2021年4月11日「インマヌエルなる光」
2021年4月11日 花巻教会 主日礼拝
聖書箇所:マタイによる福音書28章11-15節
「インマヌエルなる光」
目の前に様々な課題・問題がある中で
先週の日曜日、私たちはイースター礼拝をおささげしました。本日は復活節第2主日礼拝をご一緒におささげしています。
喜びの日であるイースターを迎えましたが、心境としては何だかまだ受難節のままであるように感じている方もいらっしゃるかもしれません。先週は寒い日が続き、雪やみぞれも降りましたが、それだけではなく心情として、イースターの訪れを何となく実感できずにいる方もいらっしゃるかもしれません。
新型コロナウイルスによる深刻な影響は、感染拡大から1年以上が経った現在も継続しています。新しい年度に入ってからは全国的に感染者も増加し、第4波に入ったと言われています。変異株も広がっており、1年経って、状況がさらに悪くなっているように感じている方もいらっしゃることでしょう。今月の5日から3府県で緊急事態宣言に準ずる「まん延防止等重点措置」が適用され、明日12日からさらに3都府県で適用されます。しかしそれらの措置がどれほど効果があるものか、多くの人が不安を感じているのが実際のところです。一人ひとりの健康と生活が守られますよう、これ以上の感染拡大が食い止められるよう願うものです。
またそのような中、福島第一原発の処理済み汚染水を海洋放出することを決定する閣僚会議が明後日13日に開かれることが報道されています。地元の漁業者の方々が「絶対に反対」と主張し続けているにも関わらず、強硬にその決定がなされようとしています。
原発事故による影響は風評被害ではなく、実害です。10年経っても、事故はまったく収束しておらず、問題は山積みです。これ以上、生態系や一人ひとりの健康と生活を損なう恐れのある政策は行わないでいただきたいと切に願います。
私たちの目の前には、様々な課題・問題があります。このような状況の中、不安を覚え、目の前が薄暗闇に覆われてしまっているような心境になったとしても、それはむしろ当然のことであると言えるでしょう。
しかし「絶望はしない」
聖書には、「光」という言葉がたくさん出てきます。《あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯》(詩編119編105編)。詩編119編では、神さまの御言葉は私たちの道の光であり、私たちの歩みを照らしてくれる灯であることが語られています。
また、ヨハネによる福音書では神の御子なるイエス・キリストが「まことの光」であると言われます。《その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである》(ヨハネによる福音書1章9節)。
その「まことの光」は、どのような光であるのでしょうか……?
その光は、必ずしも盛大な光ではないのかもしれません。むしろ私たちの足元を照らす小さな光であると受け止めることができるかもしれません。
またその光によって、私たちの目の前にあるすべての問題が解決されるわけではありません。私たちの目の前には依然として様々な課題・問題があります。
クリスマス礼拝でもお話しましたが、わたしが神学生の時に出席していた教会の牧師からお聞きしたエピソードをご紹介したいと思います。
その先生が青年時代、教会で洗礼を受けたときのことです。そのときはまだクリスチャンではなかったご両親が、洗礼を授けた教会の牧師に「クリスチャンになると何かよいことがあるのですか」と尋ねられたそうです。するとその先生は、「そうですね……絶望しなくなるでしょうね」とおっしゃったとのことでした。
私はこのお話を聞いて、「絶望しなくなる」との表現がとても心に残りました。私たちは大変な状況のただ中にいるとき、「希望がある」とはなかなか言えない心境になることがあるかもしれません。希望があると口にするには、あまりに大変な状況にいるからです。自分自身、いっぱいいっぱいの心境であるからです。たとえ「希望がある」とははっきりとは言えなくても、心の中は不安でいっぱいでも、しかし「絶望はしない」と言うことはできるのではないでしょうか。確かにいまはとても大変な状況にあるけれども、自分は完全に絶望はしていないのだ、と。
このように、「希望をもつ」ことと「絶望はしない」ことは、指し示そうとする方向は共通していても、そのニュアンスはずいぶんと異なるように思います。
聖書が私たちに伝える「まことの光」とは、まず第一に、私たちに絶望しないための力を与えて下さるものだと私は受け止めています。
墓を閉ざす大きな石 ~私たちの絶望の象徴として
イエス・キリストは十字架刑によって亡くなられた後、暗い墓の中に葬られました。そしてその墓穴は大きな石で蓋をされていたと福音書は記します。残された女性たちはなすすべもなく、墓の方を向き、呆然と座っていました(マタイによる福音書27章60-61節)。
主イエスのお墓を閉ざすこの大きな石は、残された人々の絶望を象徴するものであると受け止めることもできるのではないでしょうか。その石は、女性たちの力ではとても動かすことができないほど、大きく重いものでした。
