2023年11月26日「正しい若枝」

20231126日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:ヨハネによる福音書183340節、ヨハネの黙示録148節、エレミヤ書2316

正しい若枝

 

 

収穫感謝日・謝恩日

 

昨日から全国的に、真冬の寒さとなっています。花巻も昨日から雪が降り始めました。いよいよ、本格的に冬の季節となってゆきますね。皆さんもどうぞお体大切になさってください。また、くれぐれも運転や外出の際はお気を付けください。

 

本日は、収穫感謝日・謝恩日を覚えて礼拝をおささげしています。収穫感謝日にあたって、教会によってはお米や野菜、果物を並べて礼拝をささげるところもあります。神さまの恵みによって私たちの日々の生活が支えられていることへの感謝を、ご一緒に新たにしたいと思います。

 

また本日は、日本キリスト教団の暦で謝恩日にあたります。謝恩日は、牧師を隠退された先生方のこれまでのお働きに感謝をする日です。日本キリスト教団ではその感謝の思いを謝恩日献金というかたちで表し、隠退された先生方とご家族の生活をお支えするということをしています。お祈りにお覚え下さい。

 

 

 

ひこばえ(若枝)のビジョン

 

 

「ひこばえ」と聞くと、皆さんはどのようなイメージを思い浮かべるでしょうか。ひこばえとは、切り株や木の根元から生え出た若い芽のことを言います。スクリーンに映しているのは、以前、私が描いた絵です。切り株から芽が萌え出でている様を描いています。聖書では、このひこばえ(若枝)のビジョンが繰り返し登場します。

 最も知られているのは、旧約聖書(ヘブライ語聖書)イザヤ書の言葉でありましょう。イザヤ書1112節《エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち/その上に主の霊がとどまる》。切り株から一つの芽が萌え出で、その根から一つの若枝が育つビジョンが語られています。アドベントやクリスマスの時期に読まれることの多い御言葉です。

エッサイとはダビデ王の父のことです。イザヤ書11章は、ダビデの家系から、メシア・救い主が誕生することを預言しています。ひこばえ(若枝)は、メシア・救い主を象徴するイメージであるのですね。キリスト教は伝統的に、イエス・キリストこそがこのひこばえであると受け止めてきました。

 

同じイザヤ書53章にはこのような言葉もあります。《わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。/乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。…》12節)

《根から生え出た若枝》という表現が出てきましたね。《この人》とは一体誰なのか、諸説あります。キリスト教は伝統的に、この若枝はイエス・キリストのことを指していると受け止めてきました。

 

本日の聖書箇所エレミヤ書2316節も、ひこばえが登場する代表的な箇所の一つです。改めて、56節をお読みいたします。《見よ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え/この国に正義と恵みの業を行う。/彼の代にユダは救われ/イスラエルは安らかに住む。彼の名は、「主は我らの救い」と呼ばれる》。

 このエレミヤ書では、近い将来、神がイスラエルの民のために《正しい若枝》を起こされるというビジョンが語られています。《彼の名は、「主はわれらの救い」と呼ばれる》――。やはりキリスト教会は、伝統的にこの《若枝》なるメシア・救い主がイエス・キリストのことを指し示しているのだと受け止めてきました。

 

 

 

残された切り株 ~イスラエルの民が経験した苦難の歴史

 

 これらの「ひこばえ(若枝)」のイメージの共通点は、木の本体はすでに切り倒されてしまっているということです。木は切り倒され、残されているのは「切り株」だけ。その残りの切り株の根元から、なおも芽を出し枝を伸ばそうとしている存在が、ひこばえであるのですね。この若枝が、近い将来、人々にまことの光をもたらすようになることを預言者たちは伝えます。

 

 この切り株のイメージの背後には、イスラエルの民が実際に経験した苦難の歴史があります。その苦難とは、国家の滅亡です。紀元前8世紀には北イスラエル王国がアッシリアによって滅ぼされ、紀元前6世紀には南ユダ王国がバビロニアによって滅ぼされました。エレミヤが生きていた当時、エルサレム神殿は破壊され、人々は殺され、または離散し、すべてが終わったような現実だけが目の前にありました。切り株は、その悲惨な現実を象徴しています。しかし、そのすべてが終わったように見える現実から、なおも芽を出そうとする存在がある。それが、本日の聖書箇所における《正しい若枝》です。若枝のイメージはそのような苦難の歴史を前提としているものであることを心に留めたいと思います。

 

 

 

《正しい若枝》 ~私たちの苦しみをなかったことにはしないために

 

 この《正しい若枝》は、人々の痛みや悲しみのすべてを受けとめ、その痛みを共にし、そしてその痛みを癒してゆくため、切り株から芽を出そうとしています。このひこばえは、人々の苦しみを決してなかったことにはしない、その決意をもって枝を伸ばさんとしている存在であるのです。

