2021年9月5日「福音を告げ知らせるため」
2021年9月5日 花巻教会 主日礼拝
聖書箇所:コリントの信徒への手紙一1章10-17節
「福音を告げ知らせるため」
愛の賛歌
新約聖書に収められたパウロの手紙の中に、よく知られた愛についての言葉があります(コリントの信徒への手紙一第13章)。「愛の賛歌」とも呼ばれます。その一部をお読みいたします。
《愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。/礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。/不義を喜ばず、真実を喜ぶ。/すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える》(13章4-7節)。
心に残る表現が使われており、まるで詩文のようですね。これらの言葉はコリントの教会の信徒に宛てた手紙の中に記されたものです。コリントは現在のギリシャの南部に位置する都市の名前です。
当時、コリントの教会の内にはさまざまな問題が生じていました。教会の内に信徒同士の対立が生じてしまっていたようです。そのような状況の中、あえてパウロは愛についての言葉を手紙に記したということになります。《愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。/礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。/不義を喜ばず、真実を喜ぶ。…》、これらの愛についての言葉は、コリント教会の人々に感動を与えるより先に、耳の痛い言葉となったのではないかと想像します。手紙に記された言葉とは正反対の、一致が失われている状況があったからです。パウロはコリント教会の人々が今一度愛に立ち還り、一致を取り戻してほしいとの願いを込めてこれらの言葉を記したことが分かります。
コリント教会内の党派争い
冒頭にお読みしましたコリントの信徒への手紙一1章10-17節からは、当時のコリント教会において党派争い(派閥争い)のようなものが生じてしまっていたことが読み取れます。ある人々は「パウロにつく」と言い、ある人々は「ケファ(ペトロのことです)につく」といい、またある人々は別の指導者であった「アポロにつく」と主張していました。
1章11-12節《わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。/あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです》。
少し話は逸れますが、菅義偉首相が一昨日、退陣を表明しました。発足から1年も経たない内の退陣でした。菅首相が自民党総裁選に立候補しないことを受けて、党内には様々な思惑が飛び交っているようです。次の首相候補として誰を支持するか、それぞれの派閥において日夜会議が行われていることでしょう。「私たちは岸田さんにつく」「私たちは河野さんに」「私たちは高市さんに」「私たちは野田さんに」「私たちは石破さんに」……(!)。その背後には、来たる衆院選での当選という最大の目的があります。いまこそコロナ対策に全力を注いでいただきたいこの大事な時期に、総裁選の方にエネルギーが奪われることは止めていただきたいものですね。ちゃんと臨時国会を開いて、コロナ対策について与野党で議論を尽くしていただきたいというのが、私たち市民の切実なる思いではないでしょうか。派閥争い、党派争いの弊害を改めて思わされている今日この頃です。
信仰が関わる事柄であるからこそ
コリントの教会に話を戻しますが、コリント教会の内に党派争いが生じてしまった背景には、信仰理解の相違があります。教会の指導者たちの間に信仰の理解について違いがあり、どの指導者につくかで分断が生じてしまっていたようなのです。
信仰が関わる事柄であるからこそ、私たちはどうしても真剣になり、互いにゆずれない部分が出てきてしまうものです。信仰が関わっているので、互いに真剣になり、対立が激しくなることが起こり得ます。
キリスト教とは「イエス・キリストを救い主として信じる」という共通の信仰を持っています。一方で、その内実には、様々な相違があります。同じキリストを信じる信仰をもっていても、どのような側面を強調するかについては、人によって違いがあるのですね。キリストの十字架の贖いの側面を強調するのか、復活の命を強調するのか、それとも隣人愛を貫いた生前の主イエスの生き方に強調点を置くのか……など。多様な信じ方があることが、キリスト教信仰の特徴の一つであると言えるでしょう。
そのように多様性がある中で、自分の指し示すキリストのみが「正しい」ものとしてしまうとき、対立や分断が生じてゆくことになります。事実、現在に至るまでのキリスト教の歴史は、その対立と分断の歴史であったとも言えるでしょう。カトリックとプロテスタントの分断。またプロテスタントの教会同士の分断。私たちキリスト教会はこれまで、幾多の対立と分裂を繰り返してきました。そしてその教会内の対立は、パウロが生きていた当時からすでに始まっていたことが分かります。
