2023年4月2日「本当に、この人は正しい人だった」
2023年4月2日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:イザヤ書56章1-8節、ヘブライ人への手紙10章1-10節、ルカによる福音書23章32-49節
受難週
私たちは現在、教会の暦で受難節の中を歩んでいます。受難節は、イエス・キリストのご受難と十字架を心にとめて過ごす時期です。今週は特に、受難節の最後の週の受難週に当たります。6日の木曜日には洗足木曜日礼拝を行い、7日の受難日の金曜日には受難日祈祷会を行う予定です。ご都合の宜しい方はぜひご参加ください。
十字架上の七つの言葉
イエス・キリストの「十字架上の七つの言葉」と呼ばれる言葉があります。四福音書に記されたイエス・キリストの十字架上の言葉を集めたものです。イエスさまがご生涯の最後に発された、七つの言葉ということになります。教会によっては、受難日の金曜日にこれらの七つの言葉についての説教がなされ、黙想をする集会が行われることもあります。
伝統的に十字架上の七つの言葉とされてきたのは、以下の言葉です。一《父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです》(ルカによる福音書23章34節)。
二《はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる》(同23章43節)。三《婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。……見なさい。あなたの母です》(ヨハネによる福音書19章26-27節)。四《わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか》(マルコによる福音書15章34節、マタイによる福音書27章46節)。五《渇く》(ヨハネによる福音書19章28節)。六《成し遂げられた》(同19章30節)。七《父よ、わたしの霊を御手にゆだねます》(ルカによる福音書23章46節)。
皆さんの心の内に特に強く刻まれているのはどの言葉でしょうか。これらの七つの言葉一つひとつに、汲みつくすことのできない深いメッセージが込められていることと思います。
福音書によって書き残している言葉が異なっていることにも、重要な意味があります。もちろん、福音書が事実とは異なることを書いているということではありません。福音書を記した著者それぞれが、自分の信仰にとって特に重要であると思われる十字架上の言葉を選び取って、福音書の中に刻んだのだと受け止めることがふさわしいでしょう。
ルカ福音書に記された十字架上の三つの言葉
では、本日の聖書箇所であるルカによる福音書23章32-49節には、七つの言葉のうちのどの言葉が記されていたでしょうか。第一の言葉《父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです》(34節)、第二の言葉《はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる》(43節)、そして第七の言葉《父よ、わたしの霊を御手にゆだねます》(46節)です。七つの言葉のうち、三つがルカ福音書からの言葉であることになります。
第一の言葉《父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです》は、イエス・キリストが十字架上で、アッバ(父)なる神に対しておっしゃった言葉です。イエスさまはご自分を十字架の死に追いやった人々への赦しを願われました。極限の苦しみの中で、それでも敵を愛し、ご自分を迫害する者のために祈られた(6章27-28節)イエスさまのお姿をルカ福音書は証ししています。
またそして、私たちはここに私たち一人ひとりの罪を赦してくださる救い主なるイエス・キリストのお姿を見出すことができます。イエスさまを十字架に追いやったのは、他ならない、私たち一人ひとりである――そのようにキリスト教は受け止めてきました。ここでの《彼ら》とは、他ならない、この私たち一人ひとりであるのだ、と。自分の過ちを認識できない、過ちを過ちと認めることができない私たちのために、イエスさまは十字架上で神さまに対して赦しを願って下さいました。
第二の言葉は、イエスさまが十字架上で、同じく隣で十字架刑に処せられている男性と交わされた言葉です。男性が《イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください》と願うと、イエスさまは《はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる》とおっしゃいました。
このイエスさまの宣言は、この男性に対してだけではなく、いつか死を迎える私たち一人ひとりに対して語られているものとして受け止めることができるでしょう。私たちがこの生涯を終える時、イエスさまは私たちの存在を忘れることなく、必ず神さまのもとへ伴ってくださる。その命の約束を、私たちキリスト教は信じ続けてきました。
そして第七の言葉《父よ、わたしの霊を御手にゆだねます》はイエスさまが十字架上で息を引き取られる際に発された言葉です。イエスさまは《父よ、わたしの霊を御手にゆだねます》と大声で叫んで息を引き取られたとルカ福音書は記します。最期の瞬間まで――十字架の死に至るまで、神さまの前に謙遜、従順であったイエスさまのお姿をルカ福音書は証ししています。このため、神さまはイエスさまを高く上げ、《あらゆる名にまさる名》をお与えになりました(フィリピの信徒への手紙2章8-9節)。
《本当に、この人は正しい人だった》
十字架のもとには、一人の人が立っていました。ローマの百人隊長です。十字架刑を監視する役割を担っていた百人隊長は、この十字架上のイエスさまのお姿を見て、《本当に、この人は正しい人だった》と言って神を賛美したとルカ福音書は記します(47節)。
ちなみに、マルコによる福音書とマタイによる福音書では百人隊長の言葉は《本当に、この人は神の子だった》(マルコによる福音書15章39節、マタイによる福音書27章54節)で、ルカ福音書とは違いがあります。この相違が意味することについては、また機会を見つけてお話しできればと思います。
