2023年3月26日「『ぶどう園と農夫』のたとえ」

2023326日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:哀歌1114節、ヘブライ人への手紙5110節、ルカによる福音書20919

「ぶどう園と農夫」のたとえ

 

 

本日は2022年度の最後の礼拝となります。次週から、また新しい年度が始まります。4月から新たな環境で学校生活や仕事をスタートする方もいらっしゃることでしょう。ここに集ったお一人おひとりの上に、神さまの祝福が豊かにありますようお祈りいたします。

 

 

当時の宗教的・政治的な権力者 ~律法学者、祭司長たち

 

私たちは現在、教会の暦で受難節の中を歩んでいます。受難節はイエス・キリストのご受難と十字架を心に留めて過ごす時期です。そして49日(日)、私たちはイエス・キリストの復活を記念するイースターをお迎えします。

 

 イエス・キリストの受難と十字架の道行きが描かれた物語を、受難物語と言います。福音書でも多くの分量がこの受難物語に割かれています。受難物語には、イエス・キリストを死に追いやった存在として、律法学者や祭司長と呼ばれる人々が登場します。当時のユダヤ社会の宗教的・政治的な指導者たちです。本日の聖書箇所にも律法学者、祭司長たちが出て来ましたね。

 

イエスさまが生きておられた時代、社会の中で宗教的・政治的に最高の権力をもっていたのが「最高法院」という自治機関でした。トップの議長の座にいるのは大祭司、そしてその議会の構成員であったのが、祭司長、長老、律法学者たちでした。

最高法院は、エルサレム神殿の「石切の間」と呼ばれる部屋を議場としていました。主な働きは国民の宗教生活を監督することでしたが、その他にも民事や刑事を処理する権限も持っていました(参照:『新共同訳 聖書辞典』)。福音書の受難物語は、イエス・キリストはこの最高法院の策略によって逮捕されたことを語っています(ルカによる福音書226671節)。無実であるにも関わらず、当時の権力者たちによって逮捕され、裁判にかけられたのです(ルカによる福音書226671節)。そうしてローマ総督ポンテオ・ピラトのもとに引き渡され、死刑を宣告されました(ルカによる福音書2315節)。罪状は、「ユダヤ人の王を自称し、民衆を扇動しようとした罪」、言い換えれば、ローマ帝国への反逆罪でした。もちろん、これは冤罪でした。権力者たちの策略によってイエスさまが処刑されたのは紀元30年頃と考えられています。

 

 

 

なぜイエス・キリストは攻撃されたのか

 

 なぜ律法学者や祭司長たちはイエス・キリストを執拗に攻撃し続けようとしたのでしょうか。事実ではない罪状を捏造までして処罰しようとしたのでしょうか。様々な要因が考えられるでしょう。イエスさまの革新的な言動が冒涜的であると感じたからかもしれません。人々から熱い支持を受けるイエスさまに対する妬みや嫉妬もあったかもしれません。また大きな理由の一つとして、イエスさまから率直に問題点を批判されたということもあったのではないでしょうか。福音書には、イエスさまが当時の権力者たちを臆することなく批判される姿が記されています。

 

最高法院とそれに属する指導者たちは、当時、神殿の権威を利用して人々を支配し、人々の財産を搾取していました。本来、すべての人の祈りの家であるべき神殿で、貧しい人々が不当に搾取されているという現状があったようです。またそして、神殿の外で助けを求める人々の存在は顧みられることはありませんでした。イエスさまはその現状を御覧になり、深く嘆かれました。福音書の中には「あなたたちは神殿を強盗の巣にしている」という、権力者たちに対するイエスさまの痛烈な批判の言葉も記されています1946節)。このようなイエスさまの言動を受けて、律法学者や祭司長たちはイエスさまを攻撃し、殺害する計画を立てるようになったのです。

 

 

 

「ぶどう園と農夫」のたとえ 

 

本日の「ぶどう園と農夫」のたとえ20919節)にも、律法学者や祭司長たちに対するイエスさまの批判が込められています。このたとえ話では農夫たちの暴徒化してゆく様子が描かれています。借りているぶどう園を自分たちのものにしようとし、主人が遣わした僕に暴力を働き、殺してしまう。暴走してゆく農夫たちは、実は、暴走している権力者たちを暗に指し示しているものでした。主人から与えられているぶどう畑を私物化する様子は、神から与えられているエルサレム神殿を私物化していることの批判、主人が遣わした僕に暴力を振るう様子は、神が遣わした僕に暴力を振るっていることの批判が込められていたのです。実際、その後彼らはイエスさまを十字架刑によって殺害することとなります。

 

律法学者や祭司長たちはイエスさまが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたことを気づき、手を下そうとしましたが、民衆の反応を恐れてその場から立ち去ってゆきました19節)

 

 

 

「過ちを過ちとして認めない」姿勢

 

 この場面を読んでも分かりますように、律法学者や祭司長たちはイエスさまから問題点を指摘されても、自分たちの過ちを認めることはありませんでした。むしろ激しく憤り、イエスさまをさらに執拗に攻撃してゆくようになってゆきます。「過ちを過ちとして認めない」当時の権力者たちの姿勢が、やがてイエスさまを十字架の死に追いやってゆきます。受難物語はその様子を克明に描き出してゆきます。

 

このことはかつて、2000年前にパレスチナで起こった出来事であると同時に、私たち自身にも起こり得ること、かたちを変えて日々起こっていることであると思わされます。

私たちには、過ちを指摘されたとき、それを必死に否定しようとすることがあります。私たちにとって、自分の非を率直に認めることはなかなか難しいものです。場合によっては、そのためにむしろ相手を攻撃してしまうこともあるでしょう。そして、過ちを過ちと認めない姿勢は、神さまと隣人との関係をだんだんと壊して行ってしまうものです。

