2023年3月12日「受難と復活の予告」
2023年3月12日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:イザヤ書63章7-14節、テモテへの手紙二2章8-13節、ルカによる福音書9章18-27節
東日本大震災と原発事故から12年
昨日3月11日、東日本大震災と原発事故から12年を迎えました。皆さんも震災当時のことを改めて思い起こし、祈りをささげられたことと思います。
本日は午後から、新生釜石教会を会場として、奥羽教区主催・東日本大震災12年を覚えての礼拝をおささげします。礼拝メッセージを柳谷雄介先生が担当してくださいます。YouTubeでライブ配信もしますので、お時間のある方はぜひご参加ください。
震災から12年が経ちましたが、いまも多くの方が困難の中、深い悲しみや痛みの中にいます。原発事故による甚大なる影響と被害は、いまも現在進行形で続いています。多くの方が故郷を失い、避難の余儀なくされています。そのような中、政府は原発回帰へと政策を急速に転換しようとしています。原発の新設や運転期間の延長を容認、福島第一原発の処理水(汚染水)の海洋放出の計画を強硬に推し進めようとしています。原発事故という未曽有の人災の記憶が隅に追いやられ、放射能が私たちの命と生態系にもたらす深刻なる影響もまるで「ない」ことにされている現状があります。
昨年の1月27日から、「311子ども甲状腺がん裁判」が始まっています。原発事故による放射線被ばくの影響で甲状腺がんになったとして、当時子ども(幼稚園から高校生)であった7名の若者が、東電に対して損害賠償を求めている裁判です。原発事故による放射線被ばくの健康被害を訴える集団訴訟が起こされたのはこれが初めてのことであり、私たちの社会全体にとって、非常に重要な裁判です。3月15日(水)には第5回口頭弁論が開かれます。放射線被ばくの健康被害が認められ、原告の皆さんをはじめ甲状腺がん患者の方々に確かな補償がなされ、その尊厳が回復されますようにと願います。どうぞ私たちの社会が一人ひとりの生命と尊厳をまことに大切にする社会となってゆきますように、そのために自分にできることを祈り求めてゆきたいと思います。
東日本大震災と原発事故を覚え、また、この度のトルコ・シリア大地震で被災された方々を覚え、これからもご一緒に祈りを合わせてゆきたいと思います。
受難と復活の予告
「イエス・キリストとは誰ですか」。このように聞かれたとき、皆さんはどうお答えになるでしょうか。その答えは、人それぞれ違うでしょう。ある人にとっては「神の子」「救い主」であるしょう。ある人にとっては「生き方の指針となる人」かもしれません。またある人にとっては単に世界史の教科書に出てくる「歴史上の人物」であるかもしれません。
イエス・キリストが生きておられた当時も、イエスさまに対して様々なことが言われていました。ある人は「洗礼者ヨハネだ」と言い、ある人は「預言者エリヤだ」と言い、またある人は「昔の預言者の生き返り」であると言っていたことが本日の聖書箇所には記されています(ルカによる福音書9章19節)。イエスさまに対して、人々から様々な評判が立てられていたのですね。中には、根拠のないうわさ話や誹謗中傷も混ざっていたことでしょう。
イエスさまは弟子たちから人々が自分のことをどのように言っているのかをお聞きになった後、「では、あなたがたはわたしを何者だと言っていますか」とお尋ねになりました(20節)。イエスさまのこの問いに対し、弟子のリーダー格であるペトロという人物は、「神からのメシアです」と答えました。
メシアとはヘブライ語で「油注がれた者」という意味をもつ言葉で、後に「救い主」という意味で用いられるようになった言葉です。このメシアのギリシア語訳が「キリスト」です。ですので、ここでペトロはイエスさまに対して「あなたはキリスト、救い主です」と答えたことになります。
「あなたはキリスト、救い主です」。一見、ペトロはふさわしい答えをしたように見えます。しかしイエスさまはペトロのその答えを聞いて、このことをだれにも話さないようにと命じられました。そして、次のようにおっしゃいました。《人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている》(22節)。これからご自分は多くの苦しみを受け、宗教的な権力者たちから排斥されて殺されることを予告されたのです。そして、三日目に復活することをも予告されました。
