2020年5月3日「主の愛にとどまる」
2020年5月3日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:ヨハネによる福音書21章15-25節
「主の愛にとどまる」
自分の心と体を大切に
ゴールデンウィークのさ中、いかがお過ごしでしょうか。連休中ではありますが、皆さんも外出を控え、ほとんどの時間をご自宅で過ごしていらっしゃることと思います。外出することを自粛し自宅で過ごす、特異なゴールデンウィークとなりました。
外に出ないことでウイルスに感染するリスク・感染させるリスクはなくなりますが、外出自粛が長く続くことによる別のリスクも徐々に高まっていることが懸念されます。日常の生活が制限されることのストレス、閉塞感、運動の不足、これまでの交友関係が中断することの孤立感、また先が見えない不安などによって、私たちが意識する以上にいま心と体に負荷がかかってしまっているのではないかと思います。疲れもかなり溜まってきている時期なのではないでしょうか。
外では人と物理的な距離を取っている反面、多くのご家庭では家の中での家族との距離が今まで以上に「密」になっていることでしょう。その気疲れも出てきていることと思います。
ストレスから、体に悪いものをつい飲み食いし過ぎてしまったり(!)、生活のリズムが崩れてしまったり、身近な人に八つ当たりしてしまったり、ということも起こっていることでしょう。
また、パソコンやスマホなどの電磁波を発する機器に絶えず触れ続けている生活スタイルも心配なところがあります。家でのオンライン学習やテレワークは感染の心配がなく便利である反面、別の側面の体や健康への影響がないか――特に子どもたちへの影響――を懸念しています。
この連休中、改めて自分自身を労わり、自分を大切にすることをご一緒に思い起こしたいと思います。決して無理はせず、自身の心と体を労わってあげることが重要です。このような状態はまだしばらく続いてゆくと言われています。自分を大切にし、身近な人を大切にし、一歩一歩、共に歩んでゆきましょう。
花巻教会年間主題聖句 ~明日のことまで思い悩むな
花巻教会は今年度、マタイによる福音書6章34節を年間主題聖句にしています。《だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である》。明日のことまで思い悩む必要はない、と私たちにやさしく語りかけてくださっている御言葉です。
私たちの目の前には様々な問題や課題があります。明日のこと、先のことが見えづらい状況が続いています。先のことを考えている内に、どんどんと憂鬱になってしまう、暗い気持ちになってしまう、というのはいまの私たちの共通の感覚なのではないでしょうか。まだ見ぬ明日への不安に時に押しつぶされそうになる私たちに向かって、イエス・キリストは「明日のことまで思い悩むな」と語りかけてくださっています。
もちろん、明日のことを考えること、先のことを考える事は大切です。この主イエスの言葉は、「明日のことは一切考えることなく、無計画であれ」ということを言っているのではないでしょう。
私たちにとって明日は大切ですが、同時に、今日という日も大切です。今日という日を飛び越えて明日が訪れることはありません。私たちが明日のことについて悩んでいるとき、つい忘れがちになってしまうのは今日という日の大切さではないでしょうか。
今日という日を大切にして生きること。この積み重ねによって、明日=未来もまた形づくられてゆくのだと思います。マタイによる福音書6章34節の主イエスの言葉も、今日という日に私たちの心を向き直して下さるものです。
神さまの愛の光の中で、自分を大切にし、隣人を大切にして、今日という日を生きる。この積み重ねが、私たちの心に少しずつ、明日への確かな希望をも育んでゆくであろうことを信じ、今年度もご一緒に歩んでゆきたいと願っています。
復活の主とペトロの対話
私たちは今、教会の暦で復活節の中を歩んでいます。先ほどお読みしたヨハネによる福音書21章15-25節には復活されたイエス・キリストが弟子のペトロと対話をする場面が記されていました。
