2020年8月2日「正義と平和と喜び」
2020年8月2日 花巻教会 平和聖日礼拝
聖書箇所:ローマの信徒への手紙14章10-23節
「正義と平和と喜び」
8月になり……
8月になりました。長かった梅雨もようやく明けようとしています。停滞し続ける梅雨前線によって、この7月は全国各地で大きな災害が発生しました。7月3日からの大雨は「令和2年7月豪雨」と命名される大変な豪雨となり、九州を中心に甚大なる被害がもたらされました。また先週は東北地方でも大雨による被害が生じました。特に最上川が氾濫した山形県の一部の地域では大きな被害がもたされています。この度の豪雨災害によって亡くなられた方々のご遺族の上に主の慰めがありますように、現在も懸命に復旧活動をしておられる方々の上に主のお支えがありますよう祈ります。
この7月は梅雨前線が長期間停滞し続けた一方で、台風は発生しませんでした。7月に台風の発生がないのは1951年の観測開始以来初めてであるとのことです。ただし今後は新たな熱帯低気圧が発生することが予想されています。昨年は9月に発生した台風15号により関東地方に大きな被害がもたらされ、10月に発生した台風19号~21号により国内の広範囲にわたって甚大なる被害がもたらされました。今年も豪雨と共に、台風への備えもしてゆく必要があるでしょう。
先月は記録的な日照不足と低温により、あまり夏を感じさせない日が続きました。間もなく梅雨が明け、ようやくこれから、夏本番の暑さになります。皆さんもどうぞ体調管理にはお気を付けください。今年は新型コロナウイルス感染予防のため、外出の際にマスクを着用する機会が多くあることと思います。小まめに水分を取るなど、例年以上に熱中症には気を付けてゆきたいと思います。
県内でもPCR検査による陽性者が確認
皆さんもよくご存じのように、私たちの住む岩手県でもこの度、PCR検査による陽性者が確認されました。8月2日現在、盛岡、宮古、矢巾、北上市で計4名の方の新型コロナウイルスの陽性が確認されています。今後、岩手でも感染判明者が増大してゆく可能性があります。感染した方々・これから感染する方々が重症化することのないよう、一人ひとりの健康と生活とが守られますよう祈るものです。
私たちも引き続き感染の予防を心がけてゆきたいと思います。と同時に、感染が判明した方々やその関係者が精神的に追い詰められることのないよう、十分に配慮してゆきたいと思います。残念なことに、陽性が判明した方と勤務先の会社に対してすでに一部の人々から心ない言葉や誹謗中傷が向けられている現状があると報道されています。県としても差別や中傷に対しては厳しい姿勢をもって臨むことを明言していますが、感染したことを断罪するような言葉を発するのではなく、労わり合う言葉をこそ互いに発してゆきたいと思います。
陽性が判明した人に対して私たちが伝えねばならないことは、「あなたは悪くない」というメッセージであるでしょう。社会で生活を営む以上、どれほど気を付けようと感染するときは感染してしまうのがウイルスというものです。この先、もしかすると私たち自身が陽性になるかもしれません。身近な方々に陽性反応が出るかもしれません。互いに労わり合い、支え合う姿勢を改めて思い起こしたいと思います。
平和聖日
本日はご一緒に平和聖日礼拝をおささげしています。共に平和を祈り求める日です。
平和の反対の言葉というと、多くの人が戦争を思い浮かべることと思います。ただし、平和は国と国の間で「戦争がない状態」だけを意味するものではありません。たとえ国家間に戦闘行為が生じていなくても、たとえば、現在のように環境破壊によって異常気象が生じていたり、病原性のあるウイルスが爆発的に拡がっていたとしたら、それは平和ではない状態だと言えるでしょう。また、私たちの間に差別や偏見が生じていたとしたら、やはりそれは平和ではない状態だということになります。
先ほど、PCR検査による陽性が判明した方と勤務先の会社に対して、一部の人々から心ない言葉や誹謗中傷が向けられている現状があると述べました。ウイルスによる健康被害も恐ろしいですが、人の心の中から生じる差別や偏見も恐ろしいものです。他者を一方的に断罪する言葉が飛び交う状況は、やはり平和ではない状態にあるのだと言えるでしょう。
これらのことを踏まえると、平和とは「戦争がない状態」を意味するのみならず、「一人ひとりが大切にされている状態」を指す言葉だと受け止めることができます。
私たちの生きる社会では現在、さまざまな場面で「平和ではない」状況が生じていますが、その平和ではない状況は、一人ひとりが大切にされていないことから生じているのだと受け止めることができるでしょう。
ローマの教会内における対立