ペトロが期待する救い主像 ~政治的な救世主
「あなたは救い主です」と答えたペトロは、非常に困惑したのではないでしょうか。というのも、そのときペトロが頭に思い描いていた救い主像というのは、多くの苦しみを受けたり、権力者たちから排斥される存在ではなかったからです。ましてや、殺されてしまうなんて、とんでもない、そんなことは絶対あってはならないことだと感じたことでしょう(参照:マタイによる福音書16章22節)。
そのときペトロが頭に思い描いていた救い主像というのは、「政治的な救い主としてのキリスト」であったようです。その意味で、ペトロは「救い主」という言葉を用いていたのですね。当時、イスラエルは強大なローマ帝国の支配下にありました。いわば属国的な位置にあり、当時はローマの支配から独立しようという動きが高まっていた時代でした。そのような中、たくさんの人々がイエスさまに対して、イスラエル民族をローマの支配から解放してくれる「政治的な救世主」の役割を期待していました。「あなたはキリストです」というペトロの告白はその願いが吐露されたものであると受けとめることもできます。
ペトロの返答に対してイエスさまがうなずくことはなさらなかったのは、ペトロたちの熱いまなざしに、一方的な期待や願望を読み取っておられたからではないでしょうか。ペトロたちがイエスさまに熱烈に期待している事柄と、イエスさまご自身が実際にこれから成し遂げようとしている事柄とは、大きくかけ離れているものであったのです。
《人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている》。イエスさまのこの言葉は、ペトロにとって理解のできない、恐れを感じさせる言葉であると共に、期待外れの言葉であったでしょう。それは、師であるイエスさまに対して、心のどこかではじめて落胆を感じた瞬間であったかもしれません。その後、その落胆は心の中で抑えきれなく膨らんで失望や疑念へと変わってゆき、そしてイエスさまが逮捕された夜、イエスさまを「そんな人は知らない」と否む言動(ルカによる福音書22章54-62節)へとつながってゆくこととなります。
人に期待を押し付けてしまうこと
このペトロの姿を思う時、これと通ずることは私たちの日々の生活の中でも起こっているのではないかと思わされます。人に対して過剰な期待を抱いてしまったり、一方的に自分の願望を投影してしまったり……。いやむしろ、私たちは注意していないと、絶え間なくそのようなことを人に対してしてしまうものなのではないでしょうか。家族に対して、友人に対して、職場の人に対して、「~してほしい」「~のような人であってほしい」と私たちはつい相手に自分の期待を押し付けてしまうものです。
そのとき、私たちは相手のことを思って自分は期待をかけているのだと思っていますが、実際は「相手のため」ではなく「自分のため」であることが多いものです。そして、相手が自分の意に添うように振る舞わなければがっかりし、怒りを感じてしまうのです。
私たちは誰かに一方的に自分の期待を押し付けてしまってはいないか、折に触れ立ち止まり、自分の心を見つめてみることが求められています。
人の期待に応えようとしてしまうこと
私たちは人に期待を押し付けることもありますし、また、人から期待を押し付けられることもあります。「~してほしい」「~のような人であってほしい」と誰かから期待されることも、日々の生活の中で絶えず起こっているのではないでしょうか。そのような時、私たちはつい相手の期待に応えようとしてしまうことが多いものです。本当は嫌でも、気が進まなくても、相手の期待に応えようと振る舞ってしまうのです。
誰かの期待に応えて生きようとするとき、しかし、私たちは心の奥底では辛さや苦しさを感じています。そこでは、「自分がどうしたいか」ということが失われているからです。自分の本当の気持ちが犠牲にされているからです。自分の気持ちを無視して人の期待に応え続けようとするあり方は、私たちにとってとても苦しいものでありましょう。
私たちは他者に自分の期待を押し付けてはならないし、同時に、他者から期待を押し付けられてもならない。もしも私たちがいま、誰かからの想いを押し付けられ、自分を犠牲にして人の期待に応えようとしているとしたら、立ち止まり、そのあり方を見つめ直す必要があるでしょう。
