2020年9月6日「キリストはあなたを照らされる」

202096日 花巻教会 聖霊降臨節第15主日礼拝

聖書箇所:エフェソの信徒への手紙51120

キリストはあなたを照らされる

 

 

9月に入り……

 

9月に入りましたが、フェーン現象により厳しい暑さが続いています。3日には新潟県三条市で40度が観測されました。9月に40度以上を記録したのは観測史上初めてであるとのことです。皆さんはお身体の具合は大丈夫でしょうか。熱中症にはくれぐれもお気を付けください。

昨日から雨になり暑さは和らぎましたが、今後は豪雨と台風10号による被害が心配です。昨日は近畿地方で猛烈な雨が降り、記録的短時間大雨情報が発表されました。また現在、台風10号は沖縄・奄美・九州地方に接近しています。広範囲にわたって甚大な影響を受ける恐れがあります。7月の豪雨災害の復旧作業がまだ途上の中の、特別警報級の台風の接近です。どうぞこれ以上の被害がもたらされませんように、一人ひとりの安全と生活とが守られますよう切に願うものです。

 

 新型コロナウイルスの問題に関しても、いまだ収束が見えない状況が続いています。私たちの生活する岩手県内でも、少しずつ感染判明者が増えてきています(現在23名)。私たちも引き続き感染の予防を心がけてゆくと同時に、感染が判明した方々やその関係者が精神的に追い詰められることのないよう配慮してゆくことが求められています。感染したことを批判しあうのではなく、互いに労わり合う言葉をこそ発してゆきたいと思います。

 

 

 

「光」のイメージ

 

 聖書を読んでいますと、「光」という言葉に繰り返し出会います。いまご一緒にお読みしたエフェソの信徒への手紙にも出てきていますし、先ほど読んでいただいたヨハネによる福音書にも出てきていましたね。《イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(ヨハネによる福音書812節)

 

 皆さんは「光」と聞いてどのようなイメージを思い浮かべるでしょうか。ある人は、眩しい朝の光をイメージするかもしれません。カーテンの隙間から差し込む朝の光。または、家の外に出た時に私たちの体を包み込む朝の光……。朝の光をイメージするだけで、心の中に何か前向きな気持ちが湧いてくるものですよね。

 あるいは、「光」と聞いて、ロウソクのあかりをイメージする人もいらっしゃるかもしれません。暗闇の中にともる、小さな光です。このイメージも、私たちの心に大切な何かを喚起させてくれるものです。

 このように、光のイメージは私たちの心に前向きな気持ちや希望を喚起させるものです。ですので、聖書においても神さまの愛と恵みを表すのに最もふさわしいイメージとなっているのでしょう。

 

 光には前向きな、よいイメージがあります。私たちは当然、光が差し込むことを願っている――と思ってしまうものですが、よくよく自分の心の内を顧みてみますと、それだけではない部分があることに気づかされます。私たちの心の中には、光を待ち望む自分と、光を避けようとする自分がいる場合があるのです。

カーテンから差し込む朝の光。パッと目が覚めた朝には、まことに気持ちのよいものです。一方で、疲れていて眠い朝には、むしろ眩しすぎて遠ざかりたい対象になります。朝の光から身を隠すようにして毛布を頭まで被り、またそのままグーグーと眠り続けることは誰しもが経験したことのあることです(私も数えきれないくらい経験しています!)。

もちろん、聖書が語っているのは太陽の光についてではなく、神さまの光について、です。聖書は、この神さまの光から切り離された、暗い場所があることを語っています。光が差し込まない場所、神さまの光から、自ら遠ざかろうとしている場所。それを聖書は「暗闇」と呼んでいます。この暗闇は私たちの社会の内に、私たち一人ひとりの心の内にもあるものであると受け止めることができるでしょう。

 

 

 

《それを明るみに出しなさい》

 

光には、「隠れているものを明らかにする」性質があります。スポットライトを当てるという表現もありますが、暗がりにあって隠れているものを明るみに出す性質があるのです。スポットライトが当たることは、私たちにとって嬉しいことであると思えるとともに、場合によっては恐ろしいことであると思えるのではないでしょうか。私たちが人に見えないところで行っていることは、必ずしも人に誇れることばかりではないからです。むしろその大半が、人には見せられないもの、人には見せたくはないものであるのかもしれません。

神さまの光に照らし出されるということは、そのような私たちが人には見せたくないと思う部分もすべて、光のもとに明らかにされることでもあります。そのことにハッと思い至るとき、私たちはすすんで神さまの光のもとに行きたいと思うより、むしろその眩い光から遠ざかりたい、隠れたいと感じてしまうこともあるのではないかと思います。

 

本日のエフェソの信徒への手紙の御言葉は、そのような私たちに語りかけているものです。51114節《実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。/彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。/しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。/明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」》

 

ここでは、暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい、と語られています。神さまの光のもとに、自分のすべてをさらすこと――。このことにまったく抵抗を覚えない人はいないのではないでしょうか。「心の中にあるものをすべて神さまの光の前に差し出しなさい」と言われると、心のどこかに恐れや不安を感じるのが私たちの率直な姿であると思います。

 

 

 

光の子として歩む旅路 ~少しずつ、時間をかけて

 

私たち一人ひとりの心には、普段は人には見せない部屋があるものではないでしょうか。そこには心の傷がしまい込まれていたり、自分の失敗や過ちの記憶がしまい込まれていたり、または、日々鬱積し続ける負の感情がしまい込まれていたりします。あるいは、決して人には知られたくない秘密が隠されていたりします。私たちは心の内に、そのような暗い部屋をいくつも持っています。確かに持っているのですが、他人には決してその部屋のことを知らせようとは思わないし、また、自分自身その部屋の存在を忘れようと努めている場合もあるでしょう。そして、すべてを知っておられるはずの神さまにも、その部屋の存在を懸命に隠そうとしまっているのです。

