2023年2月5日「「種を蒔く人」のたとえ」
2023年2月5日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:箴言3章1-8節、コリントの信徒への手紙一4章8-16節、ルカによる福音書8章4-15節
「種を蒔く人」のたとえ
いまご一緒にお読みしました聖書箇所(ルカによる福音書8章4-15節)は、「種を蒔く人」のたとえです。よく知られたイエス・キリストのたとえ話の一つです。このたとえ話にはイエス・キリストご自身の解説も付されています。イエスさまご自身の解説によりますと、このたとえ話において、蒔かれた種は「神の言葉」を表しています。蒔かれた場所が表しているのは、「私たちの心」です。
当時のパレスチナの種蒔きは、耕した土の上に振り蒔いてゆくやり方であったそうです。イメージしていただくと良いのは、ミレーの絵『種を蒔く人』です(スクリーンの絵を参照)。種を蒔く人が、種袋から種を掴んで、土の上に勢いよく振り蒔いている姿が描かれています。日本に住む私たちは種蒔きというと、土の中に一粒ずつ、あるいは数粒ずつ植えてゆく様子を思い浮かべることがありますが、本日のたとえ話でイメージされているのは、この絵にあるような、土の上に種を振り蒔いてゆく様子であるのですね。
改めて、「種を蒔く人」のたとえをご一緒に味わってゆきたいと思います。本日たとえ話は次の描写から始まります。8章5節《種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった》。種を蒔いている間に、あるものは土の上ではなく、道端の方に落ちてしまった。種を振り蒔く仕方であるので、このようなことも当然起こったでしょう。
先ほど、蒔かれた種は「神の言葉(御言葉)」を、蒔かれた場所は「私たちの心」を表していると述べました。ここでの《道端》とは、御言葉を受け入れようとしない私たちの心の在りようを表しています。道端は人が行き来する場所であり、植物を育てるのには、そもそも適していません。種が踏みつけられてしまったり、鳥に食べられてしまったりします。そのように、蒔かれた言葉が簡単に失われてしまうのが《道端》です。《道端》とは、神さまの言葉を聞くには聞くけれど、心の中にまでは受け入れようとはしない私たちの心の在りようを示していることが分かります。
続きをお読みします。6節《ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった》。《石地》もやはり植物が育つには適した場所ではありませんが、《道端》との違いは、芽は出しているところです。けれども、水気がないので、根を張ることはできずに枯れてしまいます。この《石地》は、御言葉を聞き、喜んで心の中に受け入れるまではするけれど、それが長続きしない。すなわち、根をはることに至らない私たちの心の在りようを表しています。根がないので、たとえば、何か困難に出会うとその言葉を見失ってしまうのです(13節)。
次に、《ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった》(7節)。《茨の中》に落ちた種は芽を出し、成長はしてゆきます。しかし、茨にさえぎられて、実を結ぶまでには至りません。この《茨の中》とは、《思い煩いや富や快楽》(14節)に覆いふさがれている私たちの心の在りようを表している、とイエスさまはお語りになります。御言葉を聞き入れるまではするけれど、様々な想いに心が覆われて、言葉が実を結ぶまでには至らない、と。
イエスさまは最後に、《良い土地》についてお語りになります。《また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ》(8節)。良い土地に落ちた種は芽を出し、成長して、実を結びます。しかも、百倍もの実を結びます。イエス・キリストからこのたとえ話を聴いたパレスチナの人々の心には、収穫の時期に黄金色に輝く麦畑の様子が浮かんだことでしょう。
この《良い土地》について、イエスさまは《良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである》(15節)と解説しておられます。