先ほど、私たちキリスト教会はこの《若枝》をイエス・キリストその方として受けとめてきた、ということを申しました。イエス・キリストは、私たちの苦しみを決してなかったことにはなさらない方である、そのために、イエスさまは私たちのところに来てくださる方であるのだと本日はご一緒に受け止めたいと思います。

 

 

 

神さまの《公正と正義》

 

改めて、エレミヤ書235節をお読みいたします。《見よ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え/この国に正義と恵みの業を行う》。

《正義と恵みの業》という言葉を、聖書協会共同訳2018年)は《公正と正義》と訳しています(原語のヘブライ語はミシュパートとツェダカー)。《その日が来る――主の仰せ。/私はダビデのために正しい若枝を起こす。/彼は王として治め、悟りある者となり/この地に公正と正義を行う》。《正しい若枝》は、この地上に神さまの《公正と正義》を行うことが語られています。

 

 神さまの公正とは、何でしょうか。神さまの公正さとは、私なりに表現すると、神さまの目に、一人ひとりが等しく、尊厳ある存在であるということです。神さまの目に、私たち一人ひとりが平等に、かけがえなく、大切な存在であるということ。そこには一切の優劣はありません。

 神さまの正義とは、何でしょうか。神さまの正義とは、尊厳がないがしろにされることを、神さまは決しておゆるしにならないということです。神の目に大切な一人ひとりの生命と尊厳が軽んじられ、傷つけられている現実があるならば、神さまはそれを決して見過しにはなさらない。神さまは、私たちの苦しみを決してなかったことにはなさらない。私たちのために、救いと恵みの業を行って下さる。

なぜならば、神さまの目に、私たち一人ひとりが等しく、尊厳ある、かけがえのない存在だからです。決して失われてはならない存在だからです。

 この神さまの公正と正義を実現するために、この地上にきてくださる方、その方がイエス・キリストです。

 

 

 

いまを生きる私たちの困難な現実

 

 本日は、聖書に登場する「ひこばえ(若枝)」のビジョンを共に共有しました。このひこばえのビジョンの背後には、「切り株」で象徴される、イスラエルの民が経験した苦難があることもご一緒に心に留めました。

 

 切り株で象徴されるような困難な現実、悲惨な現実は、いまを生きる私たちもまた経験しています。ウクライナでの戦争、パレスチナでの戦争もそうでありましょう。ガザ地区では現在、ハマスとイスラエル軍との間で一時的な休戦がなされています。どうぞ一刻も早く停戦へと至り、パレスチナとイスラエル双方の、かけがえのない命がこれ以上傷つけられ、失われることがないよう願います。

 

かつて預言者たちは、イスラエルの中に《正しい若枝》が現れ、神の公正と正義を行い、この地に救いと平和をもたらすことを述べました。いまイスラエルの一部の指導者たちの間では、神の公正と正義が見失われています。平和が失われています。イスラエルの預言者たちが語った《正しい若枝》のビジョンは、一体どこへ行ってしまったのでしょうか。むしろ、私たちが見出すのは、本日のエレミヤ書2316節の前半で語られているような、一部の指導者たちの姿です。エレミヤ書2312節《「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは」と主は言われる。/それゆえ、イスラエルの神、主はわたしの民を牧する牧者たちについて、こう言われる。「あなたたちは、わたしの羊の群れを散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかった。わたしはあなたたちの悪い行いを罰する」と主は言われる》。

 

 私たちが生きる日本の社会においても、切り倒された切り株で表さざるを得ないような、悲惨な状況があります。近くに遠くに、困難な現実があります。私たちはいかにしたら、この困難な現実のただ中に、希望の若枝を見出してゆくことができるでしょうか。

 

 

 

神さまの公正と正義を土台として、希望のひこばえを

 

 次の日曜日から、教会の暦でアドベント(待降節)に入ります。イエス・キリストの誕生を待ち望み、準備を整える時期です。

 アドベントのこの時、《正しい若枝》なるイエス・キリストが実現してくださる神さまの公正と正義に私たちの心を向けたいと思います。

神さまの公正さとは、神さまの目に、一人ひとりが等しく、尊厳ある存在であるということ。神さまの正義とは、生命と尊厳がないがしろにされることを、神さまは決しておゆるしにならないということ。そのために、救いと恵みの業を行ってくださるということ。イエスさまが実現してくださり、いまも行ってくださっている、この神の公正と正義に立ち帰りたいと思います。

 

この神さまの公正と正義を土台として、私たちが目の前の一つひとつの現実に向かい合ってゆくことができますように。そしてこの現実のただ中に、希望のひこばえを見出すことができますように、ご一緒に神さまにお祈りをおささげいたしましょう。