「自分がどうしたいか」を大事にすることは、決して我がままなことではありません。「自分がどうしたいか」を尊重することができたとき、私たちは「人がどうしたいか」も尊重することができるようになってゆくのではないでしょうか。
自分の想いを手放してゆく
改めてご一緒に本日のイエス・キリストの言動に心を向けてみたいと思います。イエスさまは周囲の期待にご自分の生き方を合わせることをなさいませんでした。ご自分に向けられるその期待がどれほど強いものであっても、大切な弟子からのものであっても、大勢の人々が切に待ち望んでいる事柄であっても、それらの期待に自分の生き方を合わせることはなさいませんでした。毅然として、自分の歩むべき道――十字架と復活の道――を歩んでゆかれました。福音書は、「人の期待に自分を合わせる生き方をなさらなかった」イエス・キリストのお姿を私たちに指し示しています。
本日の聖書箇所において、イエスさまは続けて、その場にいた皆に次のように呼びかけられました。《わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい》(23節)。
《自分を捨て》という言葉は、誤解されやすい言葉であるかもしれません。解釈の仕方によっては、「自分を犠牲にする」「自分の気持ちを犠牲にして、周囲の期待に応える」ことが勧められているようにも取れるからです。これまでのキリスト教の歴史において、実際そのように解釈されてきたこともあったでしょう。他者のために生きるということはもちろん大切なことです。けれども、自分を大切にしないで、どうして私たちは人を大切にすることができるでしょうか。
ここでの《自分を捨て》という言葉を、本日は、「自分の想いを手放して」という意味に受け止めてみたいと思います。どのような自分の想いを手放してゆくのか、それは「他者に期待を押し付けようとする自分の想い」であり、「他者の期待に応えようとする自分の想い」です。それら想いを少しずつ手放してゆくこと、解き放ってゆくこと、そのことが勧められているのだと受け止めたいと思います。そのためには、「自分の気持ちを犠牲にする」のではなく、むしろ、「自分の気持ちを大切にしてゆく」ことが不可欠です。
他の誰のものでもない、《自分の十字架》を担って
《自分の十字架を背負って》とイエスさまはおっしゃっています。この言葉も様々な解釈ができる言葉であるでしょう。重要だと思うのは、イエスさまが私たちのまなざしを「自分自身」に向けるよう促してくださっている点でありましょう。あの人が、でもなく、この人が、でもない。他ならぬ、「この私」のあり方がここで問われています。《自分の十字架》とは、私たち一人ひとりに与えられている重荷であると同時に、何らかの使命であると受け止めることができるでしょう。
この使命は、私たちの心の深くに宿された願いから生じています。私たちは自分の心の奥に宿された願い、自身の本当の気持ちを知ることを通して、自分に与えられた使命を理解してゆくことでしょう。「自分がどうしたいか」「心から何を願っているのか」を問い続けることを通して、私たちは自分がなすべき使命についてより深く理解してゆくのです。《自分の十字架》を担うことができるのは、自分自身だけです。誰も、何者も、これを私たちから取り上げることはできません。
もしかしたら、その《自分の十字架》を担おうとする日々の中で、様々な苦しみに出会うことがあるかもしれません。自分の言動が周囲から理解されなかったり、思わぬ誤解が生じてしまったり、時には攻撃を受けたり、対立関係が生じたりすることもあるかもしれません。しかしその苦労も、苦しみもまた、私自身のものです。
そして、苦しみの中にあっても、それでもなお、私たちの心の奥底にまことの願いは燃え続けていることを私たちは知っています。このまことの願いは、最も深きところではすべての、一人ひとりの願いとつながっています。イエス・キリストの願い、神さまの愛とつながっているのだと信じています。
キリスト教は「神の御心(願い)が大事」だと伝えます。それは確かにその通りです。ただし、これからの私たちは、もはや自分の心を犠牲にして神の御心を尋ね求めるのではなく、自分の心を大切にすることを通して、神の御心と出会ってゆくようにと招かれています。
どうぞ私たちが他の誰のものでもない《自分の十字架》を担って、自分自身の人生を一歩一歩、生きてゆくことができますようにと願います。