2020年5月10日「弁護者、すなわち真理の霊」

2020510日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:ヨハネによる福音書151827

弁護者、すなわち真理の霊

 

 

「愛」の反対の言葉は……?

 

「愛」と反対の言葉、というと皆さんはどの言葉を思い浮かべるでしょうか。「愛」と反対の言葉として「憎しみ」を思い浮かべる方が多くいらっしゃることでしょう。

 あるいは、「愛」の反対は「無関心」であると言われることもあります。これも確かにそうだなあと実感させられることです。憎しみは少なくとも相手に強烈な関心を持っているので、無関心とは異なるものです。相手のことをそもそも気にかけていない無関心は、確かに愛とは正反対のものであるでしょう。

 

 

 

愛の反対は、相手の存在を軽んじ排除すること

 

 愛の反対は、憎しみ。または、愛の反対は、無関心。どちらも私たちが納得することができる答えですが、憎しみと無関心には共通項があるようにも思えます。それは、相手の存在を軽んじている、または否定している、という共通項です。

 

 もちろん、憎しみにもいろいろな憎しみがあります。愛情の裏返しとしての憎しみもあるでしょう。愛を内包している憎しみもあるでしょう。そのような憎しみは相手の存在を軽んじたり否定しているわけではないので、「愛憎(半ば)」と表現するのが適切であるかもしれません。ここで私が述べているのは、愛とは切り離された、ある意味、純粋な憎しみです。そのような憎しみには、相手の存在を軽んじたい、排除したいというネガティブな動機付けが働いている場合が多くあるように思います。

 

 その意味で、愛の反対は、相手の存在を軽んじること、そして排除すること。そのように形容することができるのではないでしょうか。

 

 

 

聖書が語る愛 ~相手の存在を極みまで重んじること

 

 そのことを踏まえて、聖書が語る愛とはどのようなものか思い起こしてみたいと思います。

 聖書の愛は「好き」という感情だけを指すのではなく、相手の存在を重んじ、大切にする姿勢を指している言葉です。相手のことが好きか嫌いかを超えて、相手の存在を極みまで重んじるよう働くものが、聖書が語る愛です。

 先ほど、愛の反対は相手の存在を軽んじ排除することだと述べました。「軽んじる」の反対は「重んじる」ということですよね。

 

 聖書は、神さまが私たちを愛するゆえ――すなわち、私たちの存在を重んじてくださるゆえ、独り子をこの世界にお送りくださった、と語ります。《神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された(ヨハネによる福音書316節)

また、イエス・キリストは私たちを愛するゆえ――私たちの存在を極みまで重んじてくださるゆえ、私たちのために命を捨てて下さったのだと聖書は語ります。《友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない(同1513節)

これらはすべて、私たち一人ひとりの存在を神さまが重んじ、大切にして下さっているゆえのことでした。

 

 

 

《世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい》

 

 聖書が語る愛とは、相手の存在を極みまで重んじること。そのことをご一緒に確認しました。その愛の反対が、相手の存在を軽んじることです。相手を軽んじ排除する姿勢がどんどんとエスカレートしてゆくと、遂には相手の存在そのものを否定し、抹殺することにまで至ります。「愛」とは正反対のこの否定的な力を、本日の聖書箇所は「憎しみ」という言葉で表現しています。

 

 改めて冒頭の部分をお読みいたします。十字架におかかりになる前、主イエスが弟子たちに告げられた言葉の一部分です。ここでは愛と反対のものである憎しみについて述べられています。《世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。/あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである(ヨハネによる福音書151819節)

 

  ここで主イエスはこの先弟子たちが周囲から憎しみを向けられることを予告されています。しかし、そのように周囲があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にこの私を憎んでいたことを思い起こしなさい、と主イエスはお語りになります。人々から真っ先に激しい憎しみを向けられたのは、他なる主イエスご自身であるからです。

 

 主イエスはこの言葉を弟子たちに告げた後、十字架の道を歩んでゆくこととなります。人々から激しい憎しみを向けられ、軽んじられ排除され、そして最後には存在そのものを抹殺されることを他ならぬ主イエスご自身が経験されたのです。

 

 私たちの内にある「憎しみ」――異質な存在や自分にとって都合の悪い存在を軽んじ、排除しようとする想いが、遂には何の罪もない神の御子を十字架にはりつけにしてしまったのだと受け止めることができるでしょう。

 

 

 

弁護者、すなわち真理の霊

 

