2021年12月5日「主の道に立ち帰る」

2021125日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:マルコによる福音書7113節、テモテへの手紙二314節‐48節、エレミヤ書36110

主の道に立ち帰る

 

 

エレミヤ書36110節《ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの第四年に、次の言葉が主からエレミヤに臨んだ。/「巻物を取り、わたしがヨシヤの時代から今日に至るまで、イスラエルとユダ、および諸国について、あなたに語ってきた言葉を残らず書き記しなさい。/ユダの家は、わたしがくだそうと考えているすべての災いを聞いて、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。そうすれば、わたしは彼らの罪と咎を赦す。」/エレミヤはネリヤの子バルクを呼び寄せた。バルクはエレミヤの口述に従って、主が語られた言葉をすべて巻物に書き記した。/エレミヤはバルクに命じた。「わたしは主の神殿に入ることを禁じられている。/お前は断食の日に行って、わたしが口述したとおりに書き記したこの巻物から主の言葉を読み、神殿に集まった人々に聞かせなさい。また、ユダの町々から上って来るすべての人々にも読み聞かせなさい。/この民に向かって告げられた主の怒りと憤りが大きいことを知って、人々が主に憐れみを乞い、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。」/そこで、ネリヤの子バルクは、預言者エレミヤが命じたとおり、巻物に記された主の言葉を主の神殿で読んだ。/ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの治世の第五年九月に、エルサレムの全市民およびユダの町々からエルサレムに上って来るすべての人々に、主の前で断食をする布告が出された。/そのとき、バルクは主の神殿で巻物に記されたエレミヤの言葉を読んだ。彼は書記官、シャファンの子ゲマルヤの部屋からすべての人々に読み聞かせたのであるが、それは主の神殿の上の前庭にあり、新しい門の入り口の傍らにあった

 

 

 

アドベント第2

 

先週から、教会の暦で「アドベント」(待降節)に入っています。本日はアドベント第2主日礼拝をおささげしています。アドベントはイエス・キリストの誕生を待ち望み、そのための準備をする時期です。アドベントは1224日まで4週間続きます。

 

講壇に飾っているリースは、アドベントクランツと言います。「クランツ」はドイツ語で「輪」を意味する言葉です。アドベントクランツの特徴は4本のろうそくが立てられているところです。教会ではアドベントの時期に、これらのろうそくに毎週1本ずつ火をともしてゆく風習があります。今日はアドベント第2週ということで、2本のろうそくに火がともされています。次週の第3週目には3本、第4週目には4本すべてのろうそくに火がともります。毎週1本ずつろうそくに火がともってゆく様子を見ることを通して、クリスマスがだんだんと近づいてきていることを実感することができますね。

 

先ほどご一緒に、讃美歌242番『主を待ち望むアドヴェント』を歌いました。ろうそくに1本ずつ火をともしてゆく様子が謳われています。今日はアドベント第2週なので、1番と2番まで歌いました。2番《主を待ち望むアドヴェント、第二のろうそく ともそう。主がなされたそのように、互いに助けよう。/主の民よ、喜べ。主は近い》。

 アドベントはイエス・キリストのご降誕を待ち望む時期ですが、ただジッと静かに待っているだけではなく、主がなされたように私たちも互いに助け合う姿勢を持つべきことが謳われています。

 

週ごとに一本ずつ増えてゆく、ろうそくの光。これらの光は、これから到来するイエス・キリストの光を指し示しています。聖書は、イエス・キリストは《まことの光》であると語っています。《その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである(ヨハネによる福音書19節)。アドベントのこの時、私たちはこのキリストの光に心を向けつつ過ごします。

 

 

 

預言者 ~神の言葉を預かる人

 

さて、先ほどご一緒に、エレミヤ書36110節をお読みしました。エレミヤ書は旧約聖書の代表的な預言書の一つであり、預言者エレミヤの言葉が収められたものです。旧約聖書にはこのエレミヤをはじめ、様々な預言者が登場します。

 

「預言」は漢字にすると「言葉を預かる」と書きます。表記の異なる言葉としてもう一つ、「予め(あらかじめ)」という字が付く「予言」がありますね。この「預言」と「予言」を、私たちが使用している日本語訳聖書では使い分けています。

 

「予め」と書く方の「予言」は、「未来を予め語る」ことを意味する語です。未来を予知する意味での予言ですね。予言と聞きますと、私の世代ではノストラダムスの大予言を頭にパッと思い浮かべます。

対して、「預かる」と書く「預言」は、「言葉を預かる」ことを意味しています。誰の言葉を預かるのかと言いますと、神の言葉です。「神の言葉を預かる人」、それが聖書における預言者なのですね。預言者の働きの中心にあるのは、「神の言葉を預かり、それを人々に伝える」ことです。

 未来のことを語ることもありますが、それらの言葉は未来を予知する言葉というよりは、目の前の腐敗した現実の当然の結果としてこの先このようになる、との意味で語られた言葉です(参照:『新共同訳 聖書辞典』「預言者」、キリスト新聞社、1995590頁)。そのような破局的な未来を自ら招かぬよう、いま認識を改め、行動を変容させるよう預言者たちは懸命に神の言葉を人々に伝え続けました。

 

 

 

破局的な結末から免れるために

 