《本当に、この人は正しい人だった》――ルカ福音書においてはここで、「正しい人間」だということに強調点が置かれていることになります。《正しい人》とはどのような人でしょうか。それが、先ほどのイエスさまの最期の言葉に最もよく表されていると受け止めることができます。《父よ、わたしの霊を御手にゆだねます》。へりくだり、十字架の死に至るまで従順であられたイエスさまを、ルカ福音書はまことの《正しい人だった》と証します。
「ファリサイ派と徴税人」のたとえ
このことは、反対に、ルカ福音書において「正しくない」あり方はどのようなものとして記されているかを参照すると、より分かりやすくなるでしょう。たとえば、ルカ福音書の中には次の一文があります。《自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。…》(18章9節)。ここでは、自分は「正しい人間だ」とうぬぼれている人、そうして他人を見下している人が、むしろ正しくないあり方に陥っているのだと語られています。そのことを伝えるために、続けてイエスさまがお語りになった「ファリサイ派と徴税人」のたとえ話も参照してみましょう。
《「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。/ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。/わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』/ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』/言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」》(18章10-14節)。
このたとえ話では二人の人が祈るために神殿に上っています。ファリサイ派の教師と、人々から税を徴収する任をもつ徴税人です。ファリサイ派の教師は、感謝の祈りをささげるわけですが、その祈りは「『神さま、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。/わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています』というものでした。この人物は、「自分は正しい人間」だと誇っているだけではなく、自分以外の人々、とりわけ徴税人たちを見下していることが分かります。一方、徴税人は遠くに立って、目を天に上げることもできず、胸を打ちながら「神さま、罪人のわたしを憐れんでください」と祈ります。神さまに良しとされて帰ったのは周囲から「罪人」とされている徴税人の方であって、ファリサイ派の人ではない、とイエスさまはお語りになり、《だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる》とたとえ話を結ばれます。
このたとえ話にもあるように、神さまの前に心がへりくだっていることと正しさとが深い関係があるものとして捉えられていることが分かります。
まことの「正しい方」はイエス・キリストお一人
私たちは大きな困難に直面したとき、心が穴底に落ち込んでしまったような心境になることがあります。あるいは、過ちを犯してしまったとき、心が打ち砕かれた状態になることがあるでしょう。そのように、のっぴきならない状況の中で、「自分は正しい人間だ」と思うことすらできない時。そのとき、私たちは少なくとも、「自分は正しい人間」だと誇って他の人を見下している時よりも、神さまの正しさに近づいていると言えるでしょう。
と同時に本日ご一緒に心に留めたいのは、まことの「正しい方」は、イエス・キリストお一人であるということです。私たちはイエスさまの後に従い、その生き方に学び続けることで、少しずつでもその正しさに近づいてゆこうとすることはできるでしょう。けれどもイエスさまと同じ正しさにまで至ることは決してありません。気が付けば、自分と他者とを比較し、他者より優位に立とうとしてしまう私たちです。置かれた状況が良くなると、また容易に高ぶりの状態に戻ってしまう私たちです。私たちはその都度、イエスさまの正しさに立ち帰ろうとすることが大切であるのでしょう。
そのイエスさまの正しさは、イエスさまの生全体、イエスさまの言葉と振る舞い、そしてイエスさまの十字架に表されています。
イエスさまのまことの正しさに心を向けて
イエスさまは神の子であるにも関わらず、私たちと同じ場所まで降りてきてくださいました。私たちと同じ人間としてお生まれになり、布にくるまれ、冷たい石の飼い葉桶に寝かせられました(2章6節)。私たちと同じ場所、いや、私たちよりさらに低き場所で、私たちのために祈り、共に呻き共に喜び、共に生きて下さいました。
そしてご生涯の最期、十字架の上で、《父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです》と祈ってくださいました。過ちを犯さざるを得ない、いや、過ちを過ちと認識することさえできない私たち一人ひとりのために。そのイエスさまの正しさを通して、この世界に神さまの愛が現わされました。
また、十字架の上で、イエスさまは私たち一人ひとりに対して、《はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる》と宣言してくださいました。そのイエスさまの正しさを通して、神さまの命の光が現わされました。
そして、十字架の上で、神さまにすべてを委ね、《父よ、わたしの霊を御手にゆだねます》と大声で叫んで息を引き取られました。そのように、正しい生――神さまを前にした謙遜・従順をまっとうされたイエスさまは、神さまによって、神の右の座にまで高く引き上げられました。そのことを最後に記して、ルカ福音書は筆を置きます。それが、昇天の出来事です。《イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。/そして祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた》(24章50節)。ルカ福音書における最大の出来事であるこの昇天もまた、イエスさまこそ正しい方であることを私たちに示しています。
本日は十字架上の七つの言葉、特にルカ福音書に記された十字架上の三つの言葉を共に聴きました。《本当に、この人は正しい人だった》――。受難節のこの時、イエスさまが示し続けて下さっているまことの正しさに心を向け、そしてこの御子の正しさを通して現わされた神さまの愛と命の光に私たちの心を向けたいと思います。