2020年6月28日「神の国の平和」
2020年6月28日 花巻教会 聖霊降臨節第5主日礼拝
聖書箇所:ヘブライ人への手紙12章18-29節
「神の国の平和」
沖縄慰霊の日
先週の火曜日、6月23日は沖縄慰霊の日でした。沖縄戦で亡くなった方々を追悼する日、そして平和への祈りをあわせる日です。今年は戦争の終結からちょうど75年の節目を迎える年でもあります。
毎年糸満市の摩文仁(まぶに)の平和記念公園で行われている追悼式は、今年は新型コロナウイルス感染予防のため、参列者の数を大幅に縮小して開催されました。沖縄県内各地で行われている追悼行事も、やはりコロナの影響により、中止または縮小を余儀なくされたとのことです。
皆さんもご存じの通り、沖縄戦は太平洋戦争末期の1945年3月末に始まり、激烈な地上戦の末、6月23日にその組織的戦闘が終結しました。県の人口の4人に1人にあたる12万人もの方々が亡くなったと言われています。日本とアメリカの軍人を合わせると、亡くなった方の数はおよそ20万人に上ります。
追悼式での平和宣言の中で、玉城デニー知事は《戦争終結75年の節目を迎えようとする今日、私たちは、忌まわしい戦争の記憶を風化させない、同じ過ちを繰り返さない、繰り返させないため、沖縄戦で得た教訓を次世代に伝え、平和を希求する「沖縄のこころ・チムグクル」を世界に発信することを呼びかけます》と述べられました(朝日新聞、2020年6月24日4面、『玉城知事の平和宣言(要旨)』より)。沖縄戦をはじめ、戦争の記憶をいかに次世代に受け継いでゆくかは、現在の切実な課題でありましょう。
また、玉城知事は続けて、戦後75年を経た現在も、沖縄に米軍基地の約70.3パーセントが集中している状況について述べています。基地問題は他ならぬ、県外に住む私たちが考えるべき課題です。私たち自身の問題として、米軍基地問題について、共に考え続けてゆきたいと思います。
命どぅ宝 ~命こそ宝
慰霊の日の6月23日に、私が聖書の授業を担当している高校でちょうどチャペル礼拝がありました。メッセージの中で慰霊の日について取り上げ、沖縄の《命(ぬち)どぅ宝》という言葉を紹介しました。「命こそ宝」という意味で、沖縄の平和運動において大切にされてきた言葉です。
また、チャペル礼拝のメッセージでは、阿波根昌鴻(あはごん・しょうこう)さん(1903~2002年)という方の言葉も紹介しました。阿波根昌鴻さんは沖縄の基地反対運動の先頭に立ってきた方で、故郷の伊江島に反戦平和資料館「ヌチドゥタカラの家」を創設された方です。阿波根さん自身、たった一人の子どもであった息子さんを沖縄戦で亡くされています。お連れ合いのご実家では祖母と父母と弟二人と妹一人が亡くなられたそうです。
阿波根さんが90歳のときに書かれた『命こそ宝 沖縄反戦の心』という本(岩波新書、1992年)の中に、このような言葉がありました。《戦争中、わしらはあまりにも命を粗末に考えておった。二度と戦争をおこなわせないためには、何よりも命を大事にすることである。戦後になって、非常に反省しました》(5頁)。
阿波根さん自身、愛する息子さんを沖縄戦で亡くされたわけですが、同時に、自分自身にも責任を感じておられたようです。
戦争中は、「命は鴻毛より軽し」という考えが浸透していた。「鴻毛」とは鳥の羽毛のことです。命は羽毛よりも軽いもの、だから命を捨てることは少しも惜しくないのだ、と。「命こそ宝」とは正反対の言葉ですね。しかし戦争中は、そのように国のために命を差し出すことが推奨されていた。そのような中、自分たち自身が、命を粗末にする考えに囚われていたのではないか、と阿波根さんは振り返っておられます。《これだけの人たちが死んだのは、わしら自身が命を粗末にする考えからぬけだせなかったからである。…》(8頁)。
戦後、その反省を踏まえ、阿波根さんは命の尊さ、《命どぅ宝》を訴え続けてゆきました。《「命どぅ宝」(命こそ宝)、これは実に大事なことばである。沖縄戦というこの世の地獄を経験し、そして敗戦後の半世紀、ずっと基地反対闘争を戦ってきて、もう90歳になるわしが、生涯をかけて伝えたいことばも、またこれであります》(2頁)。
一人ひとりの命は、ただ一つの命です。かけがえのない命です。「かけがえがない」とは、「替わりがきかない」ということです。一人ひとりの命は替わりがきかないものであり、だからこそ決して不当な暴力で失われてはならないものです。沖縄慰霊の日であった火曜日、高校生の皆さんにぜひ《命どぅ宝》と阿波根さんが遺された言葉をお伝えしたいと思い、チャペル礼拝でお話ししました。