具体例として、本日の聖書箇所であるエレミヤ書36110節をご一緒に見てみたいと思います。冒頭の13節を改めてお読みしたします。13節《ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの第四年に、次の言葉が主からエレミヤに臨んだ。/「巻物を取り、わたしがヨシヤの時代から今日に至るまで、イスラエルとユダ、および諸国について、あなたに語ってきた言葉を残らず書き記しなさい。/ユダの家は、わたしがくだそうと考えているすべての災いを聞いて、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。そうすれば、わたしは彼らの罪と咎を赦す。」》

 

始まりの1節には、《次の言葉が主からエレミヤに臨んだ》とありました。これは、エレミヤに神の言葉が降ったことを表しています。続くかぎ括弧以下に書かれているのが、この度エレミヤが預かった神さまからのメッセージの内容です。「巻物を取り、わたしがヨシヤの時代から今日に至るまで、イスラエルとユダ、および諸国について、あなたに語ってきた言葉を残らず書き記しなさい。/ユダの家は、わたしがくだそうと考えているすべての災いを聞いて、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。そうすれば、わたしは彼らの罪と咎を赦す」。

ここで語られていることは、人々が正しい道を逸れ、《悪の道》を歩んでしまっていることです。しかし、エレミヤの預言の言葉を聞いて、《悪の道》から立ち帰るかもしれないことが語られています。そうすれば、《彼らの罪と咎を赦す》と神はエレミヤを通してお語りになっています。《災い》すなわち破局的な結末から免れるために、いま、正しい道に立ち帰る決断をすることを求めているのですね。

 

 

 

「立ち帰れ」 ~預言者を通して語られるメッセージ

 

 預言者たちを通して神さまが一貫して人々に伝え続けているメッセージ。それは、一言で言うと、「立ち帰れ」と言い表すことができると思います。いま引用したエレミヤ書36章の言葉も、人々に立ち帰ることを求めていました。正しい道に、神の願いに適う道に立ち帰ること、主なる神はそのことを、預言者たちを通して人々に伝えているのです。

 

 教会はこれらの預言書の言葉を、神の言葉としていまも大切に受け継いできています。旧約聖書の時代と現代とでは、もちろん、置かれた状況は異なります。エレミヤ書の言葉をそのままにいまの私たちの置かれた状況に適合させることは難しいでしょう。しかしこれらの言葉はいまも切実なるものをもって私たちに迫ってくるものです。

 

「立ち帰れ」――預言者のこのメッセージは、現在を生きる私たちに対して語られているメッセージとしても受け直すことができます。私たちもまた、気が付くと、神さまの願いに適う道から逸れてしまっているものだからです。私たちは常に、神さまの真理と正義の道に立ち帰ることが求められているのだと本日はご一緒に受け止めたいと思います。

 

 

 

神さまの真理と正義

 

 では、神さまの真理と正義とは、どのようなものでしょうか。

神さまが私たちに伝えて下さっている真理、それは、「神さまの目から見て、一人ひとりが、価高く、貴い存在である」(イザヤ書434節)ことです。私たち一人ひとりには、等しく、神さまからの尊厳が与えられている。その真理(まこと)を、聖書は私たちに伝えてくれています。

 

「尊厳」とは、言い換えますと、「かけがえのなさ」ということです。私たち一人ひとりは、かけがえのない存在として神さまに創られた。だからこそ大切な存在なのです。

「かけがえのなさ」の反対語は、「替わりがきく」でありしょう。私たちの間から真理が見失われてしまったとき、反対に、人は替わりがきく存在とされてしまいます。尊厳が軽んじられ、替わりがきく存在にされてしまうのです。

 

そして、神さまの正義とは、そのように「尊厳がないがしろにされることを、神さまは決しておゆるしにならない」ということです。もしも人々の生命と尊厳とが軽んじられている現実があるのなら。人々が傷つき、痛みを覚えている現実があるのなら。神さまはその現実を、決して見過ごしにはなさらない。これが、聖書が私たちに伝える神さまの正義です。エレミヤをはじめとする預言者たちはその神の正義に基づいて、不正義がはびこる現状を厳しく批判しました。

 

いまも、私たちの近くに遠くに、生命と尊厳がないがしろにされている現状があります。人が軽んじられ、替わりがきく存在にされてしまっている現実があります。私たちがその現実を見過ごし続けるのなら、いつか破局的な結末を自ら招いてしまうことでしょう。そうならないために、いま、私たちは主の真理と正義に共に立ち帰ることが必要です。現状を少しずつでもより良い方向へ変えてゆくこと、一人ひとりが大切にされる社会の実現を祈り求めてゆくことが私たちには求められています。

 

 

 

まことの光なる御子イエス・キリストに心を向けて

 

私たちは現在、教会の暦でアドベントの中を歩んでいます。イエス・キリストの誕生を待ち望み、そのための準備をする時期です。この地に、神さまの真理と正義をもたらすために来てくださる方、その方がイエス・キリストです。私たちの世界をまことの光で照らすために来てくださる方、その方がイエス・キリストです。《その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである(ヨハネによる福音書19節)

 

 

アドベントのこの時、神さまの真理と正義の道に立ち帰り、まことの光なる御子イエス・キリストに心を向け、ご一緒に歩んでゆきたいと思います。