主イエスはペトロに向かって、「わたしを愛していますか」とお尋ねになります。その問いに対し、ペトロは「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えます。その問答が三度繰り返されます(15-17節)。三度目にはペトロは悲しくなって、「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」と答えたと福音書は記します。
この「三度」という言葉は、主イエスが十字架におかかりになる前、ペトロが主イエスのことを三度「知らない」と言ってしまった場面を思い起こさせます。
ペトロは主イエスの裁判が行われている大祭司の中庭で、周囲の人々から主イエスの弟子ではないかと問い詰められ、思わず「違う」と嘘をついてしまいました。それが三度続きました。
ペトロが三度主イエスを否認した後、すぐに鶏が鳴きます。これは前もって主イエスが予告されていた通りでした。《はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう》(13章38節)。マタイによる福音書ではペトロはこの主の言葉を思い出し、外に出て激しく泣いたと記されています(マタイによる福音書26章75節)。
三度の否認と三度の確認
主イエスが十字架刑によって亡くなられた後、ペトロたちは家の戸にかぎをかけ、中に閉じこもっていました。ペトロにとって、愛する主を「知らない」と言ってしまったことは激しい心の痛みとなっていたことでしょう。自分は取り返しのつかない過ちを犯した、もう自分には生きている資格はないとまで思い詰めてしまっていたかもしれません。
そのようなペトロたちの前に、復活の主イエスは現れて下さいました。主イエスが弟子たちに告げた最初の言葉は《あなたがたに平和があるように》(ヨハネによる福音書20章19節)というものでした。他の弟子たちも主イエスを見捨てて逃げてしまったわけですが、そのような弟子たちのことを主イエスははじめから「ゆるしてくださっていた」のです。主イエスの愛に包まれながら、弟子たちは再び立ち上がってゆく力を与えられてゆきました。
自分たちがゆるされていることを知らされつつ、もしかしたらペトロの心には、「あの出来事」が引っかかっていたのかもしれません。主イエスを三度否んでしまったあの出来事です。それがどうしても心に引っ掛かり続けて、離れなかったのかもしれません。あのようなことを言ってしまった自分が、どうしてもゆるせなかったのかもしれません。
そのような中、復活の主イエスがまたペトロたちの前に現れて下さいました。それは奇しくも復活の主との「三度目」の出会いでした。その三度目の出会いにおいて、主イエスはペトロに「わたしを愛していますか」と問いかけて下さったのです。ペトロに向かってご自分への愛を「三度」確認することで、ペトロが「三度」否認してしまったことをはっきりと過去のこととしてくださったのではないでしょうか。
そうして、主イエスはご自分とペトロとの間には確かな愛の関係があることを確認してくださいました。ペトロの心にもまた、主への真実なる愛があることを示してくださったのです。主イエスはペトロの愛を心から信頼してくださっていました。ご自分への愛を三度確認することによって、主イエスはペトロを罪の意識の縄目から解き放ってくださったのだ、と本日はご一緒に受け止めたいと思います。
《主よ、あなたは何もかもご存じです》
自分で自分がゆるせない――これは私たちにとって非常に苦しい事です。心の奥底にこびりついて離れないその想いは私たちの心を縛り、だんだんと私たちの内から力を失わせてゆきます。自分自身への肯定的な感情を失わせてゆきます。そのような中、時に自暴自棄な衝動に囚われていってしまうこともあるでしょう。
主イエスはそのような私たちのことをすべて知って下さっています。そのような私のことを何もかも、すべてご存じの上で、愛して下さっているのです。そして私たちの内にも確かな愛が宿っていることを信じ、その愛をまっすぐに見つめてくださっています。
キリストの愛にとどまる中で、私たちは自分の内にも愛する力があることを知らされてゆきます。神を大切にし、自分を大切にし、隣人を大切にする――その愛が私たちの内にも与えられていることを思い出してゆきます。
いまご一緒に、ペトロの愛の言葉に私たちの心を合わせたいと思います。《主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます》(17節)。