2023年10月8日「同じ一人の人間として」
2023年10月8日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:レビ記25章39-46節、ルカによる福音書17章1-10節、フィレモンへの手紙1-25節
律法 ~神の掟
先ほど、礼拝の中で本日の聖書箇所の一つであるレビ記25章39-46節を読んでいただきました。39-40節《もし同胞が貧しく、あなたに身売りしたならば、その人をあなたの奴隷として働かせてはならない。/雇い人か滞在者として共に住まわせ、ヨベルの年まであなたのもとで働かせよ》。この掟をはじめとして、様々な掟が記されています。旧約聖書(ヘブライ語聖書)に記されたこれらの掟のことを、「律法」と言います。律法の中では特に、モーセを通してイスラエルの民に与えられた十戒(十の掟)が有名です。旧約聖書には十戒を始めとし、たくさんの掟が記されています。ユダヤ教では伝統的に聖書には613の律法が記されているとしているそうです。
律法において重要な点は、神によって与えられたものだと受け止められているところです。私たち人間が作り出したルール(たとえば法律)とはまた異なる、神の掟として受け止めているのですね。ユダヤ教徒の方々はこの律法をいまも日々の生活の中で大切に守り続けています。対して、キリスト教は必ずしも律法の文言の一つ一つを文字通りに守ることはしていません。キリスト教においては、「律法を遵守する」ことから「イエス・キリストを信じる」ことへと信仰の重点が移っているからです。しかし、だからといって律法を軽んじているわけではありません。キリスト教もまた、律法の根底に流れる精神を大切に受け継いでいます。
律法の根底に流れる精神 ~神への愛、隣人への愛
では、律法の根底に流れる精神とは何でしょうか。それは、神を愛することと、隣人を愛することです。このことは、イエス・キリストご自身も指摘されていることです。イエスさまは律法全体はこの二つの掟に基づいているのだと語っておられます。
《イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』/これが最も重要な第一の掟である。/第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』/律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」》(マタイによる福音書22章37-40節)。
最も重要な第一の掟、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」は申命記6章5節に記されています。同じく重要な第二の掟、「隣人を自分のように愛しなさい」はレビ記19章18節に記されています。イエスさまはこの二つの掟が等しく最も大切であり、この神への愛と隣人への愛に基づいて律法全体が記されていることを教えてくださっています。
祭儀的な律法
神への愛を教える律法として、たとえば、どのようなものがあるでしょうか。具体的には祭儀(礼拝)の仕方に関する掟、神への献げ物に関する掟、安息日に関する掟、清いものと汚れたものに関する掟などがあります。これらの律法は、少し難しい言葉で「祭儀的な律法」と呼ぶことができます。神さまを礼拝することにつながる宗教的な教え全般が、この祭儀的な律法に該当します。
人道的な律法
もう一つ、隣人への愛を教える律法もあります。これらの律法は、「人道的な律法」と呼ばれます。人としての生き方や他者への接し方を教える、倫理的・道徳的な律法のことです。
人道的律法の中には度々「奴隷」「貧しい人」「寄留者」「孤児」「寡婦」と呼ばれる人々が登場します。これらの人々は、古代イスラエルの社会において特に社会的に弱い立場にあるとされていた人々でした(ゼカリヤ書7章10節、ヨブ記31章13~23節など)。人道的な律法は、これらの人々をはじめとする、社会的に弱い立場に立たされている人々への配慮を教える律法でもあります。人道的な律法とは、社会的に弱い立場にある人々の権利をいかに保障するかを定める掟でもあるのですね。人道的な律法とは、現代の視点から言い変えますと、社会福祉的な律法と呼ぶこともできるでしょう。
本日の聖書箇所であるレビ記25章39-46節も、人道的な律法に相当するものです。改めて、冒頭の39-40節をお読みいたします。《もし同胞が貧しく、あなたに身売りしたならば、その人をあなたの奴隷として働かせてはならない。/雇い人か滞在者として共に住まわせ、ヨベルの年まであなたのもとで働かせよ。…》。
39節では、同胞(同じイスラエルの民)のある人が経済的に困窮し、自身を労働力として売らなければならない状況に陥ったとしても、その人を奴隷として働かせてはならない旨が記されています。あくまで雇い人か滞在者として扱わなければならない。ある解説書はこの掟に関して、《その労働力を要求することはできるが、その他の点でその人格を好きなように扱うことは許されない》(マルティン・ノート『ATD旧約聖書解説(3)レビ記』、山我哲雄訳、2005年、396頁)と説明しています。社会的に弱い立場に追いやられている人々への配慮を教える人道的律法の特徴がよく表れています。
ヨベルの年 ~解放の年
また、40節では《ヨベルの年》という言葉が出てきました。ヨベルの年という言葉は、先ほど歌った讃美歌431番『喜ばしい声ひびかせ』の歌詞の中にも出てきましたね。《喜ばしい 声ひびかせ、つのぶえ吹き 告げ知らせよ、「世界の人々、ヨベルのこの年 今はじまるのだ」》(日本基督教団 讃美歌委員会編『讃美歌21』、日本基督教団出版局、1997年)。作詞はチャールズ・ウェスレーです。
ヨベルの年は古代イスラエルの人々が大いなる喜びの年としていたもので、49年毎に巡ってきます(25章8節)。「ヨベル」という言葉は元来は「雄羊」を意味し、そこから雄羊の角で作った「角笛」も意味するようになったそうです。《その年の第七の月の十日の贖罪日に、雄羊の角笛を鳴り響かせる。あなたたちは国中に角笛を吹き鳴らして、/この五十年目の年を聖別し、全住民に解放の宣言をする。それが、ヨベルの年である》(9-10節)。讃美歌に《つのぶえ》という言葉が出て来ていたのはこのことを言っていたのですね。角笛の音は大いなる喜びの年が来たことを人々に告げ知らせます。
