2021年2月28日「神の国はあなたたちのところに来ている」
2021年2月28日 花巻教会 主日礼拝
聖書箇所:マタイによる福音書12章22-32節
「神の国はあなたたちのところに来ている」
受難節(四旬節)
私たちは現在、教会の暦で受難節の中を歩んでいます。受難節はイエス・キリストのご受難と十字架を想い起こしつつ過ごす時期です。
受難節は「四旬節」とも呼ばれます。四旬節は「40日の期間」を意味する言葉です。受難節は正確には46日間ですが、日曜日を除くとちょうど40日間となります。
「40」は、聖書において度々出て来る数字です。旧約聖書には、モーセとイスラエルの民がエジプトを脱出した後、「40年」の間荒れ野の旅を続けたことが記されています。「荒れ野の40年」という表現もありますね。また、先週ご一緒にお読みした荒れ野の誘惑の場面において、イエス・キリストが「40日間」断食をされたと記されていました。
受難節のこの時、主のお苦しみに思いを馳せつつ、またそして、この暗闇の向こうから差し込むイースターの光を希望としつつ、共に歩んでゆきたいと思います。
悪霊とは ~私たちから主体性を奪おうとする力
本日の聖書箇所であるマタイによる福音書12章22-32節には《悪霊》と呼ばれる存在が出て来ます。福音書にはこの《悪霊》と呼ばれる不可思議な存在が何度も登場します。イエス・キリストは病気の人を癒すことの他に、《悪霊》を人々の中から追い出すこと=悪霊追放をご自身の大切な働きの一つとしておられました。《悪霊》は《汚れた霊》と呼ばれることもあります(12章43-45節)
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この悪霊(汚れた霊)がどのような存在であるかは、いまを生きる私たちにははっきりとは分かりません。様々な解釈が可能であることでしょう。現代の私たちの視点からすると、中には何らかの精神の病いに起因する場合もあったのかもしれません。
一方で、福音書に記される悪霊の働きのすべてが精神的な病いに起因するものだと言えるかと言うと、必ずしもそうではありません。中には、現在の科学や医学的な見地からしても、説明が難しい事例があります。
様々な解釈ができる悪霊(汚れた霊)ですが、これら悪しき霊の働きにおいて、共通している点があります。それは、「私たちから主体性を奪おうとする力」である点です。私たちの内から自由な意志を奪い、主体的な思考・判断を奪おうとする力。私たちの内にある良きものも奪い、楽しみや喜びなど自然に湧き上がってくる感情をも奪い取ろうとする力。悪霊にとりつかれて苦しんでいる人々は、この否定的な力に支配されている人々だということができるのではないでしょうか。
悪霊とは、私たちから主体性を奪おうとする何らかの否定的な力である――本日はそのように受け止め直してみたいと思います。
悪霊追放 ~私たちに主体性を取り戻すために
主体性が奪われ、心と体が「自分ではない何か」に支配されてしまっている状態は私たちにとって、とても苦しいものです。主体性が失われている状態は、「自分らしさ」が失われている状態でもあります。自分の想いや考えが尊重されない状態。有無を言わさず、自分ではない誰かの想いを強制されている状態……。これらは私たちにとって苦しいことですが、私たちは社会で生きてゆく中で、このような苦しい経験をすることが多々あるのではないでしょうか。その時、私たちは何らかの否定的な力――すなわち、《悪霊》の力の影響を受けているのだと形容し直すこともできるでしょう。
イエス・キリストはこの私たちの苦しい現実と向かい合い、悪しき力の支配からから私たちを解放しようとしてくださいました。それが、福音書に記されている悪霊追放の出来事である、と本日はご一緒に受け止めてみたいと思います。
主イエスは悪霊を追い出すことをご自身の大切な働きの一つとしておられたということを述べました。それは、言いかえると、主イエスが人々の内に主体性を取り戻し、個人の尊厳を取り戻すために働いてくださっていた、ということなのではないでしょうか。
悪霊の働きと、イエス・キリストのお働きというのはまったく対照的なものです。悪霊が私たちから主体性を奪うように働く何らかの否定的な力であるとすると、主イエスの内からあふれ出ているのは私たちに主体性を取り戻すように働く肯定的な力です。主イエスを通して働いておられる、目には見えないこの力こそ、聖霊によって与えられる力です。悪霊も、聖霊なる主も、どちらも私たちの目には見えないものですが、その内実はまったく正反対のものです。
《神の国はあなたたちのところに来ている》
本日の聖書箇所では、ファリサイ派の一部の人々が主イエスに対して「悪霊の頭ベルゼブルの力によって悪霊を追い出している」と誹謗中傷する場面が記されています(12章24節)。主イエスは悪霊の親玉にとりつかれており、だから人々にとりついている下っ端の悪霊を追い出すことができているのだ、というのですね。しかしこれは、見当違いの非難であることが分かります。悪霊の働きと聖霊の働きは、本質的に相容れないものであるからです。
主イエスご自身も、《わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ》(28節)と述べておられます。悪霊を追い出しているのは他ならぬ、主イエスと共におられる神の霊=聖霊なのであり、そのお働きを通していま、神の国が人々のもとに到来しつつあることが宣言されています。