 主イエスは本日の聖書箇所において愛とは真逆の憎しみについて警鐘を鳴らしながら、同時に、希望の言葉も残してくださっています。

わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。/あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである152627節)

 

 主イエスがこの世界を去られて後、弟子たちのもとに聖霊が遣わされる、というのですね。ここではその聖霊は《弁護者》または《真理の霊》と呼ばれています。

 

 主イエスは人々から軽んじられ排除され、その存在を否定されて生涯を閉じました。社会的に抹殺されたと同然の死を遂げられました。しかしこの《弁護者》すなわち《真理の霊》は、主イエスの成し遂げられたことは決して「なかったこと」にはなさらない。十字架によって示された神の愛を私たちが知るようにと働いて下さる、そう語られています。いまは理解できていない多くのことを私たちが理解することができるようにしてくださる161213節)のだ、と。

 

 人の目には、いまは憎しみの力が勝ってしまっているように見えるかもしれない。しかし、主の十字架を通して現わされている愛の力は、決して消えることはない。私たち一人ひとりは必ず神さまの愛の内にとどまり続ける、そのように聖霊が導いて下さる――。ここで主イエスはそう約束をしてくださっています。

 

 

 

憎しみが力を振るってしまっている現状

 

 本日は聖書が語る愛と、その反対のものである憎しみについてお話しました。愛とは、相手の存在を重んじ、大切にすること。憎しみとは、相手の存在を軽んじ、排除しようとすること。このように受け止めますとき、いまの私たちの社会はいまだ憎しみが大きな力を振るっていると思わざるを得ない現状があります。

 とりわけ新型コロナウイルスの影響を受け、愛が見失われ、憎しみが力を振るってしまっている状況があるのではないでしょうか。

 

 私たちの住む岩手県ではいまだPCR検査による感染者が確認されていません。いまだ感染者がゼロであること自体は感謝すべきことですが、それと共に「絶対に感染してはならない」というプレッシャーがますます人々の内に高まってしまっているように思います。自分が一人目になったらどうしよう、自分の家族が一人目になったらどうしよう。自分の職場から、学校から、施設から、感染者が出てしまったらどうしよう……などの不安を感じつつ、心のどこかにピリピリとした緊張感を覚えつつ、私たちは生活をしています。

 そのような不安や恐れは時に私たちの内から愛を見失わせ、憎しみへと駆り立ててしまうことがあることを注意したいと思います。実際、そのことによる問題やトラブルが様々なところで起こってしまっているのではないでしょうか。

 たとえば県外ナンバーの車への誹謗・中傷、いやがらせが複数生じていると報道されています。「絶対に感染してはならない・させてはならない」と思うあまり、目の前の車が県外ナンバーであるということだけで、その相手に憎しみが湧き起こることが起こっているようです。閉塞感が高まりストレスフルな生活をする中で、いつしか私たちは憎しみの矛先を向ける対象を常に探し求める心理状態に陥ってはいないでしょうか。

 

 

 

憎しみではなく愛に根ざして歩んでゆくことができますように

 

 できる限り感染予防をしてゆくことは、もちろん大切です。これからも引き続き、感染予防をできる限り行ってゆきたいと思います。

と同時に、いま私たちの心の内を占めているのは愛であるのか、それとも憎しみであるのか、一度立ち止まって見つめてみる必要があるのではないかと思わされています。「感染してはならない・させてはならない」と思うあまり、愛を見失い、憎しみの力に動かされてしまってはいないだろうか。また、「感染予防」という名目のもと、憎しみの力に動かされている自分を正当化してしまってはいないだろうか。

 

もちろん、いまの状況下においては、相手を重んじるゆえ、相手と距離を取るという選択肢も重要でありましょう。その人を愛するゆえ、あえて距離を取っている、そのことと、不安や恐れゆえに相手を排除しようとすることは、似ているようでいてまったく内実が異なるものです。相手の存在を軽んじ排除しようとすることは、いかなる状況下にあっても、決して正当化できるものではありません。私たちはいま目の前の人に対して、愛に基づいて対応しているのか、それとも憎しみに動かされて対応しているのか。今一度見つめ直してみる必要があるでしょう。

 感染症予防の対策を講じることと、愛の行為とは本来、両立し得るはずです。いかなる状況下にあっても、相手の存在を重んじ、大切にすることを私たちは止めてはなりません。主イエスが私たちに伝えて下さっている愛を見失ってはなりません。

 

 私たちが憎しみではなく愛に根ざして歩んでゆくことができますように、聖霊なる主の導きを祈り求めたいと思います。