《良い土地》とは、私たちの《立派な善い心》を表しています。では、《善い心》とはどのような心の在りようなのでしょうか。後半部分に、《よく守り、忍耐して》という言葉がありました。ここでの「よく守る」には、教えを「守り実行する」意味の他に、「心にとどめておく」意味もあります。自分が聞き入れた神の言葉を、大切に心にとどめ、覚えておく姿勢です。そしていつか、その言葉が実を結ぶことを信頼し、忍耐して待ち望む姿勢です。
いつか必ず実を結ぶことを信頼し、忍耐と希望をもって神の言葉を心にとどめ続ける――この在りようが、本日のたとえ話において《善い心》とされているのだと本日は受け止めたいと思います。
神さまの言葉が「種」として
ご一緒にイエス・キリストの「種を蒔く人」のたとえを振り返りました。改めて面白いと思うのは、神さまの言葉が「種」で表されているところです。植物の種というのは、実を結ぶまで時間がかかるものです。芽を出し、根を張り、茎を伸ばし葉を茂らし、花を咲かせ、そして実を結ぶ。時間もかかるし、様々な成長の段階があります。このたとえ話にあるように、蒔かれた場所によっては、上手く芽を出さないこともあります。途中で枯れてしまったり、実を結ぶまでには至らないこともあるでしょう。しかしそれでも、種を蒔く人は、種を蒔き続けます。神さまはご自身の言葉を種として、私たちの心に蒔き続けて下さっている。
神さまの言葉が、飲んですぐに効果が表れる特効薬のようなものではなく、結果が出るまである一定の期間を要する種で表されているところに、いまを生きる私たちに対する大切なメッセージが含まれていると受け止めることができるのではないでしょうか。
すぐに「結果」や「答え」を求めてしまう私たち
すぐに「結果」を求める、すぐに「答え」が欲しくなる。私たちは日々の生活の中で、よくそのような心境になるものです。いまはインターネットで検索すると、すぐに情報が出てきます。そのように、こちらの求めに対してすぐに何らかの答えが与えられる、結果が与えられることに私たちの心はすっかり慣れてしまっています。
書店のベストセラーの棚や新聞広告を見ますと、「即効性」を謳う本がたくさん並んでいます。「10分でわかる」とか「たちまち効果が出る」、「すぐに役に立つ」「この1冊を読めばすべてが分かる」とか。そのような謳い文句を目にすると、つい手に取ってみたくなる私たちです。それはそれだけ、私たちの日々の生活において、余裕が失われていることの表れであるのかもしれません。ゆっくり待つ、じっくりと考えてみる、それに耐えうる力が一時的に失われてしまっているのですね。常に何かに急かされているような、そのような心境で私たちは日々生活をしています。先ほどのたとえ話で言いますと、種=言葉をしっかりと受け止める力、じっくりと時間をかけて守り育もうとする力が、心から失われている状態ですね。私たちの心から《善き心》が見失われ、一時的に《道端》や《石地》や《茨の中》のようになってしまっている状態です。忙しく余裕がない中で、つい効率重視――即効性のあるもの、すぐに「答え」を示してくれるものを求めてしまう。あるいは、いわゆるコスパ(コストパフォーマンス)の良し悪しで、物事を判断しようとしてしまう。いまの私たちの社会において、蒔かれた種を忍耐をもってとどめ続ける力が弱くなっていることを思わされます。
ネガティブ・ケイパビリティ ~《答えの出ない事態に耐える力》
以前、メッセージの中で「ネガティブ・ケイパビリティ」という言葉をご紹介したことがありました。コロナ下の生活の中で、改めて注目されている言葉です。この言葉を日本に紹介した一人、精神科医・小説家の帚木蓬生(ははきぎ・ほうせい)さんによれば、このネガティブ・ケイパビリティ《答えの出ない事態に耐える力》のことを指しています。《性急に証明や理由を求めずに、不確実さや不思議さ、懐疑の中にいることができる能力》のことです(帚木蓬生『ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力』、朝日選書、2017年、3頁)。このネガティブ・ケイパビリティは「「種を蒔く人」のたとえ」における《良い土地》とつながるものがあるのではないでしょうか。