「神の国」は主イエスが繰り返し口にされる、重要な言葉です。神の国とは、私なりの表現をしますと、「一人ひとりが大切にされている場」のことです。神さまの目にかけがえのない一人ひとりが大切にされている場、それが神の国なのだと受け止めています。
主イエスは私たち一人ひとりが主体性を取り戻し、自由に、「自分らしく」喜びをもって生きてゆくことができるよう、悪霊を追い出すことをその大切な使命としてくださいました。神の国の平和が実現されるために、悪霊追放をその最も重要な務めの一つとしてくださったのです。またそして、私たちもいま、主の弟子として、神の国の実現のために働くよう主から招かれています。
ハラスメントの問題
本日は、《悪霊》を「私たちから主体性を奪おうとする力」としてご一緒に受け止めてみました。この力は、私たちの身近なところでも生じ得るものです。私たちが誰かからこのような否定的な力を受けることもあるでしょうし、私たち自身が誰かに否定的な力を及ぼしてしまうこともあるでしょう。私たちはよくよく意識していないと、容易にこの否定的な力の影響を受けてしまうと言えるのではないでしょうか。
私たちは日々の生活の中で、相手の想いを顧みず一方的に自分の想いを押し付けてしまったり、相手を自分の思い通りにさせようとしてしまうものです。この欲求を制御することはなかなか難しいことです。だからこそ、私たちは常に立ち止まって、自分の在りようを冷静に見つめ直すことが求められているように思います。
最近はハラスメントの問題が改めて取り上げられるようになりました。皆さんもご存じのように、「ハラスメント」とは、「嫌がらせ、いじめ」を意味する言葉です。セクシュアルハラスメント(セクハラ)、パワーハラスメント(パワハラ)、モラルハラスメント(モラハラ)など、様々なハラスメントがあります。
身体的な暴力が伴わなくても、ハラスメントは相手に対する「精神的な暴力(虐待)」であり、はっきりとした人権侵害です。ハラスメント被害にあうと、人は社会的な不利益を受けるだけではなく、自尊心が低下し生きる意欲が吸い取られたようになってしまいます。場合によっては抑うつ状態や、深刻な心身の不調に陥ることもあります。ハラスメントは決して容認してはならないものです。悪霊とは「私たちから主体性を奪おうとする力」であると述べましたが、ハラスメントはまさにその悪しき力に該当するものだと言えるでしょう。
ハラスメント被害の特徴
ハラスメントの名称は多岐に渡りますが、共通している要素があります。その共通点の一つは、立場が強い(優位な)人が、その立場を利用して、より立場の弱い人に対して行うという点です。学校で、家庭で、職場で、より立場が強い(優位な)人がその権限を利用して、相手の意に反して自分の想いや欲求を一方的に押し付けたり、嫌がらせをしたり、相手から主体性を奪い、思い通りに支配しコントロールしようとするところに共通点があります。
ハラスメント被害の特徴として、周囲から気づかれにくい・理解されづらいことがあります。深刻な被害の実態が周囲から理解されることなく、被害にあっている人がどんどんと孤立し追い詰められてゆく事例が数多く起こっています。被害にあっている本人も、はじめは何が起こっているのか理解できず、自分がハラスメント被害にあっていると自覚できない場合もあります。
また、ハラスメント被害の特徴として、被害にあっている本人の内に「自分が悪い」という意識が植え付けられてゆくことがあります。本当は被害者であるはずなのに、「自分が悪い」「自分にも非がある(非があった)」と罪悪感が植え付けられてゆくのです。罪悪感に支配されることで、被害にあっている人はますますその辛い状況から自力では抜け出せなくなってゆきます。このように、被害に遭っている人から主体性を奪い、支配とコントロールの下に置いてしまうところが、ハラスメントの恐ろしいところです。
もしも自分がハラスメント被害を受けているかもしれないと思ったら、すぐに信頼できる人に相談することが大切です。また同時に、自分にハラスメントを行っている人と「距離を取る」「関係を断つ」決断をすることも重要です。ハラスメント被害を受けている人は何も悪くありません。悪いのはハラスメント行為を行っている人です。私たちがハラスメントをはじめとする「主体性を奪う悪しき力」から解放され、より自分らしく、喜びをもって生きてゆくことが、神さまの願いであると信じています。
神さまは一人ひとりの生命と尊厳がないがしろにされることを決しておゆるしにはならない
最後に、次のイエス・キリストの言葉を読みしたいと思います。12章31-32節《だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。/人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない》。
人が犯すどんな罪や冒涜も赦される。しかし、聖霊に対する冒涜は赦されない、と語られています。聖霊に対する冒涜とは、これまで述べてきた聖霊のお働きを否定することです。すべての罪は赦されるけれども、ただ一つ赦されないこと、それは、神の国の実現のために遣わされた聖霊のお働きを軽んじ、否定することです。このことはゆるされない、と主イエスははっきりとおっしゃっています。神さまは、私たち一人ひとりの生命と尊厳がないがしろにされることを決しておゆるしにはならない(決して容認しない、見過ごすことはなさらない)方であるからです。
私たちが様々な「悪しき力の支配」から解放され、より自由に、より喜びをもって生きてゆくことができますよう、聖霊なる主の助けを共に祈り求めてゆきましょう。