祭にはだれか一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。」/すると、彼らは、「その男ではない。バラバを」と大声で言い返した。バラバは強盗であった》(18章38-40節)。
当時、過越し祭の際に囚人を一人釈放するということがなされていたようです。いわゆる恩赦のようなものですね。ピラトはこの慣習を利用して主イエスを釈放しようとします。しかし、事態はピラトの意図とはまったく異なる方向へと進んでゆくことになりました。
ピラトがバラバという人物とイエス・キリストと、どちらを解放するかを集まっていた人々に問うと、集っていた人々は「バラバを」と言いました。ヨハネ福音書ではバラバは《強盗であった》と書かれていますが、おそらく当時のローマへの抵抗・独立運動の指導者の一人であったのではないかと考えられます。一部の人々から英雄視されていた人物であったのかもしれません。
では、主イエスについてはどうするかとピラトが問うと、集まっていた人々は《十字架につけろ。十字架につけろ》(19章6節)《殺せ。殺せ。十字架につけろ》(同15節)と叫びました。十字架刑は当時、最も残酷であると言われていたローマの処刑法でした。こうして、主イエスはまったく無実であるにも関わらず、罪人として死刑に――しかも当時最も残酷であると言われていた十字架刑に処せられることとなりました。
自分たちの都合のために無実の人を殺そうとした人々。無実であると知りながら、群衆に迎合して主イエスの死刑を決定してしまったピラト。また、一部の人々に扇動されて、主イエスに対して残酷な十字架刑を望んだ群衆。これら人々が犯した罪悪は、私たち自身の内に渦巻いている罪悪でもあると受け止めることができるでしょう。
死刑の判決を受けた後、主イエスは鞭打ちの刑を受けました。この鞭打ちがいかに残酷な刑罰であったかは、映画『パッション』(監督:メル・ギブソン、2004年)を御覧になった方はよく実感しておられることと思います。この鞭打ちだけで死んでしまう可能性があるほど残酷なものでした。すさまじい暴力を受け、心身が衰弱しきった主イエスは十字架刑に処せられるために外へ引き出されます。
十字架の道行きはその後、第2留「主イエス、十字架をになう」、 第3留「主イエス、初めて倒れる」、第4留「主イエス、母マリアに出会う」、第5留「主イエス、キレネ人のシモンの助けを受ける」と続きてゆきます。
第6留「主イエス、ベロニカより布を受け取る」
今日は時間の都合上、一つひとつの場面をご説明することはできませんが、最後に、もう一つの場面をご一緒に見てみたいと思います。第6番目の場面です。第6留「主イエス、ベロニカより布を受け取る」。
ここで、ベロニカという一人の女性が登場します。十字架を背負って歩く主イエスに駆け寄り、ベールを差し出した人物です。主イエスがベロニカからベールを受け取り、顔をぬぐわれると、その布に主イエスの顔の跡がそのまま残った、という伝承が残されています。
この場面は福音書に出て来るわけではありません。ベロニカも実在した人物であるのかは定かではありません。もしかしたら伝説上の人物であるのかもしれませんが、このベロニカという人物と彼女が取った行動は、これまで教会において大切に受け継がれてきました。
血と汗と泥にまみれた主イエスのお顔をぬぐいたいと想い、駆け寄らずにはいられなかったベロニカ。その場面を想像してみると、いかに彼女の行動が勇気ある行動であったかが分かります。そのとき、主イエスの周りは屈強なローマ兵士たちが囲んでいました。またやじ馬で集まってきていた人々の心ない言葉がたくさん飛び交ってもいたでしょう。そして十字架を担いで歩かされている主イエスのお体は血と泥にまみれてしまっています。思わず体がすくみ、固まってしまうような悲惨で、恐ろしい光景です。そのような恐ろしい状況の中で、ベロニカは勇気を出して、もしくは無我夢中で、主イエスのもとに駆け寄りました。そうせずにはいられなかった、駆け出さずにはいられなかったのでしょう。
駈け出さずにはいられない愛
以前、岩手県立美術館にて開かれた舟越保武彫刻展(『舟越保武 彫刻展―まなざしの向こうに―』2014年10月25日~12月7日)を観に行ったとき、「聖ベロニカ」(1986年)という作品が展示されていました。この作品は舟越さんが右半身の自由を失う前の最後の作品であるとのことでした。
舟越さんの彫刻作品の女性像と言えば、少し俯いて静かに微笑んでいるイメージがあります。しかしこのベロニカ像は他の女性像とは印象が異なります。スクリーンに映した画像をご覧いただくと分かりますように、このベロニカは前をはっきりと見つめ、口を開け、苦悶の表情を浮かべています。これはベロニカが主イエスのもとに駆け寄る直前の心の動きを表しているのかもしれないと感じました。
ベロニカという人物。先ほど申しましたように、ベロニカの物語は聖書の中に出てくるわけではありません。もしかしたら実在の人物ではなかったかもしれませんが、しかし、彼女の存在は非常なリアリティーをもって、私たちの心に何かを訴えかけてきます。まるでいまそこに、実在しているかのように――。
もしかしたら、このベロニカという存在は、人々が主イエスのご受難に想いを馳せる中で、形作られた存在であるのかもしれません。十字架を背負って歩く主を前に、その痛みと苦しみを前に居てもたってもいられなくなり、主のもとに駆け寄らずにはいられなかった人々の想いが具体的な形をとった存在であるのかもしれません。その意味で、ベロニカは私たち一人ひとりの心の中にいるのだ、ということができるでしょう。
主イエスの血と汗と泥にまみれたお顔をぬぐってさしあげたい。せめて、この自分のベールでぬぐってさしあげたい――。そのように、愛する人のために思わず走り出さずにはいられない愛、駆け出さずにはいられない愛。その溢れ出た愛が、ベロニカという一人の人物の形をとって、主イエスのもとに駆け寄った。そうして主イエスにベールを差し出した。主イエスは深い感謝をもってその布を受け取られ、その顔をぬぐわれた。布にはその主のお顔が消えることなく刻みつけられた――そのような場面として私は受け止めています。
心の内のベロニカを見失わないように ~大切な誰かのためにベールを差し出し
私たちはいま、新型コロナウイルスの影響で、必要に応じて物理的な距離を取らなければならないという状況にいます。そのような特異な状況の下、私たちの心の内は時に不安や恐れで一杯になってしまうこともあるでしょう。不安や恐れに駆られる中で、私たちは心の内からベロニカを見失ってしまってはいないだろうかと想わされます。他者の為に駆けださずにはいられない愛、その切なる想いが見失われてはいないだろうか。
たとえ物理的な距離は取っていたとしても、心の距離まで遠くなってしまわないように気を付けたいものです。他者を想い、他者の為に祈り、自分にできることをなすことを私たちは止める必要はありません。
新約聖書のヨハネの手紙一には《愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します》という言葉もあります(4章18節)。受難節のこの時、主のお苦しみを前に主のもとに駆けださずにはおられなかったベロニカのように、私たちも大切な誰かのためにベールを差し出し、自分にできることを行ってゆきたいと願います。