私たちの歩みというのは、この秘密の部屋を、勇気をもって、少しずつ、神さまの前に差し出してゆく歩みであると受け止めることができるのではないでしょうか。「少しずつ」というのが、大事であると思います。たとえば、洗礼を受けた瞬間に、すべてを神さまの前に差し出すことができた人というのは、おそらくいないのではないでしょうか。

 

本日の聖書箇所の少し前に、《光の子として歩みなさい》との言葉があります58節)

 光の子として歩んでいるということは、いまも私たちはその歩みを続けている途上であるのだということができます。私たちはそれぞれ、光の子としての旅路の途上にいるのです。

私たちがそれぞれ抱えている暗い部分を、少しずつ、時間をかけてでも、神さまの光のもとで明らかにしてゆく。自分の内にある暗闇を一つひとつ、神さまの光の中に差し出してゆく。イエス・キリストの光に結ばれながら、私たちは一生をかけて、この大切な事業を成し遂げてゆくのだと本日はご一緒に受け止めたいと思います。

 

 

 

ヒエロニムスのエピソード ~「あなたの罪をください」

 

 聖書が語っているのは、神さまは私たちが差し出したものに対して、決して怒ったり裁いたりすることはなさらない、ということです。

私たち自身は、自分の暗闇を光の明るみにさらすと、きっと裁かれる、あるいは否定されると恐れを感じているかもしれません。けれども、聖書が問題にしているのはあくまで隠れたところで――神さまの光から切り離されたところで――《ひそかに》12節)行われているという状況であるのです。神さまの光から自ら遠ざかろうとしてしまっている現状であるのです。その現状が、時に自分を傷つけ、他者を傷つけてしまっています。その状況から脱し、勇気をもって神さまの光の前に差し出されたものはすべて光となる、そう本日の聖書箇所は私たちに宣言しています。

明らかにされるものはみな、光となるのです。/それで、こう言われています。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」》1314節)

 

聖書を最初にラテン語に翻訳したヒエロニムスという人物がいます。45世紀の時代の人で、カトリックでは聖人とされている人物です。ヒエロニムスが訳した聖書は「ヴルガータ」と呼ばれ、20世紀に至るまでカトリック教会で最も権威のある翻訳とされてきました。ヒエロニムスがそのヴルガータを完成させた際の伝承として、次のようなエピソードがあります。

 エルサレムでの長年に渡る仕事を遂に成し遂げ、ヒエロニムスは神さまに祈りをささげるため、ベツレヘムに点在する洞窟に入りました。真夜中に主イエスが現れ、「ヒエロニムス、わたしの誕生日に何を贈ってくれるのか」と言われました。ヒエロニムスは情熱を込めて、「主よ、あなたのみ言葉の翻訳をおささげします」と叫びました。すると主は、「いやヒエロニムス、それはわたしが望むものではない」と答えられました。

 

《ヒエロニムスは言葉を失った。それから彼は、四十年間遠く家庭を離れ、神が望まなかったことのために働かせたのはなぜだったのか、と不平を言い、イエスに抗議し始めた。しかし、イエスは沈黙を守っておられた。ヒエロニムスは、イエスの誕生を祝う他の方法、断食、隠遁生活、貧しい人びとに財産をほどこすことなどを提案した。イエスはその一つひとつに、「いや、ヒエロニムス、それは私が最も望むことではない」と答えられた。/最後にヒエロニムスは、「では主よ、言ってください。あなたの誕生日に何がいちばん喜びとなるか言ってください。それをあなたに捧げます」と反抗した。/「ヒエロニムス、約束できるか?」/「はい、主よ、どんな物でも。」/イエスはお答えになった。「お前の罪をください……」》(ジョゼフ・ラングフォード『マザーテレサの秘められた炎』里見貞代訳、女子パウロ会、2011年 より)

 

 この伝承において、ヒエロニムスの前に現れた主イエスは、偉大な翻訳よりも、あなた自身の「罪」がほしい、とおっしゃいました。40年もかけて主のために翻訳したヴルガータ聖書こそ、最高の贈り物であると私たちは思います。しかし、それは主が一番お喜びになるものではなかった。そうではなく、その偉大な業績の陰に隠れている、あなた自身の罪を差し出してほしいと主イエスはおっしゃいました。あなたが自分の中で最も隠したいと思っている暗い部分こそが、主イエスにとって最上の贈り物となるのだ、と。

 

 

 

キリストの光の中で ~「わたしはあなたを罪に定めない」

 

私たちが勇気をもって、自分の内の暗闇の一部をキリストの光のもとに明るみに出したとき。恥と恐れにふるえながら、うつむきながら、それでも勇気をもって自分の罪を差し出したとき――。そのとき、私たちは自分を裁く者を誰をも見出さないでしょう。そこにあるのはただ、自分を照らし自分を包み込む光だけであるのに気づくでしょう。

その光の中で私たちは、私たちのすべてを理解し、すべてを受け入れてくださっている方に出会います。その方は、私が恥じ入り責め続けていたその部分を、決して裁くことなく、否定することなく、ただそのまま受け止めて、光の中に包み込んでくださいます。

その方、主イエスは光の中でおっしゃっています、「わたしはあなたを罪に定めない(ヨハネによる福音書811節)と。大いなる光の中で、私たちはこの主イエスの宣言を聴きます。

 

 

どうぞここに集ったお一人おひとりの心を、主が命の光で満たしてくださいますように。