この大きな石が取り除かれることが起こったのが、日曜日の朝、復活の日の朝のことでした。《さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。/すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。/その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。/番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった》(28章1-4節)。
そうして岩を転がした天使たちはマリアたちに、墓の中がもはや空であり、主イエスが復活させられたことを告げました。《天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、/あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。……》(5-6節)。
このように、復活の日曜日の朝は、墓を閉ざしていたあの大きな石が取り除かれた朝でもありました。私たちの絶望を象徴する大きな石は、神さまの力によって取り除かれたのです。
問題は問題として残り続けてゆく中で
本日の聖書箇所では、墓の番をしていた兵士たちは都に帰り、起こった出来事のすべてを祭司長たちに報告する場面が記されています。祭司長たちは相談の結果、嘘の情報を流すことを決定します。兵士たちに多額のお金を与え、「弟子たちがこっそり遺体を盗んでいった」と人々に吹聴するよう依頼したのです。
《……祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、/言った。「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。/もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう。」/兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている》(28章12-15節)。
主イエスが復活したからこれで「めでたし、めでたし」というわけではなく、権力者たちの不穏な動きはまだ続くことが暗に示されています。実際、その後、弟子たちは様々な誹謗中傷、迫害、投獄などの苦難を経験してゆくこととなります。主イエスのご復活によってすべてが解決したわけではなく、私たちの社会に内在する問題は問題として、まだ残り続けてゆくのです。
しかし、聖書が証しているのは、残された人々はそれでも、決して絶望することはしなかったことです。弟子たちは絶望することなく、主イエスによって示された福音を懸命に宣べ伝えてゆきました。
「世の終わりまでのすべての日々、私があなたがたと共にいる」
残された人々が確信していたこと、それは、決して消えることのない光――「インマヌエルなる光」が自分たちの共にいてくださることでした。インマヌエルは「神は私たちと共におられる」という意味です。弟子たちはどんなときも自分は独りではないことを知っていたので、困難の中にあっても絶望することなかったのだと本日はご一緒に受け止めたいと思います。
マタイによる福音書は、よみがえられた主イエスご自身がこのインマヌエルのメッセージを告げて閉じられます。《イエスは、近寄って来て言われた。……わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる》(28章18-20節)。
《わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる》――この言葉は、原文のニュアンスを生かして訳し直すと、「世の終わりまでのすべての日々、私があなたがたと共にいる」となります。
すべての日々において、主イエスは私たちと共にいてくださっている。喜びの日も、悲しみの日も、何でもないような日も、そして今日という日も……。すべての日々において、主は私たちと共におられます。そう約束をしてくださっています。だから、私たちは独りなのではありません。
たとえ様々な課題・問題が山積みでも、なかなか先が見えなくても、誰かが傍にいてくれたら、私たちは絶望はしないのではないでしょうか。この苦しみ、この辛さをそばで共有してくれる誰かがいたら。寄り添って歩んでくれる人がいたら、私たちは完全に絶望することはないのではないかと思います。それでも今日という日を生きてみよう、そう思うことができるのではないかと思います。
主イエスはいま「インマヌエルなる光」として、私たちと共にいてくださっています。暗闇のただ中で、私たち一人ひとりを照らしてくださっています。ですので、私たちはもはや、絶望する必要はありません。
たとえ、問題が山積みでも、いまはまだ先のことが見えなくても、心の中は不安でいっぱいでも、私たちはもはや、完全に絶望することはありません。「まことの光」なるキリストがいま私たちと共にいて、この旅路の一歩一歩を照らし出してくださっているからです。