ヨベルの年がなぜ喜びの年であったのかというと、それが「解放」の年であったからです。この年には角笛の調べと共に、高らかに解放が告げ知らされました。ここでの「解放」という言葉は、原語では「重荷、負債からの解放」を意味します(マルティン・ノート、前掲書、387頁)。具体的には、①負債からの「解放」(負債の免除)、②土地の収穫の売買からの「解放」、③奴隷状態からの「解放」がありました。
本日の聖書箇所25章39-46節は、③の奴隷状態からの解放に該当する箇所です。先ほど、困窮した同胞を奴隷として働かせてはならず、雇い人か滞在者として扱わねばならないという決まりを参照しました。本日の聖書箇所では、さらに、ヨベルの年になると、その人はすべての負債から解放されて、家族のもとに帰り、先祖伝来の所有地の返却を受けることができると記されています(41節)。
人権思想の「芽生え」
この部分だけを読めば、奴隷制度そのものが否定されているように思えますが、そうではありません。ここでの対象はあくまで同胞、すなわち同じイスラエル人が対象であって、外国人は対象外とされています(44-46節)。「奴隷解放」の視点が万人に対してではなく、同胞にのみ限定されていたところに、当時の枠組みの限界があると言えます。また、他の箇所では奴隷制自体が社会の制度の一つとして、公に認められています(同胞も対象。出エジプト記21章1-11節、申命記15章12-18節参照)。
もちろん、現代の日本では奴隷制度そのものが憲法によって否定されています(憲法第13条、18条を参照)。人道的律法が目指すのは奴隷制度そのものの「廃止」ではなく、奴隷とされている人々にも一定の「権利を与える」こと(あるいは、その『権利をゆがめてはならない』こと)であったことが分かります。
いまを生きる私たちの視点からすると、人道的な律法が教えるところはいまだ十分なものではないと言えるかもしれませんが、いまからはるか昔にこのような掟が定められていたのは驚くべきことでもあると言えます。私たちはこれらの掟に、近現代に通じる人権思想の「芽生え」を見出すことができるのではないでしょうか。
フィレモンへの手紙 ~キリストに結ばれた私たちには、もはや奴隷も主人もない
メッセージの冒頭でフィレモンへの手紙1-25節をお読みしました。フィレモンへの手紙は、パウロがフィレモンという人物に宛てた手紙です。フィレモンは、パウロの教えを通してキリスト教徒となった人物です。
そのフィレモンのもとで奴隷として働いていたオネシモという人物がいました。オネシモは主人であるフィレモンのもとから、パウロを頼って脱走してきました。そして、獄中で、パウロを通して、キリスト教徒となりました。パウロは新しくキリスト教徒に生まれ変わったこのオネシモをフィレモンのもとへ送り返すべく、この手紙を書いています。
脱走した奴隷オネシモを主人であるフィレモンのところへ送り返すというパウロの判断は、当時としては驚くべきことであったでしょう。しかしパウロはフィレモンを信頼し、オネシモを迎え入れるにあたり、次のお願いをします。
《その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです。/だから、わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモをわたしと思って迎え入れてください》(16-17節)。
オネシモを新たに迎え入れる場合、もはや奴隷としてではなく、愛する兄弟として迎え入れてほしいとパウロは自身の願いを書き記します。オネシモはパウロにとって、そしてフィレモンにとって、《一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟》であるはずだからです。
このパウロの言葉に、私たちは旧約聖書の時代から受け継がれてきた隣人愛の精神をはっきりと見出すことができます。またそして、新しい視点も見出すことができます。それは、「イエス・キリストに結ばれた私たちには、もはや奴隷も主人もない」という視点です。
ガラテヤの信徒への手紙には次の言葉が書き記されています。《あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。/洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。/そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです》(3章26-28節)。
ここでは、キリストに結ばれている人は、もはや民族や国籍からも、社会的な地位や身分からも、性差からも自由であることが宣言されています。キリストに結ばれた私たちはいまや、あらゆる重荷、囚われから解放されている――その大いなる喜びの年、解放の年、新しいヨベルの年が遂に到来したのです。ここで大切なことは、同じ一人の人間であること、同じキリストに結ばれた者であること、そして、同じ神に愛された存在であることです。
キリストの愛に共に結ばれて
パウロが書き残した手紙を読むと、パウロは奴隷制度自体は社会の制度の一つとして受け止めていたことが伺えます。奴隷解放のために行動を起こすという視点はなく、そこに時代的な限界があるとも言えます。しかし、「キリストに結ばれた私たちには、もはや奴隷も主人もない」という最初期のキリスト教会が打ち出した考えは、時代を超えて、その後の奴隷解放運動の根拠となり、原動力となってゆきました。また、いまも私たちの様々な人道的な活動の根拠であり、原動力であり続けています。
イエスさまは、私たちを生まれでは判断せず、職業でも判断せず、社会的な地位や身分でも判断なさらない。性別でも判断なさらない。私たちを現在の心身の状態でも判断せず、セクシュアリティでも判断なさいません。私たちを同じ一人の人間として、神の目に価高く貴い存在として、愛してくださっています。「クリスチャンである」ということは、このキリストの愛といつも固く結ばれていることであると、私は受け止めています。
キリストの愛に共に結ばれて、「神を愛し、隣人を愛する」道を歩んでゆくことができますよう、ご一緒に神さまにお祈りをおささげいたしましょう。