本日の聖書箇所であるローマの信徒への手紙14章10-23節を読みますと、手紙のあて先であったローマの教会においても当時、平和ではない状況があったことが伺われます。どうやら教会のメンバーの間で、互いに断罪し合い、軽んじ合う状況があったようなのです。この状況を受けて、手紙の著者であるパウロは、《もう互いに裁き合わないようにしよう》(13節)と呼びかけています。
対立の原因となっていたのは、旧約聖書の律法に記されている食べ物についての規定(いわゆる食物規定)を巡る考え方の相違でした。当時、食物規定を厳格に守ろうとする人と、これら食物規定から自由になろうとする人との間で対立関係が生じてしまっていたようです。
旧約聖書には「食べてよいもの」と「食べてはならないもの」についての決まりが記されています。有名なのは、ブタを食べてはならないという規定ですね。ユダヤ教徒の方々は長きにわたって――そして現在も――この食物規定を大切に守り続けてきました。
一方で、新約聖書の時代になると、その受け止め方に変化が生じることとなりました。ある生き物は「食べてよい=清い」、ある生き物は「食べてはならない=汚れている」と区別するのではなく、神がお造りになった命はすべて「清い」という受け止め方に変化したのです。パウロも本日の聖書箇所で《それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています》(14節)と自身の見解を述べています。ローマの教会の中にも、その信仰に基づき、旧約聖書の食物規定にとらわれずに自由に食事を行う人が現れていたようです。
しかし、ローマの教会の中には、これまでの伝統的な信仰のかたちを遵守している人もいました。もともとユダヤ教徒であった人々の中には、食べる物についての決まり事を変わらず遵守していた人もいたのです。先祖代々大切に受け継いできた信仰の在り方や体に染みついた生活習慣を急に変えるというのは難しいことでもあったでしょう。
このように、ローマの教会において、食べる物に対していわゆる「革新的な」考えをもつ人と、「保守的な」考えを持つ人とが同時に存在していました。革新的な立場に立つ人々は、保守的な立場に立つ人々を「遅れている」と上から目線で軽蔑し、軽んじてしまっていたのかもしれません。保守的な立場に立つ人々は、革新的な立場に立つ人々を伝統的な信仰をないがしろにしていて「ゆるせない」と断罪してしまっていたのかもしれません。
《キリストはその兄弟のために死んでくださったのです》
そのような中、パウロはローマの教会の人々に次のように語りかけます。15-17節《あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。/ですから、あなたがたにとって善いことがそしりの種にならないようにしなさい。/神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです》。
パウロはここで、愛に従って歩むことが肝要であるのだと述べています。それぞれ、自身のゆずることのできない思想信条があるのかもしれない。しかしその思想信条――今回は食べる物についての信念――ゆえに隣人を軽んじ傷つけてしまっているのであれば、あなたはもはや愛に基づいて歩んではいないのだ、とパウロは語ります。
食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはならない。なぜなら、《キリストはその兄弟のために死んでくださったのです》(15節)。パウロは、自分とは考えや立場が異なるその人も、神の目に大切な一人の人間であること、その人のためにイエス・キリストは死んでくださったことを思い起こすよう呼びかけています。
私たちは時に、他者との違いがゆるせなくなってしまうことがあります。そうして相手を軽んじたり、断罪しようとしてしまいます。けれどもそのような時、私たちは互いの相違ばかりを見つめるのではなく、自分も相手も「神に愛された存在である」という共通項を思い起こすことが求められているのだと本日はご一緒に受け止めたいと思います。
正義と平和と喜び
本日は平和聖日礼拝をおささげしています。平和は「一人ひとりが大切にされている状態」であることをメッセージの前半で申しました。平和を祈り求める今日、私たち一人ひとりが神さまに愛されたかけがえのない存在であることを思い起こしたいと思います。
私自身も、私の周りにいる一人ひとりも、すべての人が、神さまのかけがえがない=替わりがきかない存在であること。だからこそ、私たちは互いに尊重し合い、重んじ合うことが求められているのだということ。この真理を私たちが心に留めるところから、少しずつ、平和が創り出されてゆくのではないでしょうか。
パウロは語っています。《神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです》(17節)。一人ひとりを大切にするという正義と、その正義によって実現される平和と喜び。この正義と平和と喜びをご一緒に祈り求めてゆきたいと願います。