今年は沖縄戦から75年の節目の年です。戦争の記憶を受け継ぐとともに、「命こそ宝」であるメッセージをご一緒に心に刻みたいと思います。
神の国 ~神さまの願いが実現されている場
先ほどご一緒に讃美歌578番「平和を求めよう」を歌いました。「平和の都 エルサレム」を主題とする賛美歌です(参照:日本基督教団讃美歌委員会編『讃美歌21略解』、日本キリスト教団出版局、1998年、356頁)。最後の4節はこのような歌詞でした。《世界の平和を 求め祈ろう、「地上にみ国が 来ますように」》。
《み国》とは、神の国のことです。エルサレムに、そしてこの世界に神の国が到来し、平和な世界が実現することへの祈りが記されています。
「神の国」はギリシア語の原語では「神のご支配」とか「神の王国」とも訳すことのできる言葉です。神さまの力、神さまの権威、また神さまの願いが満ち満ちている場所というニュアンスでしょうか。「神の国」とはすなわち、神さまの願いが実現されている場です。
先ほど、一人ひとりの命はただ一つのかけがえのないものであることを述べました。聖書は、神さまの目に、一人ひとりの存在がかけがえのないものであることを語っています。一人ひとりの存在が、かけがえのないものとして大切にされること――これが私たちに対する神さまの願いであるのではないでしょうか。その神さまの願いが実現される場、それが神の国であるのだと受け止めています。
《み国を来たらせたまえ》という祈り ~この地に神の国の平和が実現されるように
聖書は、この神の国は、地上に実現するものであることを語っています。私たちが「行く」のではなく、神の国が、私たちのもとに「来る」。そう捉えるのが聖書の重要な特徴の一つです。
讃美歌578番「平和を求めよう」でも《地上にみ国が 来ますように》と謳われていましたね。この地上に神の国が到来することを求める祈り。この祈りをキリスト教は大切にしてきたわけですが、この祈りを教えて下さったのが、他ならぬイエス・キリストその方です。
私たちが礼拝の中で毎回お祈りしている主の祈り、その中に《み国を来たらせたまえ》という祈りがありました。神の国が来ますように――私たちの生きるこの地に神の国の平和が実現されるようにと、教会は祈り続けてきました。いまも祈り続けています。
この私たちの祈りの中心におられる方、それがイエス・キリストです。主イエスはいまも私たちと共に、この地に神の国の平和が実現されるよう祈り続けて下さっています。
主は十字架におかかりになったお姿で
本日の聖書箇所に次の一節がありました。ヘブライ人への手紙12章22-24節《しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、/天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、/新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です》。
《生ける神の都、天のエルサレム》という表現がありました。これが、すなわち神の国のことです。本日の聖書箇所では旧約聖書のイメージなどを用いて、神の国のビジョンが力強く語られています。この神の国のビジョンの中心におられるのがイエス・キリストです。主イエスは十字架におかかりになったお姿で、私たちに平和の福音を語り続けて下さっています。
一人ひとりの命と尊厳が重んじられるように
本日は沖縄慰霊の日にあわせ、《命どぅ宝》という言葉をご紹介いたしました。また、神の国はわたしたちのもとに「到来する」ものであることを述べました。
神の国の平和がこの地に到来するため、私たち一人ひとりに神さまから大切な役割を与えられています。
命こそ宝であるということは、自分自身の命だけではなく、自分以外の人の命も宝であるということです。「命」という言葉が指し示しているのは自分一人だけの命ではなく、「一人ひとりの命」です。自分を含む一人ひとりの生命と尊厳が重んじられるように努めてゆくことが、この地に少しずつ神の国が実現することへとつながってゆくのだと受け止めています。
《み国を来たらせたまえ》――この地に神の国の平和が実現されるため、それぞれが足元から、自分にできることを行ってゆきたいと願います。