私たちはこの3年間、すぐには答えが見つからない、難しい状況に直面し続けてきました。そのような中、《「急がず、焦らず、耐えてゆく」力》(同書、本の帯より)の大切さ、言い換えると、ネガティブ・ケイパビリティの大切さに改めて思い至るようにもなりました。問題をすぐに解決する力(問題解決能力)だけが素晴らしいのではなく、今すぐに解決できなくても、何とか持ちこたえてゆく力も私たちにとって欠かせない力であることに気付かされました。
帚木蓬生さんの本の中で、スクールカウンセラーをしている臨床心理士の方にもらった手紙が紹介されています。ネガティブ・ケイパビリティの意義を的確に言い表してくださっている文章であるので、その一部を引用したいと思います(同書、199-201頁)。
《ネガティブ・ケイパビリティの考え方は、現在、生徒指導上の難問が山積みになっている学校現場にこそ必要な視点だと存じます。(略)学校にいますと、ときに指導困難、解決困難な事例に出会うことがあります。そんなとき、誰もが、途方に暮れてしまうことになります。/そのような、どうやっても、うまくいかない事例に出会ったときこそ、この「ネガティブ・ケイパビリティ」が必要となってきます》。
この臨床心理士の先生は、すぐには解決できない問題が山積みの学校現場にこそ、問題解決能力以上に、性急に問題を解決してしまわない能力=ネガティブ・ケイパビリティがあるかどうかが重要であると指摘しています。そして、大人だけではなく、子どもたちの内にもこの力を培う視点が重要ではないかと語ります。
《解決すること、答えを早く出すこと、それだけが能力ではない。解決しなくても、訳が分からなくても、持ちこたえていく。消極的(ネガティブ)に見えても、実際には、この人生態度には大きなパワーが秘められています。/どうにもならないように見える問題も、持ちこたえていくうちに、落ち着くところに落ち着き、解決していく。人間には底知れぬ「知恵」が備わっていますから、持ちこたえていれば、いつか、そんな日が来ます。/「すぐには解決できなくても、なんとか持ちこたえていける。それは、実は能力のひとつなんだよ」ということを、子供にも教えてやる必要があるのではないかと思います》。
たとえいまは解決することができなくても、その不確かな状態に耐えてゆける力を身に着けること、そのことの大切さを思います。そのように耐えている内に、自らの問いや考えがより深まってゆく、ということもあるでしょう。またそして、そのように何とか持ちこたえているうちに、いつか自ずから解決策が見つけるかもしれない。自分なりの答えが見つかるかもしれない。そのことを信じ、忍耐と希望をもって目の前の難しい問題にじっくりと向かい合ってゆくことが重要であることを思わされます。
神さまへの信頼と希望を私たちの内に新たに
《種を蒔く人が種蒔きに出て行った。(略)ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ》。本日はご一緒に「種を蒔く人」のたとえをお読みしました。いつか実を結ぶことを信頼し、忍耐と希望をもって神さまの言葉をとどめ続ける、この心の在りようが、本日のたとえ話における《良い土地》でした。この心の在りようは、いまご紹介しましたネガティブ・ケイパビリティ(《「急がず、焦らず、耐えてゆく」力》)ともつながっているものです。
神さまの言葉は、私たちにとって、すぐに理解のできるものではありません。聖書を読んでいても、むしろ不可解な言葉、よく分からない、不思議な言葉の方が多いものです。そのようにたとえすぐに意味は分からなくても、すぐに答えは出なくても、その言葉を大切に心にとどめ、思い巡らし、自らの内でゆっくりと深めてゆく姿勢が大切であるのでしょう。種が芽を出し、実を結ぶまでには、時間がかかります。しかしきっと、芽を出し、実を結ぶ時が来る。他ならぬ神さまが、その時をも用意してくださっている――その信頼と希望を私たちの内に新たにしたいと思います。