 

 

 

自分の問題と向き合わないようにするために他者を攻撃すること

 

「あなたが悪い」と誰かを責めているとき、私たちは自分の問題と向き合わないようにするために、そうしていることがあります。自分自身の課題や問題と向き合わないようにするために、他者を攻撃しているのですね。誰かを攻撃している間は、自分の問題に向き合わずに済むからです。そしてその瞬間は、自分の「正しさ」や自分の優位性を感じることができるからです。私たちは日々の生活において、意識してあるいは意識しないで、そのような言動をしてしまうことがあるでしょう。また、誰かからそのような不当な攻撃の対象となってしまうこともあるでしょう。

 

律法学者や祭司長たちもそうだったのではないでしょうか。なぜ彼らはあれほどまでに執拗にイエスさまを攻撃し続けたのか。イエスさまを攻撃している限り、自分たちの問題に向かい合わなくても済むからです。最高法院の深刻な現状、自分たちの目の前に山積する様々な問題……イエスさまに問題の原因のすべてを押し付けることで、それらの問題から目を背け続けることができるからです。

 

律法学者や祭司長たちは、「人を攻撃せずにはいられない」私たち自身の姿を映し出していると受け止めることもできます。

 

 

 

過ちを認めることの恐怖

 

また、そのように人を攻撃してしまう心理の奥底には、恐怖があるのかもしれません。過ちを認めることの恐怖です。過ちを一つでも認めてしまうと、自分がこれまで構築してきた世界がすべて崩れてしまう。その強い不安と恐れがあるので、どうしても過ちを認められないという状況に陥ってしまうこともあるでしょう。

 

律法学者や祭司長たちにとってもそうだったのかもしれません。自分たちの過ちを認めることは、最高法院およびエルサレム神殿を中心とする社会の構造に非を認めることにつながってしまう。それは秩序の崩壊、社会のシステムの崩壊、さらにはエルサレム神殿そのものの崩壊を意味するものに思われ、絶対に認められないものであったのかもしれません。

決して過ちを認められないとするなら、なすべきことはただ一つ。過ちを指摘する厄介な存在を、自分たちの社会から排斥することです。

 

 

 

関係性を新しく構築する「礎」として

 

本日の「ぶどう園と農夫」のたとえ話の最後に、次のイエスさまの言葉が記されています。《家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった17節)。これは旧約聖書(ヘブライ語聖書)の詩編1182223節)からの引用です。必要のないものとして捨てられた《石》が、新しく建てられる家の「礎(親石)」となったという言葉です。教会では伝統的にこの《隅の親石》は、十字架刑によって殺され、そしてよみがえられたイエス・キリストを指し示していると捉えてきました。

 

「過ちを過ちと認めない」人々から攻撃され、殺されてしまったイエス・キリスト。当時の社会から、「捨て石」にされてしまったイエス・キリスト。しかし、このイエス・キリストが、私たちの関係性を新しく構築する「礎(親石)」としてよみがえることがここで予告されています。すなわち、十字架の死より三日目に復活されることです。

イエス・キリストの復活――私たちが神と隣人との関係を新しく構築することができるようになるために。この世界を、新しく創造するために。そして私たちが、不安と恐れの中で苦しんで生きるのではなくて、愛と平和の中で喜びをもって生きてゆくことができるようになるために。

 

 

 

《わたしのまちがいだった/わたしの まちがいだった》

 

クリスチャンで詩人の八木重吉さんが書いた「草に すわる」という詩があります。

 

《わたしのまちがいだった

 わたしの まちがいだった

 こうして 草にすわれば それがわかる》

 (詩集『秋の瞳』所収)

 

 ここでの《草》は様々な意味で捉えることができるでしょう。本日の聖書箇所と結びつけるなら、イエス・キリストという「礎」として受け止めることもできるでしょう。私たちはイエス・キリストという礎(土台)に立ち帰ることによって初めて、自らの過ちを受け入れることができるようになります。イエスさまの十字架と復活を通して現わされた、神さまの大いなる愛に抱かれるとき、私たちは自分が犯してきた過ちについても、初めて腑に落ちます。「わたしのまちがいだった/わたしの まちがいだった」、と――。この瞬間は、むしろ、自分を苦しめ続けてきた重荷から、解放された瞬間であるといえるのではないでしょうか。

 

私たちの犯してしまった過ちより、イエスさまの愛ははるかに大きなものです。このイエスさまの愛に覆われることのない過ちは、存在しません。

 

 

 

新しい世界の「はじまり」

 

私たちの心の中にはいまもどこか、過ちを認めてしまえば「お終い」だと思っているもう一人の私がいるかもしれません。過ちを一つ認めてしまえば、崩壊が始まる、それは何としても避けなければならない、と。

確かにそれは一つの「終わり」であるかもしれません。しかしそれはあくまで、過ちを過ちとして認められない状態の終焉です。これまで築いてきた自分自身の神殿が崩壊するに過ぎないのであり、すべてが終わってしまうのではありません。むしろ、そこからまた新しい時が始まってゆきます。イエス・キリストの愛と平和を土台とする、新しい世界の「はじまり」です。そのとき、私たちは、神さまと隣人との関係を新しく創造し直すための出発点に立っています。私たちには何度でも、再出発する道が必ず備えられていることは、聖書が力強く語っている真理です。

 

 

死より復活されたイエスさまはいつも私たちの傍らにいて、キリストの愛と平和に立ち帰るよう呼びかけ続けて下さっています。《キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです(コリントの信徒への手紙二517節)――。いま共にイエスさまの礎に立ち還り、ここから、神さまと隣人との関係を新しく創り出してゆきたいと願います。