違いがありつつ、一つ
これらの分断の歴史を鑑みるとき、違いがあるから悪いのだ、違いがあることが対立と分断の要因だ、と感じられるかもしれません。けれども、よくよく考えてみると、違いあるから対立が生じているのではなく、違いを受け入れることができないから、対立が生じているのだと言えます。
パウロ自身、違いがあること自体は、肯定的なこととして受け止めていました。否定すべきことではなく、むしろ非常に大切なこととして受け止めていたのです。パウロは、私たちはそれぞれ、神さまから違った「賜物(カリスマ)」が与えられていると考えていました。それぞれが神さまから固有の働きや役割を与えられているからこそ、教会には多様性があるのだというのがパウロの基本的な考えでありました。
パウロはそのことを、人間の体でたとえています。イエス・キリストを頭とする「一つの体」です(コリントの信徒への手紙一12章12-31節)。パウロがなぜ体のたとえ用いたのかと言うと、「違いがありつつ、一つ」である状態を表現したかったからです。体には頭があり、胴体があり、手足があり、内臓があり……多くの部分があります。それらの部分は、それぞれに固有の役割を果たしつつ、一つに結びあわされています。体の各部分に固有の役割があるように、私たち一人ひとりには、神さま(聖霊)からかけがえのない役割が与えているのだとパウロは信じていました。
体の各部分は、それぞれが固有の役割を果たしつつ、互いに働きを補い合っています。私たちもまた、相互に補完し合う関係性にある。それぞれの固有の働きを生かして、協働し合う関係性にある。「違いがありつつ、一つ」(多様性がありつつ、一つ)である状態が教会のまことの姿であるとパウロは確信していました。ですので、その「一つの体」である教会内で対立が生じ、互いに互いの相手の存在を否定し合っている状況をパウロは深く悲しんだのです。
愛がなければ
そして、「一つの体」であるために、最も大切なものとしてパウロが受け止めていたのが、愛でした。はじめに引用したパウロの愛の賛歌の冒頭部には、次の言葉があります。
《たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。/たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。/全財産を貧しい人人のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない》(13章1-4節)。
パウロは、たとえ私たちがどれほどすばらしい賜物を持っていようと、完全な信仰があろうと、愛がなければ無に等しい、と述べています。愛とは、私たちの賜物や信仰よりも、もう一段深いところにあるものであることが分かります。多様性を成り立たせるための土台にあるものが愛であるのだと言えるでしょう。
福音を告げ知らせるため
パウロが語るこの愛は、ギリシャ語では「アガペー」と言います。聖書において、このアガペーなる愛は、まず第一に神さまの愛を指します。アガペーなる愛は、私たちの「好き」「大好き」という感情よりさらに深い領域を指し示す言葉として用いられているのです。
このアガペーなる愛は、相手のことが「好きか嫌いか」を超えて、相手の存在そのものを尊重し、大切にするように働くものです。アガペーなる愛とは、「相手の存在をかけがえのないものとして受け止め、大切にしようとする働き」、ということができるでしょう。
パウロは、このアガペーなる愛を、イエス・キリストの十字架を通して知らされました。パウロはイエス・キリストを通して、自分を無条件に受け入れ、尊重して下さっている神さまの愛と出会ったのです。
神さまは私たち一人ひとりを、かけがえのない存在として受け止め、愛して下さっている。私たち一人ひとりを無条件に受け入れ、尊重してくださっている。この福音(良い知らせ)を告げ知らせるため、パウロは各地に教会を建てていったのです。神さまの愛をその土台として――。
本日の聖書箇所の最後でも、パウロはそのことを改めて確認しています。《なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです》(1章17節)。
まことの一致とは
このアガペーなる愛を土台として据えるとき、私たちは少しずつ、互いの違いをかけがえのないものとして尊重し合うことができるようになってゆくでしょう。そして、異なる意見を寄せ合い、異なる視点や働きを協働させてゆくことで、私たちは困難な局面を乗り切る力もまた与えられてゆくのではないでしょうか。
まことの一致とは、すべてが同一にされてしまうことではありません。そうではなく、互いの違いを活かして協働し合うというのが、いま私たちに求められている一致の在り方です。私たちの間にまことの一致を成し遂げて下さる神さまの愛に、いま一度心を向けたいと思います。